「フォースのバランスを見た」スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 旧型ブレランファンさんの映画レビュー(感想・評価)
フォースのバランスを見た
スターウォーズは宇宙を舞台にした冒険活劇にとどまるものではない。フォースという謎の力をめぐる哲学的なテーマが大きな魅力になっている。
しかし新三部作の登場によって、そのテーマが壊されたと見るファンが多い。はたして、そう言えるのだろうか。
EP8のライアン・ジョンソン監督が滅茶苦茶にした映画を、EP9のJ. J. エイブラムスが何とか無難にまとめてくれたとする評価が散見される。しかし、私にはそう思えない。それどころかEP8は新三部作にとって極めて重要な、まさに中心的な作品なのである。今回のEP9を鑑賞して、その確信を強めた。理由を説明しよう。
EP6までのスターウォーズは男性中心に描かれていた。フォースもしかり。男性のフォース使いは、弱い人の心を操り、照準器を使わずにミサイルを的中させ、遠隔操作でものを動かす。それは大きな力ではあるが、一方で怒りと憎しみをコントロールしなければ、あっという間にダークサイドに陥るという危険な側面もあった。
それに対してEP7以降では、物語の中心が女性になる。まず、レイを通して女性的なフォースが覚醒する。
その女性的なフォースとは何か。それは、宇宙的生命の根源との一体化である。レイアによる生身での宇宙遊泳は、その象徴であろう(EP8)。これは大変不評な場面であるが、テーマ設定上、重要な役割を果たしている。
レイに話を戻そう。彼女は暗黒面を恐れず、敵(レン)との心の交流を求める(EP8)。皇帝の座には興味がなく、むしろその立場になるのを極度に恐れる(EP9)。さらに彼女は、生命の再生(癒し)のためにフォースを用いるようになる。それはフォースが宇宙的生命の根源と結びつくものだからである。
以上のように新三部作では、過去作には見られなかったフォースの側面が次々に現れる。男性中心のシリーズ(EP1~6)に慣れ親しんだファンにとっては衝撃であり、受け入れがたいかもしれない。とくに、EP8の男性陣の情けない姿が不評のようだ。
弟子訓練の失敗を後悔して身を隠すルーク(新たな希望を待つオビワンとヨーダの隠遁とは対照的)、自分の弱さを隠そうと必死になって強くなろうとするベン・ソロ(カイロ・レン)、レジスタンスからの逃亡を企てるフィン、功を焦って失敗するポー・ダメロン。観客は、敵であれ善であれ、強い意志をもったヒーローたちによる鬼気迫る戦いを期待するが、それは見事に裏切られる。しかし新三部作はヒーローたちの弱さと失敗を描きながら、彼らを救う女性たちの活躍を描いている。
それは、男性と女性を互いに助け合う存在として描くためである。その結果、フォースのバランスが完成することになる。EP9ラスト近くでのベンとレイのキスシーンは、その象徴であろう。これは男女の恋愛を描く場面ではなく、男性と女性による二つのフォースの一体化を表していると解釈できる。
一方、パルパティーンの復活は、権力欲に陥った古き男性支配の最後の悪あがきの象徴である。このゾンビのような存在は、男性ルークと女性レイアのライトセーバーの反射によって消滅する。こんな輩を切る必要はなく、自滅すれば十分であるというメッセージであり、同時にフォースのバランスの勝利を描いている。
ついでにEP8に出てくる謎の少年にも言及しておこう。彼は奴隷の身分であり、フォース使いである。EP1のアナキンを思い起こさせる存在である。しかし彼はアナキンとは違い、帝国やファーストオーダーのような支配構造には従わずに成長するだろう。なぜなら彼は、フォースのバランスの完成を見ることになるからである。もちろん、それを示す直接的な場面はないが一つの暗示がここに見られる。
他にも、見落としているテーマや象徴がたくさんあるに違いない。それを発見する楽しみが残されているので、今後も繰り返し鑑賞したいと思う。とりあえず今、私は9本の映画が42年の歳月を経て一本の名作になるという奇跡に直面し、大きな衝撃と幸せを感じている。