「輪廻転生ではない、この映画の観方は・・・」Vision りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
輪廻転生ではない、この映画の観方は・・・
河瀬直美監督最新作。昨年2017年に前作『光』をカンヌ映画祭に出品した際に、本作主演のジュリエット・ビノシュと知り合ったということで、製作までの期間が短すぎて少々不安だったのですが、前作『光』で新境地をみせていた河瀬監督だけに、どのような映画なのか興味津々でした。
奈良県吉野の山深いところにやって来たフランス人女性ジャンヌ(ジュリエット・ビノシュ)。
彼女の目的は、ひとびとの苦痛を癒す薬草を見つけること。
彼女は、この薬草のことを誰か人伝に聞き、それから関心を持っていた。
やって来た吉野の山には、智と名乗る男性(永瀬正敏)が居、彼は20数年前のこの土地に来、以来、山守を生業としている・・・
というところから始まる物語。
観終わってすぐには、どんな話なのかわからないほど語り口が未熟。
ほとんど、脚本としては練られていない、イメージだけで書いた脚本で撮った、という印象が強く、実際、河瀬監督がビノシュと会った翌月にビノシュ主演で撮ることが決まり、さらに2か月後には撮影が始まったというのだから、脚本を練る時間などはなかったとしか思えない。
でも、わからないと投げ出すのは性に合わないので、映画を観てわかる範囲で、理解した範囲で内容をまとめると、次のとおりでしょう。
まず、主題。
人間の生命の営みと、山や森の生命の営みを比べると、各段の違いがある。
人間は、せいぜい100年、そのうち、憶えている範囲は20~30年。
対して、山や森のライフサイクルは1000年(この映画では、素数にこだわり、997年としている)。
物語の骨子。
そんな山や森のライフサイクルの営みの中、人間と同じような姿をしたものがいて、彼らの寿命も山や森と同じ(ここでは「山守り」と記す)。。
そういった山守りは、短い人間の営みを観つづけているが、そんな彼らに、生と死は訪れる。
といったなかで、人間の生と死、山と森の生と死を対比して描きたい・・・
というのが、監督の狙いだったと思う。
映画のつくりは・・・
人間のパートはジャンヌと鈴(岩田剛典)が担い、「山守り」のパートは智とアキ(夏木マリ)が担っている。
さらに説明を加えると、
人間のジャンヌは、ここ何年かの記憶がない。
短いライフサイクルの中でも、生と死にかかわる記憶がない。
なので、今回の旅は自分を見つけ出すハナシであることは、冒頭、彼女が列車でやって来る際にファーストカットが、車窓に映った二重写しの時分の姿だということが示している。
「山守り」の智は、10000年近い年月を生きていく自覚がない。
というか、そもそもそんな存在だと気づいていない。
これも巻頭、智がアキのもとを訪れて交わす会話で、「歳がいくつだ」「ここへ来て何年だ」と問われるて、明確に答えられないところに示されている(ただし、智がその後、常識的な年数を答えてしまうので、観ている方は混乱するのだが)。
というように読み解けば、河瀬監督の意図もわかってくるのだけれど、いかんせん、そのあたりを観客にわかりやくしめす描写もないので、結果的にとりとめなくなってしまっている。
とすれば、ジャンヌと過去に恋人だった青年(森山未來)の役割は何なのだろうか。
考えるに、彼は、人間と「山守り」との中間的存在で、人間でありながら、山の生と死の契機を知っている男。
山の生と死の契機であり、その契機が山の再生のもととなるのが山焼きであり、その際に出るのが「ひとびとの苦痛を癒す薬草(実際には、灰)」=ビジョンで、それをジャンヌは聞いていた、ということになる(イメージシーンはある)。
その山焼き(山の再生)により、ジャンヌは過去を取り戻し、智は自分が生きる未来の役割を知る・・・
というのが、この映画の物語だと思うのですが、いかがなものか。
個人的な解釈だけれど、河瀬監督は、映画の語り口がうまくないことは多々あったにせよ、これまで観客に結末そのものを投げかけたことはない、と思うので、こういうことだと思いました。
でも、決して、面白い映画ではないですよ。
なにせ、自分が観た回では、近所で鼾が鳴り響き、後ろの観客はツマラナイのか、脚を、私の背もたれに何度も何度も打ち付けてきましたから。