「『レヴェナント』の現代版」ウインド・リバー f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
『レヴェナント』の現代版
『ウィンド・リバー』は,『レヴェナント』の舞台を現代に置き換えたものだ。
主人公はネイティヴ・アメリカンの女性と結婚し、彼女との間に生まれた娘を氷点下の大地で失った白人男性だ。娘がどのように死んだのか、その経緯はよく分からないままだ。娘の死がきっかけかは分からないが,妻とは離婚したらしい。
その彼が解決しようとするのは,自分ではない人間の娘が被害者となった事件だ。なぜなら、そうすることによって少しでも償いになるという期待があるからだ。全うできなかった父親としての役割を果たすことができるという期待があるからだ。被害者もまた自分の娘同様にネイティブ・アメリカンの血を受け継いでいる。被害者となった少女の父親は主人公の知人である。娘を失った知人に自分を重ね合わせることによって、主人公は父親としての役割を全うしようとしているのだ。
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の『レヴェナント』は、『ウィンド・リバー』同様、ネイティヴ・アメリカンの女性との間に生まれた我が子を殺された父親の復讐劇だ。『レヴェナント』が、怒りや憎しみを原動力とする主人公を描く一方で、『ウィンド・リバー』は、より温かみのある父性が主人公を駆動しているように思う。
『ウィンド・リバー』と『レヴェナント』の共通点は、「我が子の弔い合戦の物語である」というだけではない。復讐が主人公が直接手を下すことによって完成するのではない点、法・公権力・モラル・マナーではなく、個人の物理的・肉体的な力がものをいう世界=自力で生きる世界を舞台にしているという点においても、2つの作品は共通している。
主人公は過酷な環境を自力で生き延びるが、主人公の目的である「弔い」を完成させるのは、主人公ではない。『ウィンド・リバー』においては過酷な自然であるし、『レヴェナント』においては作中で西洋人よりも自然に近い存在であるネイティヴ・アメリカンなのだ。
2つの作品が共にこのような結末を迎えることには、どのような意味があるのだろうか?
『ボーダーライン』同様に、広大な自然の中を突き進む乗り物が重低音と共に突き進む様が、空撮を用いつつ描かれた。『最後の追跡』でも同様に乗り物で広大な大地を駆け巡る主人公が描かれていたが、砂漠や雪山といった広大な環境で、乗り物は,無力な人間に心強さを与えてくれる。
州全体で50万人程度の人口しかないワイオミングの人口密度は2.26人/平方㌖であり,東京都の6,283人/平方㌖と比較すればもちろんのこと,47都道府県中最下位である北海道の68人/平方㌖と比較しても圧倒的な差がある。年間降水量は東京の1/5程度で農耕もできない。州の平均標高は2,000m程度,最低でも900mはある。東海岸までは最短でも2,000kmほどあるし,西海岸からはロッキー山脈を越えなければならない。冬は雪が積もり行動が制限される。人が定住し,現代都市的な生活を送るにはコストがかかりすぎるし,お金の使い道=娯楽も少ない。
このような枯れた土地柄と,ネイティヴ・アメリカン。2つの要素は物語の「背景」として描かれるのみで,具体的に事件にどう結びつくかは直接語られることはないが,物語に奥行きや深みを与えてくれる。実際,ワイオミングという土地について簡単にでも検索してみるか,という気分に自分もなったのだから。鑑賞中はスリルを楽しむことができるし,鑑賞後も知識を増やすきっかけを与えてくれた。
冷房の効いた映画館に座して鑑賞する我々はまさに,ラスベガスから送られてきた「ナメてる」女性FBI捜査官なのであり,彼女が雪山の装備を整え積雪を踏みしめていくにつれて,我々もまたワイオミングの土地柄とそこに暮らす人々の心の機微を少しずつ学んで行くのである。