僕の帰る場所のレビュー・感想・評価
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制作当初の感動が薄れ気味か…
二回目の鑑賞である。一回目は、子どもを含むミャンマー人家族が日本に来て遭遇するできごとをドキュメンタリーに仕立てたかのように自然に描き出しており、当時やはり子役を前面に押し出した難民映画作品であった『存在のない子どもたち』よりも日本人にとって必見の作品であると感じていた。しかし、同じ監督作品である『海辺の彼女たち』や、他にも日本に関係した難民映画作品が増えてくると、色々と難点を感じるようになってきた。粗筋でも、父親が日本の入国管理局に拘束されたとなっているが、家族が出国するときには空港で別れをすることができていたし、それほど厳しさを感じなかった。長男が日本で通っていた学校では、周りの子どもたちや先生も、精一杯の親愛の情を示していたようにみられ、ミャンマーに来てからは、その子がミャンマーを汚い、と嫌がり、日本に帰りたい、と「白い仮面」的な価値観を身につけてしまった様がわかり、彷徨っても、日本語のわかる子どもたちと出会い、現地日本語学校への入学が可能かどうか不安視されながらも、最終的には受入れられる。子どもだから仕方ないのかもしれないけれど、父母の対立に振り回されながら、その子も受入れられそうな現実的な着地点がみつかった、という感じであった。
不法入国者と、難民
ミャンマーの事が少しわかった。
親の都合で振り回される子供は犠牲者である。
この映画は、ミャンマーで広くみられるべき。
子供は母国に誇りを持てず、アイデンティティを失う。
ミャンマー人なのに、「日本人学校に入れてほしい」という母親は
父親と同じ、自分の事しか考えていない。
移民は、不法行為のトラブルになりやすいから、トランプは、拒否をした。
日本政府が、毎年3万人の外国人労働者を入れ出してから、日本は急速に外国人労働者が増え
双方が原因のトラブルも増えた。
・難民を装って、ヤミ業者により入国する人、
・日本人を装って、入国者をだます人。
(戦後の在日系法律では、某国人が「日本人名」を名乗っても合法で、
殺人をしても、「日本人名」で、TV・新聞のニュースにでる。)
不法滞在の外国人を助けているのは、無料ボランティアの人だろう。 しかし
ミャンマー人の妻は、「仕事をしていない!」と罵倒した。
ミャンマー人の夫は、「何とかなる」と、いつまでも楽観視している。
こんな失礼な話は、日本人以外なら普通である。
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【ほかの例・チベット仏教と称する人】
チベット仏教を、「ダライラマ」の近くで学んだ
という、独身の女は「母親がB千家流の教授」と称して
京の禅宗和尚をだまして無賃で居候し、和尚の食料まで盗み、
その古刹で修行中として、京大の聴講生として潜り込んだ。
古刹を追い出されると
京大の外国人留学生に、寮への同居をせまった。
坊主頭で、彼女の本当の国籍はわからない。
日本人でも、平気で人を騙せるようになるのか、日本人を騙る外国人なのか。
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【留学生と、日本語学校】
留学生として、日本に勉強に来る学生の多くは、最初に「日本語学校」に行くのが必須である。
外国人はトラブルが多いから、日本語学校の経営に日本人は少ない。特に大手はほとんど某国人。
例として、新宿あたりの日本人学校7つのうち、大きな5つの全ては韓国人経営と韓国留学生証言。
つまり、日本に就労・就学に来た外国人の多くに、やんわりと間接的な「反日教育」がなされる。
入国初期に、日本人への不信感を毎日植えつけられるのだから、トラブルにならないわけがない。
また通常、彼らは、朝から晩までよく働く。
母国の家族に仕送りをするため、6畳に6人などの不法な宿舎に住んでいたりする。
母国語と、英語と、日本語を使い、賢い子が多く、よく働く。
しかも、安い賃金で。
これのどこに、「甘えて育った子供たち」の勝機があるのだろうか。
また、皆が買う
「100円均一」は、ほぼ外国製、中国製が減り、ベトナム製などが増えてきた。
「ドン・キホーテ」韓国系の会社
「line」韓国が本社
など
買うと他国に儲けが行き、日本の会社はつぶれていって。
父親や、君の働き先は、日本で減ってきた・・・
だから、日本には日本の子供の就職先がなくなってきた。
皆のお買い物のおかげで、働き先は外国・東南アジアにシフトするから、移民問題は減るだろう
日本はベトナムなどよりも、貧しいと言われる国になってきた。
日本の子供たちも、過保護ではなく
受験をしながら家事や農業をしっかり手伝うと、生きる希望が見えるだろう。
もしも自分家が貧しいと感じるなら、他人のせいにするのではなく
まずは、自分が買っている物の、原産国を合計して欲しい。
「中国、ベトナム、ミャンマー・・・」
皆の買い物がほとんど外国製品なら、日本に働き先がなくなっても仕方ない、自分のせいである。
皆の買い物が、ほとんど日本製なら、日本に働き先は多くのこる。
高給が良い、コンビニが嫌だ とか言うから、その職を埋めるために、政府が外国人を入れている。
低目の賃金の仕事は、全て外国人で埋まって、最低な賃金で存在し、日本人が入り込めない。
高い給与の仕事しか残らず、その仕事は、高い利益を生める、能力の高い人だけが採用される。
学歴ではない。 実行力、対応コミュ力、人望、成功する力。
日本の子供たちが持てるだろうか・・・
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そんなことを考えてしまった。
法務省のプロパガンダ映画なのか?
浅川晃広という「入国管理局・難民審査参与員」が書いた、公式HPのテーマ解説では、「難民申請」という「センシティブ」で「政治的な問題」を、“ぼかして”正面から扱わず、「あくまでも一家族のライフヒストリー」にこだわったとして、本作品を称賛している。
「専門家から見ても、論点満載」なテーマを、「万人向け」に「多面性」を持たせた「恐るべき」作品なのだそうだ。
アホらしくて笑ってしまったが、それが制作側の意図なのだろうか?
だとすれば、「ルポ 入管」(平野雄吾著)、「となりの難民」・「ある日の入管」(織田朝日著)を読んで、“入管”行政の非道さを知ったことで、この映画を観に行った自分としては、がっかりさせられる。
確かに、直接に“入管”行政に抗議するような描写は抑えている。
しかし、
・入管に収容された“病気を診てもらえない”父親
・意味もなく長期間待たされたあげくに難民申請を却下される夫婦
・自宅にやって来た入管職員に毒づく父親
など、必ずしも“法務省のプロパガンダ”とは思えない描写もある。
公式HPの解説が書くように、「難民」という視点が「ぼかされている」がゆえに、よく分からない箇所が出てくる。
なぜ母親は問題なく帰国できて、父親は危険で帰国できないのか?
そもそも、なぜ難民なのか。
ミャンマーに帰国し、母子が仲直りした後、父親の故郷に行く。ガジュマルのようなスゴい木がある田舎だ。
途中で、キリスト教墓地がチラッと映る。ということは、父親は人口比6%という少数派のキリスト教徒であり、それが原因で弾圧され、日本に脱出したのかもしれない。
一方、母親は多数派の仏教徒であり、日本では父親のいないところで一人で礼拝し、ミャンマーに帰れば寺院に詣でている。
キリスト教徒と仏教徒の結婚だからこそ、母親が「あなた(父親)に付いてきたのは間違い」だったとなるのかもしれない。
しかし、「ぼかされている」がゆえに、ミャンマー通でない自分には分からない。
藤元明緒監督・脚本の“ドキュ・フィクション”は、東京国際映画祭で観た映画「海辺の彼女たち」(5月公開)もそうだったが、問題を切り取って提示して見せる“だけ”だ。
それでは、外国人の不幸をネタにした物見高いジャーナリズムに過ぎず、「多面性」とは言えない。
「多面性」とは、いろいろな“主張”が示されてこそだ。本作のような、“主張がない”こととは違うだろう。
本作の重要なポイントは、母親がミャンマーにしっかりと生活基盤を残していた、という点である。
難民の場合、こういう恵まれたケースは一般的とは思われない。では、何もかも失っている難民の場合はどうなるのだろう?
「僕が帰る場所」など、どこにもないのだ。現に、本日(4/19)もクルド人の難民申請者が「“入管法”改正案に反対」というニュースが出ている。
“政治”がテーマでなくていいし、自分も“政治”的映画を観たいわけではない。しかし、扱うテーマの深さに応じた、最低限の“主張”は必要なはずである。
もしも本作品の“主張”が、
・「難民の方は、“帰る場所”にさっさと帰って下さいね。」
・「この映画の通り、移民2世の子も送還された先で、次第に馴染んでいきますから大丈夫です。」
・「父親は気の毒ですが、一生、オーバーステイの日陰者として頑張って下さい。」
であったならば自分はあきれてしまうが、そういう“主張”ならそれでも構わない。
ファミリードラマでお茶を濁さず、もっと明確に“難民排斥”を主張すべきであろう。
藤元監督は、こういう「論点満載」なテーマを扱う以上、もう少し自身の“主張”を明らかにして描くべきではないだろうか?
私達は正解の無い世界に生きている
純粋に映画の話を先にすると。
とても不思議な空気で満ちている映画。「ドキュメンタリーなのか」、「脚本に基づく演技なのか」が判然しないまま、数分が経過。弁護士役とホテル厨房の場面で、演技なんだと判る。でもミャンマー人家族は本当の家族ですよね?もし違うのならば、二人の子役は天才を超えてます。
ミャンマー人の不法滞在者夫婦と二人の子供の物語。難民申請が認められない夫と、夫の逮捕の恐怖から鬱を患った妻。耐えきれない妻は、ミャンマー語を話せない子供たちを連れて帰国。日本と父親が恋しい長男は一人空港を目指して家出し、たどり着けず、帰ってくる。そんだけの物語。
「少年の日」として見れば、テクニカルな部分も含めて、すごく良く出来ているんじゃないかと思う。政治の話も社会性がどーのこーのも無ければ。実際、映画そのものは、「世の中」を責めてない。この映画の語り口の自然な感じ、「まるでどこにもカメラなんて存在しないかのように話し、生活する人々」って言う空気感が好きです。
んでもって政治とか社会性の話。
私達は、たった一つだけの正解なんてものが無い世界に生きている。数年後、数十年後、あれは正しかっただの、間違いだっただのと「後付けの答え合わせ」はされるけど。日本の移民政策の硬直が「国連方面」から指摘されてから数年。メディアは騒ぎました。朝鮮戦争時の失敗(ゆる過ぎた)を指摘された事もあったと記憶してるが、そちらは日本メディア完全沈黙。やっぱ歪んでる。
一つの植民地支配にあたり、別の少数民族を選び連れてきて支配層に据える。欧州が考えた下衆を極める植民地支配の戦術。ルワンダのツチも、ミャンマーのロヒンギャも、植民地支配のために「白人に据え置かれた支配層」。植民地支配が終われば悲劇しか起きないよ、そりゃ。
ロヒンギャ虐殺はスーチー体制下で起きた。スーチー以前の軍事政権からの逃避について、難民申請に冷静に対処していた日本は、むしろしっかりしてたんじゃないかと思うが、当時スーチー推しの日本主要メディアからは、避難轟々だった。
日本は一度失敗した(現在進行中)。だから法整備が先。これだけは絶対に曲げてはならない。
日本は冷静に慎重に移民政策を進めるべき、って言うのが個人的な考えです。東京入管はマシンガン持ってない(と思う)だけ人道的。グローバルな人の動きはブラウン運動。密閉された容器中に異なる数種のガスを注入しても、最後には、容器中の空気は一様に混じり合う。人類だって同じこと。千年かかるか万年かかるかは謎だけど。この問題の正解を示してくれる先例は無いと思う。欧州も北米も先生じゃない。失敗すれば回復が難しい、ってことだけは教えてくれたけど。私ら、焦らなくても良いでしょ。
p.s. ロヒンギャじゃないミャンマー人。つまりは仏教徒のミャンマー人は、難民には成り得ません。
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