Visionのレビュー・感想・評価
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よく解らなかった、という人は是非読んで
私が河瀨直美監督の作品を観るのは3作目になる。今作「Vision」は中々に骨の折れる作品だった。ストーリーを理解する為、順を追って見ていこう。
物語は紀行エッセイストのジャンヌが奈良を訪れるところから始まる。ガイドの花と列車で興味深いやり取りがある。郷愁(ノスタルジー)についてだ。
花が何気なく発したノスタルジーという単語、それがジャンヌの思いを掻き立てる。「おばあさんみたい」と茶化しながら、フランス語ではノスタルジーとしか表現しようのない、心の深いところに存在する記憶に根差した感情の動き、その揺れを確かに感じている。
時系列が映画の中で前後するので年代順に整理すると、ジャンヌが初めて奈良の森山を訪れたのは20年と少し前。その時村の青年・ガクと知り合い愛を深め合う。
やがてジャンヌは子どもを授かるのだが、ガクは鹿狩りの弾を受け、命を落としてしまう。
子どもを産んだジャンヌだが、彼女は赤ん坊を手放し、その子は村に暮らす不思議な感覚を持つ女性・アキによってガクの両親の家へ運ばれ、息子を失ったガクの両親はその子を育てることを決意する。
その少し後、山には疲れ果てた男・智がやって来て山守として生活していくことになる。
20年が経ち、1人で過ごし続けていた智にアキは「仕事の前に春日大社へお参りする」ように、と言い含める。智にとっては日課でもあったが、社に佇んでいるとジャンヌと花がちょうど到着したところだった。
行き掛かり上2人を泊めることになった智は、ジャンヌが「vision」という幻の植物を探していることを知り、薬草に詳しいアキを紹介する。
1000年に一度現れる、というvisionは計算によればこの秋から冬に現れるはずだという。
ジャンヌは智にガクの面影を感じ、「見たものや聞いたもの、触れたものを誰かと共有したいのだ」と話し、2人は愛しあう。
時を同じくして、智は森がいつもと違う様相を呈していることに不安を感じている。「1000年生きている」と豪語するアキは、森の変化こそがvisionの現れる予兆だと話し姿を消す。
一度フランスへ帰国したジャンヌと入れ替わるように、森に迷いこんだ青年・鈴を助けた智。鈴は智の家に住むようになり、山守の仕事を手伝うようになった。
再び森を訪れたジャンヌは鈴にvisionについて教え、森はいよいよvisionの現れる時期となる。森の象徴とも言える不思議な形の木、その木を中心に燃える輪の中心に倒れている鈴。
消火しようとする智を止めるジャンヌ。彼女には踊るガクやアキが見えている。今ここにvisionがある。そう確信したのだ。
目を覚ました鈴はジャンヌに「お母さんなの?」と尋ねる。鈴はジャンヌが産み、ガクの両親が育てた赤ん坊だったのだ。
ジャンヌが探していたvisionとは、愛であり、その喪失と誕生を享受することこそがジャンヌをこの地に呼び寄せたものなのである。
つまり、この映画のストーリーは「愛」の象徴である恋人と子どもを失った女性が、新しい恋人と成長した息子という「愛」を再び手に入れる物語だ。
まとめてしまうと何だか俗っぽくなってしまうが、ラブストーリーなのである。
visionイコール愛、と簡単に言ってしまうと軽く思えるが、愛は高尚と通俗の間を揺れ動く「生き物」である。愛こそが生命の営みの根源にあり、時にとても神秘的であることを、豊かな自然描写で表現する。言葉はそれを補足するだけにとどめて、可能な限り映像に割り振った印象だ。
きちんと物事の流れをとらえ、奈良の森山の雄大さに挟まれるジャンヌの心証風景を丹念に拾い上げれば、この映画の主題に行き着く。
喪失の思い出と共に一度は離れたこの地へ、ジャンヌを導いたのは「愛」そのものの呼びかけだった。愛はそこに再び現れる。愛した人の面影が、静かな池のさざなみのように、ジャンヌにまとわりついて消えることはない。
とは言え、かなり解りにくい仕上がりなのは否めない。思い返してみて、あらゆるパーツを掘り下げて、やっとたどり着いた感がある。
映像のファンタジックさに気をとられて、物凄い観念的な映画なんじゃないかと思ったほどだ。
監督の妥協のない表現には脱帽だが、もうちょっと優しいヒント下さい(笑)。
よく解らなかった、登場人物が謎だ、何が言いたいのか伝わらなかった、けどジーンとした、みたいな人のお役に立てれば幸いです。
蛇足だけど、エンドロールを観ていた時に「森山未來」ってこの映画を象徴するような名前だな、と感じてしまった。
本当にしょーもない話でごめん。
やっと会えたの~
やはり河瀨作品は音を大切にしてるんだな~と感じた。始まりは夏。木々のざわめき、ツクツクボウシとヒグラシの声、森の中はこんなにも音がするのだと心地よくなってくる。吉野の山奥なので夏が過ぎ去るのも早いのか、木こりの永瀬正敏とジュリエット・ビノシュがベッドを共にする時期には秋の虫の声も聞こえてくる。
素数というキーワードとともに「1000℃→VISION→PAIN」という謎めいたテーマを突きつけてくる。素数というのは他の数字と交わることがないなどと言われると、それを人間の交わりに引っ掛けてるんだなとわかる。交わらない997年というもっともらしい素数に不思議と魅かれていくのだ。
“PAIN”には×が記され、「痛みをとること」という結論。風の当たり方、木々の靡き、雨と光のバランスに違和感がある・・・という智の言葉はアキが去り、犬のコウも死に、そして鈴が現れたことの前兆に過ぎなかった。自ら死を選んだ盲目のアキには心を通して全て見えていたと思われるが、その千年というキーワードは誰から受け継いだものなのだろうか。時折、地元の爺ちゃんらしき人が、伝承について語っていたが、血の繋がりではない何かが伝えていったように思う。そう考えると、アキと同じように智も世捨て人となった(原因はうつ病っぽい)のも、今後VISIONを語り継ぐ語り部としての役割しか与えられてない気がするのです。ただ、恋人を得たので役得ではあるのだが・・・
結局、痛みをとるのは、恋人を誤射で亡くした傷心状態から楽になったジャンヌ。そして、祖父母に育てられていた鈴が母親がいるはずだと惹かれるように森に入って、母親を見つけたおかげで両親のいない心の痛みから解放される。VISIONという胞子は、名前の通り、目に見えないものだったのか。そう考えるとスッキリ。トンネルがメタファーだとも思えるけど、その先には象の墓場のような場所があるという暗さも自然の美しさと対照的だった。
映像がすごい
これどこ?と何度も思うほど、神秘的で美しい。筋は途中でみえたが、映像とキャストの良さで星4。とにかく夏木マリがいい。かっこいい。寄り目すごい。クライマックスのコンテンポラリーダンスは夏木マリと森山未來だからこそ成立し、意図が伝わった。岩ちゃんだけちょっと浮いていたか。もう少し実力派の若手が良かった。ところで主人公の役割は?彼の痛みは何だったのか?ここにきた理由は?森山未來の生まれ変わり?もう少し彼の背景が知りたかった。
映像の美しさは素晴らしかった
とても美しい映像。森の緑と紅葉の素晴らしさ、光と影のコントラスト、河瀬監督ならではの美しさだった。
話自体は正直あまり面白いとは言えなかった。いくつかの違和感の中で一番思ったのは子供を捨てた母親が全く苦悩もなく子供に誇らしげに名乗るところ。森で産んでおいてきた子供がその後どうなったか知ってたのかどうか。でもビジョンを探しにきたという。ビジョンが子供だったのか。いや、どっちかというと恋人がビジョンな感じだ。
いずれにしてもそこに納得感がないので共感できなかった。母親にはうけないきがする。
結局
河瀬監督の作品らしく自然の青や緑、光と影の白と黒のコントラストが印象に残る作品でしたが、ストーリーの最後が殺人や赤ちゃん置き去り等々、何だかよくわからない結果だった様な。
合わなかった
フランス人とか金髪の若者とか使う意味がさっぱりわからない
劇中、突如ぶっこまれる「好きと愛の違いってなんだろう?」に失笑
わかる人にはわかるんだろう、人の共感能力はすごい
森は綺麗だったね
輪廻転生ではない、この映画の観方は・・・
河瀬直美監督最新作。昨年2017年に前作『光』をカンヌ映画祭に出品した際に、本作主演のジュリエット・ビノシュと知り合ったということで、製作までの期間が短すぎて少々不安だったのですが、前作『光』で新境地をみせていた河瀬監督だけに、どのような映画なのか興味津々でした。
奈良県吉野の山深いところにやって来たフランス人女性ジャンヌ(ジュリエット・ビノシュ)。
彼女の目的は、ひとびとの苦痛を癒す薬草を見つけること。
彼女は、この薬草のことを誰か人伝に聞き、それから関心を持っていた。
やって来た吉野の山には、智と名乗る男性(永瀬正敏)が居、彼は20数年前のこの土地に来、以来、山守を生業としている・・・
というところから始まる物語。
観終わってすぐには、どんな話なのかわからないほど語り口が未熟。
ほとんど、脚本としては練られていない、イメージだけで書いた脚本で撮った、という印象が強く、実際、河瀬監督がビノシュと会った翌月にビノシュ主演で撮ることが決まり、さらに2か月後には撮影が始まったというのだから、脚本を練る時間などはなかったとしか思えない。
でも、わからないと投げ出すのは性に合わないので、映画を観てわかる範囲で、理解した範囲で内容をまとめると、次のとおりでしょう。
まず、主題。
人間の生命の営みと、山や森の生命の営みを比べると、各段の違いがある。
人間は、せいぜい100年、そのうち、憶えている範囲は20~30年。
対して、山や森のライフサイクルは1000年(この映画では、素数にこだわり、997年としている)。
物語の骨子。
そんな山や森のライフサイクルの営みの中、人間と同じような姿をしたものがいて、彼らの寿命も山や森と同じ(ここでは「山守り」と記す)。。
そういった山守りは、短い人間の営みを観つづけているが、そんな彼らに、生と死は訪れる。
といったなかで、人間の生と死、山と森の生と死を対比して描きたい・・・
というのが、監督の狙いだったと思う。
映画のつくりは・・・
人間のパートはジャンヌと鈴(岩田剛典)が担い、「山守り」のパートは智とアキ(夏木マリ)が担っている。
さらに説明を加えると、
人間のジャンヌは、ここ何年かの記憶がない。
短いライフサイクルの中でも、生と死にかかわる記憶がない。
なので、今回の旅は自分を見つけ出すハナシであることは、冒頭、彼女が列車でやって来る際にファーストカットが、車窓に映った二重写しの時分の姿だということが示している。
「山守り」の智は、10000年近い年月を生きていく自覚がない。
というか、そもそもそんな存在だと気づいていない。
これも巻頭、智がアキのもとを訪れて交わす会話で、「歳がいくつだ」「ここへ来て何年だ」と問われるて、明確に答えられないところに示されている(ただし、智がその後、常識的な年数を答えてしまうので、観ている方は混乱するのだが)。
というように読み解けば、河瀬監督の意図もわかってくるのだけれど、いかんせん、そのあたりを観客にわかりやくしめす描写もないので、結果的にとりとめなくなってしまっている。
とすれば、ジャンヌと過去に恋人だった青年(森山未來)の役割は何なのだろうか。
考えるに、彼は、人間と「山守り」との中間的存在で、人間でありながら、山の生と死の契機を知っている男。
山の生と死の契機であり、その契機が山の再生のもととなるのが山焼きであり、その際に出るのが「ひとびとの苦痛を癒す薬草(実際には、灰)」=ビジョンで、それをジャンヌは聞いていた、ということになる(イメージシーンはある)。
その山焼き(山の再生)により、ジャンヌは過去を取り戻し、智は自分が生きる未来の役割を知る・・・
というのが、この映画の物語だと思うのですが、いかがなものか。
個人的な解釈だけれど、河瀬監督は、映画の語り口がうまくないことは多々あったにせよ、これまで観客に結末そのものを投げかけたことはない、と思うので、こういうことだと思いました。
でも、決して、面白い映画ではないですよ。
なにせ、自分が観た回では、近所で鼾が鳴り響き、後ろの観客はツマラナイのか、脚を、私の背もたれに何度も何度も打ち付けてきましたから。
命の繋がりを感じました。
脈々と繋がれた命。
男と女がいて新しい生命があり、死がある。大樹が切り倒され材木になり、また新たな苗木が植えられる。
生と死。破壊と創造。
切なくも愛しい、悲しくも幸せな物語だった。涙が止まらなかったです。
『vision』とはアキと鈴が触れていた大樹の聖霊的なものなのかな…と。
人に宿り、宿主に997年の命を与える。宿主であるアキは997年生きて自身の役目を終え、死期を悟り、自分の死後に『vision』の宿主となる鈴が大樹の元に引き寄せられ現れるのを知っていた。
元々、アキはジャンヌのお腹に宿った命が次の『vision』の器だと知っていたし、ジャンヌ自身もお腹の子が特別な使命を持った子だと解っていた。だからアキに赤ちゃんを託したのではないだろうか。赤ちゃんに「さようなら」を言うシーン…切なかった…。
ジャンヌの『痛み』はかつて恋人を亡くした事であり、我が子を手離した事。
時を経て、想い出の地、美しい吉野の山で岳の面影がある智と心を通わせて、鈴と再会する……本当に感動しました。
ラストシーンで見つめ合ったジャンヌの瞳と鈴の瞳の色が同じだなと思ったら涙が止まらなかったです。
あと、トンネルにも触れたい。あのトンネルは『胎内巡り』を表しているでしょ。アキがカツカツと颯爽にトンネルを進んで行く姿にグッと来ました。あとコウね…。コウが死ぬと思っていなかったから、トンネルを駆けていく姿を観て「行っちゃダメ!戻って来て!」と叫びそうになった。
鈴にはコウの死期が分かっていて胎内巡りをさせてあげたかったから綱を解いて自由にさせてあげたのかな。
長々と勝手な解釈を書いてしまいました。色々と矛盾もあるのでしょうが、私にはこの解釈の仕方が一番しっくりきました。
心に残る映画です。もう一度観たい。
森の美しさ神秘さに圧倒され
森の中の揺れる木々
緑の中の風の音
すべてが神秘的で美しかった
河瀬ワールド全開の作品だった
彼女の作品は説明がないので
こちらが登場人物もどういう人なのか
こちらで想像するしかない
今回はどういう展開になるのか
初めはちょっと間延びした感じで
森は美しいがちと退屈感もありだったが
後半では盛り上がりクライマックスは
神秘的 幻想的で じーんと良かったです
が!!
やはり万人向きではなく
退屈と思ってしまう人も多いのでは
映像で表現する作品なので
難しいです
「なにこれ!わからない!!」と映画が終わって
騒いでいた人もいましたから
どうしても ありえないでしょと
思えるところもあるので
これは 大人のファンタジーと思って
鑑賞すれば
素敵なお話になるのではと思いました
気になるのは永瀬演じる智だ
28年前に都会の暮らしに疲れ
山で暮らしていると言う設定で
そこにフランスから
ビノシュ演じるジャンヌが現れて
話が進むのだが
彼はいなくても話が進むような気がして
彼は映画の中でどうのような存在なのか
ジャンヌの過去の話から
必要なのか?
私の中では智はちと気の毒な役かななんて
思ってしまうのだが
映画の中では彼自身は気づかないが・・・
この智を通じてジャンヌの女の怖さを
観てしまうのだ
となると これを描くためには
彼は必要だったのかな?
大満足と不満足と
主人公をフランス人にする必要が?
神秘的な日本人でも良かったのでは?
なぜハーフであるはずの息子が純日本人?
?だらけでしたが、夏木マリさんのジブリを実写化したような妖艶な演技と森山未來さんの森の聖霊のようなダンス素敵でした。
独りよがりムービー
非常に退屈な上に、自己愛臭が強く胸糞悪い駄作でした。テレンス・マリックと同じ、映像が美しいだけの独りよがりムービー。
一番気になったのは素数。この自然崇拝げな作品の中で、素数というキーワードは垂直にささくれ立っている印象です。すなわちそこにはなんらかの強い意味があります。
はじめは、『割り切れなさ』なのかと想像していました。この隔絶された自然の中で割り切れなさを抱え、現世に戻る話かも…そんな展開が待っているのか?との予測。その前にフランス女が「Visionは人の弱さを消し去る」なんて危険極まりない妄言をのたまっていたため、変容の物語かもしれない、なんて考えていたときもありました。
しかし、『素数は交わらない』ときましたよ。これって自己愛じゃねーか、とビックリ。同時に本作の舞台設定もなんとなく把握できました。
現世から隔絶された山中はまさにあの世なのですが、異界と現世とのつながりがありません。あの世に来っぱなし。そこには「この世は汚い」みたいな厨二純潔思想が見え隠れします。自然の美しさは描かれていますが、恐ろしさが皆無なのが嘘くさく、神への畏れがありません。単なる理想的イメージでしかない。
つまり、素数である自分(監督ね)は特別で、この世に生きるような不潔な人ではありません!と宣言しているように感じ、バカじゃんと思いました。人類の進化が遅いとか、アンタはシャア・アズナブルか。まぁシャアも河瀬も自分が特別と思い込んでいる自己愛野郎って意味では共通してます。
とはいえ、もしかすると河瀬直美はこのような独りよがりな作品を排泄しないと精神のバランスを崩すのでは、と想像しています。
炎による痛みの浄化も、痛みを抱えることのできない弱さの裏返しですよね。未見ですが、『あん』『光』は高評価のようです。そこから考察すると、地に足のついた名作を生み出せるが、そんな作品ばかり創っていると反動が来て、本来の厭世主義的映画を生み出さないと病む、みたいなパターンがあるのかもしれません。
平日レイトで本作を鑑賞したのですが、観客は私ひとり。貸し切りです。公開第1週目でこのザマなのも、こんな内容では宜なるかな、であります。
見えるものと、見えないもの。
幻の薬草「vision」とはなにか。
ミステリアスな主題をジャンヌとともに観客が探していくような映画だ。
「今がほんとうに今なのか。過去か未来かわからなくなる」
「幸せはそれぞれの心の中にある」・・
映像美とともに、いくつかの台詞がすっとこちらの心に入ってくる。だからと言って、スピリチュアルなものを感じている、というわけでもない。そんな癒しを求めてもいない。ただ、『自然への畏怖』は強く感じてくる。
そんなころに、アキ(夏木マリ)が初めて会ったジャンヌに向かって「やっと会えた」という。この言葉と雰囲気に、訳も分からず涙が流れた。え?なんで?夏木マリの演技に吸い込まれたのか?
もう自分でも意味不明。
人里離れた奥山に訪れた異人。
突然現れた若者。
山にこだまする子供の声。
真っ暗なトンネル。
何物とも混じることのない素数。
1000℃の炎がpainへと変わりゆく過程・・・。
ふと気づく。人も音も台詞も風景も、なにかのメタファなのか?
目に見えるものと、見えないもの。真の姿を現したものと、姿を変えて現れてきたもの。
太古より延々と繰り返されてきたもの。必ずやって来るもの。
破壊と再生。
輪廻転生。
異質物との融合。
過去と現在と未来、という時間。
自然と文明。
人間と神様。
登場する人はそれぞれ、「なにか」を擬人化した存在なのか、と。
(なお、岩田という役者の登場に異物感を感じた。しかもその時だけわざとのように大手アパレルメーカーロゴ入りのアウターを着て、寡黙な智も楽しげに談笑していた。これもメタファなんだと思えば納得できるシーンだ。)
まったくもって解釈を観客に委ねた意欲作。「あん」や「光」ほど親切ではなく、観るものを試しているようだ。こっちはまるで、一幅の現代絵画の前に立たされてしまった気分。
どう解釈すべき?
自由に感じればいいの?
何を意味しているの?と混乱してきて、どこからかこんな声が聞こえてくる。
「あなたの”視界”には何が見えるの?見えないものも、ちゃんと見えてる?」
オカルト
とある日本の山奥で暮らす独りの男の前にVisionという植物を探してやって来たフランス人女性の話。
序盤からマッタリとしつつ全てが謎めいた感じでいくつかの出来事が進んで行き、唐突に…えっ?そういう話?
その後も意味深な出来事が起こりつつ淡々と話が進んで行き、ラスト20分で急展開。
といっても詰まるところ何で人が、何で犬が、Visionはいったい何なのよという感じで自分には理解できず。
日本人が好きなのか昔の男に対する未練なのか良くわからないけど、おばちゃんの愛のお話しというところですか?
抽象的。
たぶんそうだろうなぁと思ってたけど、やっぱり。
visionという997年に1度胞子を放出する幻の薬草を探してフランス人が奈良の山奥にやってくる。
ジャンヌの言うvisionとは何なのか、どうしたら見つかるのか、
智が20年前山にやって来た理由、
鈴の正体と山にあらわれた理由、
岳とジャンヌの間に生まれた鈴、
そのvisionに誘われるかのように引き寄せられるように山に入り、盲目の婆の関係性も分かったような分からないような。
抽象的なミュージカルだと思えばいいのかな。
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