「前衛的なのに古典的な演出に眩暈を覚えて」花筐 HANAGATAMI りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
前衛的なのに古典的な演出に眩暈を覚えて
1941年の佐賀県唐津。
17歳の僕、榊山俊彦(窪塚俊介)は、両親の暮らすアムステルダムからひとり、叔母(常盤貴子)の家に身を寄せることになった。
そこには胸を病んだ同年代の娘・美那(矢作穂香)が居、秘かに思いを寄せていた。
新学期を迎え、大学に進学した僕は、そこでアポロンのような生気溢れる青年・鵜飼(満島真之介)と虚無僧のような青年・吉良(長塚圭史)と出逢った。
お調子者の阿蘇(柄本時生)や美那の友人のあきね(山崎紘菜)や千歳(門脇麦)と青春を謳歌するのだが、そこには常に「死の影」がつきまとっていた・・・
という物語で、それ以上でもそれ以下でもない(はず)の物語。
「死の影」は、具体的には、胸を病んだ美那や幼い時分に病弱で寝たきりだった吉良につきまとうのはいたしかたないが、それが健全な鵜飼や僕にもつきまとってしまうあたりが、戦争前夜の青春物語としての深みを与えている。
ただし、『この空の花 長岡花火物語』 (2012年・未見)、『野のなななのか』(2013年)に続いて「戦争三部作」と監督自身がといってしまっては、物語の深みがかえって減じてしまうのではありますまいか・・・などと思ってしまいました。
いまの時代が時代だけに、時代への警鐘がこの映画の製作モチベーションなのだろうが、その部分が全面にでてしまって、三角関係ならぬ六角関係(いや叔母様もいれての七角関係)の物語のオモシロさが消えてしまいそうな感じがしてしまいました。
とはいえ、饒舌華美過剰のてんこ盛りの映像と音楽とモノローグによる語りにはどんどんハマってしまいます。
特に上手いなぁと感じたのは、前半と後半で使っている映像表現が異なること。
ワイプ中心の前半。
アムステルダムからやって来た僕が出会う奇妙奇天烈なひとたちに魅了されて、心が動いていくさまが、ワイプで表現されています。
これに対して、後半はオーバーラップが中心。
物語が動き出し、三角関係、六角、七角と登場人物の思いが錯綜するにしたがって、シーンシーンがオーバーラップしていきます。
たしかに画面合成やのべつ幕無しの音楽など過剰演出なのですが、この、前半後半で語り口を変えるというのは、意外にも映画演出の基本に忠実な感じもします。
こういった前衛的なのに古典的な演出が大林宣彦映画の魅力なのだなぁ、と改めて感じた次第です。