「ほんのちょっとの希望しかない」シリアにて しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
ほんのちょっとの希望しかない
シリア内戦を描いた映画の公開が続いている。
「ラッカは静かに虐殺されている」「娘は戦場で生まれた」を観たが、これらはドキュメンタリーで、リアルゆえの凄みがあった。
一方、本作はフィクションである。
舞台はシリア内戦下の、あるアパートメントの一室。
そこにはオームと彼女の3人の子どもと義父、住み込みの家政婦が住んでいる。オームの夫は不在だ。
そこに、同じアパートメントの住民で、爆撃によって自分の部屋には住めなくなったハリマと彼女の夫、そして赤ちゃんが身を寄せている。
そして家に帰れなくなったオームの娘のボーイフレンドもそこに。
朝、物語の冒頭、ハリマの夫が、出掛けてすぐにスナイパーに狙撃されてしまう。
そう、窓ガラスの向こうは戦場。近くで響く爆発音。しかし家には女性と子どもと老人しかいない状態だ。
カメラはほとんど家から出ない。登場人物たちが、家から出られないからだ。
つまり、息詰まる密室劇。
そしてカメラは家の中を動き回る。玄関、ベランダ、浴室、キッチン、リビング、ハリマの居室など。すべての部屋が、重要なエピソードの舞台となり、無駄なく意味を持つ。まったく隙のない脚本には感嘆するしかない。
そして、この隙のなさが全編を通じて緊迫感を高めている。
内戦ゆえ、誰が味方か分からない恐怖さえも、来客の恐怖という形で、家の中だけで描く。この脚本の密度に唸る。
本作が描くのは、そのアパートメントの朝から夜までで、ずっと極度の緊張状態が続いていく。
カメラはほとんどの画面で人物の表情を捉える。登場人物たちは常に死の恐怖にさらされていて、怯え、苛立ち、パニックになり、泣き叫ぶ。つまり、エンドレスのサスペンス。クローズアップに耐える役者たちの演技も見事だ。
地獄だ、と思った。
たった1日がこれほど過酷なら、ここで暮らす人々の生活は、命は、精神はどうなってるのか。
戦争映画が描く過酷さの舞台の多くは戦場だ。
しかし、内戦は、市民の暮らす町が戦場となる。こうした悲惨さを、本作は容赦なく描き出す。
ラスト近く、オームに夫の携帯から着信が入るのだが、すぐに切れてしまう。掛けてきたのが夫かどうかすら分からない。
着信があったこと自体は救いだが、話すことも、無事を確認することすら叶わない。
希望は、ほんの少ししかない。
アパートメントの前に倒れていたハリマの夫は息があり、助け出すことが出来た。だが、このとき、スナイパーはハリマを撃たなかった。昼間に、この家を襲った男たちがスナイパーなのだとしたら、彼らは、また家に来る、ということだ。
そしてハリマの夫が助かるかどうかも分からない。
ここでも、希望はごく僅かだ。
たった、これしかない希望。ほとんど救いがない。
そう、内戦に巻き込まれた市民たちの状況は過酷で悲惨であり、そこには、ほんのちょっとの希望しかないのだ。
これが内戦下のシリアなのだ。
そこは遠い国かもしれない。しかし、ガスキッチンで料理を作り、リビングに大画面テレビを置き、ネットで情報を調べ、スマホを使う。
そこで営まれている暮らしは、僕たちとほとんど変わらない。
映画は夜のシーンで終わるが、その夜が明ければ、また過酷な1日が始まるのだ。
本作はフィクションだが、それゆえ作り込まれた脚本、演出、そして演技は見事で、高密度かつキレのある作品に仕上がっている。
ゆえに本作のメッセージは鮮烈で重い。