希望のかなたのレビュー・感想・評価
全75件中、21~40件目を表示
難民は他人事ではない
シリアからの難民問題は、すごくタイムリーな話題だ。それなのに、今まで日本でのほほんと暮らしてきた自分は、彼らの苦難をどこか他人事として話題にしてきたところがある。言い訳をするなら、日本ではあまりに難民の情報が少ないことを挙げさせてもらう。でも、ネットで調べればいくらでもわかることを、どうして調べようとしなかったのだろう。なんだか、今まで何も知らずに難民問題を語っていた自分が恥ずかしくなった。
映画全体がとても静かで、古い邦画を思わせる。登場人物もみんな表情があまり変化せず、じんわりとした雰囲気を楽しむことができた。
結末がわからないまま放り出されたような終わり方なのは、難民たちの運命が現在進行形で放り出されたままであることを暗示しているかのようだと思った。
アキ・カウリスマキ調全開
シリアの青年がいつの間にかフィンランドにやってくる。
難民申請をするが、入管のいい加減な裁定で本国送還となったため、脱走することに。
一方、酒飲みの妻に愛想をつかしたおっさんが家出、ポーカーで儲けてレストランを買うことに。
こんな二人が出会い、真剣なるがゆえに面白おかしい行動を繰り返す。
フィンランドの名監督、アキ・カウリスマキの面目躍如。
名前も価値もつけられないなにか
映画が始まった瞬間の、フィンランドの海の青深さと質感に静かに心が震える。35mmフィルム上映だったのを忘れてました。フィルムはいい。
これと言った話があるわけではないけれど、言葉も立場も違う人たちのささやかな瞬間を垣間見る。親切心とか善意とか、そういうものに近いのだろうけど、言葉や名前がつけられない、そういう"なにか"をただ映すよう。
現実が何か大きく変わるわけでなくとも、私はこの終わり方を悲劇的にはあまり思わなかった。深い余韻と、その後の彼らの人生に想いを馳せた。
🇫🇮フィンランド←今ここ ⇧(貨物船) 🇩🇪ドイツ⇨🇵🇱ポーランド...
🇫🇮フィンランド←今ここ
⇧(貨物船)
🇩🇪ドイツ⇨🇵🇱ポーランド
ス ⇧
ロ🇸🇮⇦ 🇭🇺ハンガリー
ヴ ⇩⇧(妹とはぐれる)
ェ 🇷🇸セルビア
ニ ⇧
ア 🇲🇰マケドニア
⇧
ギリシャ🇬🇷⇦🇹🇷トルコ(船でギリシャへ)
⇧
🇸🇾シリア(アレッポ)
【カーリド】
カーリドはフィンランドに、
『知り合いのいないシリア人』
です。
彼はいくつもの国を放浪して、
フィンランドへとやって来ました。
『観光目的でもなければ』
『自分探しの目的でもない』
『生きるために放浪してきた』
そんな彼にとって、
『自身を厄介者扱いする国』は
『みな同じ国のように見えた』でしょう。
彼にとって"国境"は
『ただの境界線』でしかなく、
『ただ跨ぐために敷かれた線』でした。
しかし
『国は全て同じ』ように見えても、
『人はそれぞれ違う』のです。
【ヴィクストロム】
ギャンブルでボロ勝ちした、
中高年ヴィクストロム。
彼はそのお金を元手にして、
しがない料理店を買い取る。
その料理店に迷い込んだシリア人を、
ヴィクストロムは匿うことに。
【カリードとカーリドの難民隠し】
離れ離れになった妹を見つけるため、
カーリドは名前を変えて
ヴィクストロムの料理店で働きながら、
友人の力を借りて妹の捜索にあたります。
ある日、
カーリドは妹の情報を得るため、
人目を避けながら友人と密会します。
そして友人はカーリドに、
『情報を求めている最中だ』
と告げてカーリドを励まします。
その言葉を聞いて納得したカーリドは、
その場を後にしました。
その瞬間僕は、
『友人はカーリドを裏切るのでは?』
と一瞬疑いましたが、
極めて無粋な考え方でした。
なぜなら友人は
カーリドが立ち去った後すぐに、
通行人がカーリドを目撃していないか
周囲を見回したからです。
この演出にはカウリスマキ監督の、
『この映画に裏読みは不要だよ』
というメッセージが込められている
ように感じました。
【ギャンブル】
ギャンブルをするなら、
人の可能性に賭けてみたいものです。
僕は今日まで、
そうやって生かされてきました。
『絶望のむこうは』
『希望のかなたでした』
映像で語る
映像そのもので語っていくスタイルは、観ていて安心。
ニヤニヤしながら見はじめました。
こういう地に足のついた映像を撮る監督は、やっぱりいいなとおもいます。
まだまだ作品を撮り続けて欲しい。
善意の人情もので、寿司シーンなどは(なぜか)気恥ずかしさを感じてしまいましたが、それもご愛嬌ということで。
変わらぬ小津リスペクトもあり、十分楽しみました。
移民というテーマは気になってはいるものの、奥の方でくすぶっていて、自分の中ではうまく機能してくれていません。
そのうち変化があるといいなと思うのですが。
あれで終わり?えー?悲しいやんかー。
アキ・カウリスマキを、ずっとアキ・カリウスマキだと思っていました。「過去のない男」は見たことあったはず?と思ってましたが、記憶にも記録にもないので多分カウリスマキは初めて見ました。
「ル・アーヴルの靴みがき」は見たいと思いつつ見れてないです。
語り口はコントのような感じなんだなーという印象。
対象との距離が保たれたドライでシュールな人物描写です。
カーリドの珍道中はおかしさと切なさがないまぜです。
カーリド自身の希望を見つける話ではないんですね。
妹を助けたいという希望を叶えた話です。
しかも妹をエジプト人に偽装してフィンランドで暮らさせることは拒まれ、妹は名を捨てずに亡命申請を選ぶんです(つまりカーリドと同じく認められないことが明白)。でもそれが彼女の望みならばということで、カーリドは妹を見送る。
そしたら全編を通してチラチラ出てきてたネオナチにぼこられてカーリド重症。なのに川辺で初めての満面の笑みを見せて終わっちゃうんです。
え?え?カーリド可哀想すぎやん?やだ死ぬの?やだよー!!
そんな気持ちで叫びそうでした。
シュールなユーモアでほっこりほっこりで終わるんだと思ったら、客観的に見ると悲劇で終わる。
でも本人は満足気。
外野の私が彼の選択についてとやかくいう筋合いはないけどさあ。カーリド…自分の幸せも探してよ。さみしいやんかぁ。
ということで、悲しいまま突き放されてしまってわたしショックよ、という感想です。
かっこよかったー
平和な日本で生きていてもいろんな矛盾や不条理にぶちあたります。
まして戦争なんて、なんの落ち度もなくても突然いろんなものを奪われ、考えるひまもなく、生きるために、行き先のない苛立ちをぶつけることもできず、現実をただただ受け入れる。
もしも妹も死んじゃってたらカーリドはあんなに強く生きていたんだろうか。
人が誰かのために懸命に生きようとする姿は心を熱くしてくれますね。
見ててすごく強さをもらった。
カーリドが窓ガラス割って強制送還から逃げて一気に世界が変わりました。画面が生き生きと明るく突っ走るような疾走感に包まれて。
そこからボスに出会いちょっとズレてる人が集まったレストランだったけど、収容所で知り合った友達も含めみんなまっすぐな心で、カーリドを助ける以外の選択肢を思いついてないところが最高。
いい奴らでうれしかったです。
法律や規則を破ってでも助けるべきという判断をした仲間たちはほんとにかっこいいです。
あんな風に年を取りたいです。
自分の心でいろんなことを感じながら選び人生を歩きたい。
ああいう心はいつまでも忘れたくないです。
音楽の使い方や趣味、美術も好みです。
ゆるさやシュールなジョークもすてき。
アキさんは昔々に何本か観たけどこれが一番好きです。
めっちゃめちゃかっこいい映画です。
名作です。
人の為に生きて初めて人は人となる
第67回ベルリン国際映画祭で銀熊賞受賞作。
日本でもフィンランド人映画監督、アキ カウリスマキのファンは多くは無いが、確実に居る。彼は今年で60歳。何度ハリウッドに招へいされても、鼻で笑って動ぜず、ヘルシンキで、頑なに自分の映画を製作している。英国のケン ローチと共通しているのは、社会の底辺に生きる労働者、失業者など、市井の人々に照明を当て、それらが現実社会で踏みにじられる姿を映しとりながらも、そのような人々の中にある本当の良心と強さを描き出して見せるところ。彼の作品には、一人として美男次女が出てこない。愛も恋も露出もない。泣いたりわめいたりするオーバーアクションや、いたずらに銃撃戦や効果音で恐怖感をあおったり興奮させられることもない。市井の人々が、黙々と働き、言葉数は少ないが、見つめ合い、理解し合う。その深さはとめどもなく深淵だ。
アキ カウリスマキの映画「ル アーブルの靴磨き」は、何年も前に観た映画なのに、一コマ一コマを思い出すことができる。何て良い映画だったろう。あれから何百本もの映画を観て今日に至っているが、この映画ほど見た後、熱いもので胸が満たされ、人の幸せをひざまずいて祈りたくなるような気持ちになった映画は、他に無かった。人の良心というものが、どれほどこの社会に無くてはならないものか。わかる者だけが良心に従い、わかるものだけ同士で小さな幸せを分かち合う。それはそれを圧倒的多数の人々や一般社会や社会機構の「良識」をはるかに超えたところにある。ほとんどの人には忘れられた本当の良心のありかを、アキ カウリスマキの助けを借りて、見つけられた人々は、わたしは幸せだと思う。
ストーリーは
ヘルシンキ。
港にトルコから石炭を積んできた貨物船が着く。
石炭のコンテナの中にかくれて全身を石炭のすすでまみれた男が埋まっている。この男カーリドは、シリアのアレポから爆撃で家族親族のすべてを失い、たった一人生き残った妹を連れて脱出してきた。トルコ、スロベニア、ハンガリーと難民としてドイツに向かう途中、ハンガリアでネオナチに襲われて暴力をふるわれているうち、妹と生き別れになってしまった。それ以降カーリドは、必死で妹を探して各国の難民キャンプや、難民の流れつく土地を探して回っている。トルコの港で再び、ギャングに襲われ逃げ込んだところが石炭のコンテナだった。石炭の行先がヘルシンキだったと知ったのは、コンテナを乗せた貨物船が到着した時だった。
カーリドは妹を自分一人で探し出すことは無理だと知って、ヘルシンキの警察に出頭して難民申請をする。申請をして難民審査を受ける間、フィンランド政府は妹を探し出してくれるかもしれない。難民収容所で、カーリドは、アフガニスタンから来た難民の友達ができた。彼はパスポートや最小限の荷物を持って国を出ることができたカーリドと違って、自分の身分を証明できる書類をもたずに国を追われたために、難民審査に時間がかかり、すでに何か月も収容所に居てフィンランド語も少し話すことができた。早く社会に出て仕事をしたいという彼はアフガニスタンでは看護師だった。カーリドは彼の持つ携帯電話を使って、アレポに残っている友人に妹の消息を聞くことができるようになった。
収容所で審査結果が出る。「シリアのアレポは、危険な戦場とは言えない。無宗教のカーリドに命の危険はなく、帰国して生活することができるので、難民とは認められない。」という予想はしていたが、冷酷なものだった。結果が出た以上、彼は難民ではなく不法移民扱いとなり、即座に強制帰国となる。朝早く警察が迎えに来る。
カールドは、何が何でも妹を見つけ出さなければならない。すべての家族が殺され、家長として妹を見つけ出し保護してやらなければならない。それができなければ、自分だけ生きていても仕方がない。彼は夢中で難民収容所から脱走する。ネオナチの襲撃から逃れ、警察から逃げ回り、そして、レストランの駐車場で、そのオーナーのヴィクストロムに出会って助けられる。
ヴィクストロムは、長い事ワイシャツのセールスマンをしてきて疲れきり、アルコール中毒寸前の妻との愛情も薄れ、妻と別れて家を出た。全財産を現金に換えて、高級秘密クラブのカジノに向かう。生きていてもツマラナイ。自分の人生など博打のようなものだった。とことんまで落ちて行ってみよう。
ところが捨身の彼はポーカーで運を掴み、たった一晩で全財産の数倍の現金を手に入れる。人生、棄てた物じゃないと言うことか。その足でビジネスアドバイザーに会い、勧めに従って売りに出ているレストランを買い取った。
レストランには、全然やる気のないコックと、ウェイトレスとドアマンが居た。前オーナーから給料未払いの災難に遭っていた3人の従業員は、そのままレストランに勤め続ける。慣れないレストラン経営をやってみてヴィクストロムは、余り収益が上がらないので、流行の寿司レストランに模様替えしてみるが、客が入らず、またミートボールを出すレストランとして営業を続行。彼は、駐車場で見つけたカールドを新たに雇用して、贋の労働許可証を偽造してやり、彼に寝食できる場を提供する。カールドは、エジプト人となり、名前を変えて、献身的にレストランで働きながら、妹を探す。
そんなある日、カールドは難民収容所で仲良くなった友達から、妹の居場所が分かったことを知らされる。妹はリトアニアの難民収容所に居る。一刻も早くそこから妹を助け出さなければ、二度と妹と会えなくなる。ヴィクストロムは、長距離運送トラックを雇って妹を収容所から探し出して、ヘルシンキまで’連れて帰る手配をする。港で妹を待ち構えるカーリド。遂にヴィクストロムのおかげで、カーリドは妹と再会することができた。これからは兄として妹を守ってヘルシンキで一生懸命妹のために生きて行きたい。
しかし妹は、エジプト人の名前で兄と生きることを望まない。しばらく会えないでいた内に、妹はすっかり自分の考えをもつ大人になっていた。彼女はシリア人として本当の自分の名前で、誇りをもって生きて行くと言い張る。その妹は明日、警察に出頭して難民申請をするという。おそらく兄同然、難民審査で難民認定は受けられないだろう。再びシリアに強制送還されて死んでいくのか。しかし、兄は妹の考えを変えることはできない。
その夜、カーリドは再びネオナチに襲われてナイフを腹に受け、深い傷を負う。
ヴィクストロムは、この夜、小さな店をやっていた元妻を訪ねる。妻は、「あなたが出て行った日から一滴もお酒を飲んでいないの。」という。その元妻にむかって彼は、「レストランの女マネージャーを探しているんだ。」と。二人は微笑み合う。
翌朝、ヴィクトロムはカーリドの部屋が、すっかり片付いているのを発見する。残された血痕。何があったのか。当のカーリドは、警察署の横で妹を待っていて、出頭する妹を抱きしめて、送り出す。港の見える公園。横になったカールドに、すっかり慣れた捨て犬が会いに来る。犬を抱きしめる、笑顔のカーリド。
というおはなし。
死んでいくカーリドには犬がそばにいてくれる。彼は妹のためにやるだけのことはやり、そして妹がもう自分のことを必要としていない、すっかり大人になったことを知って、満足して死んで行ける。
ヴィクストロムは、と言えば、昔の女房と再び何とかやっていけるだろう。無償の援助を、カーリドにし続けた彼の驚異的な親切心と、良心と、市民社会の一員としてのヒューマンな良識。援助を必要とする難民を保護しない冷酷な社会と、難民を襲うネオナチの不理屈。生きた人をシンナーをかけて火をつけ、ホットドッグといって面白がって殺すことができるネオナチという先進国にはびこる者たち。
それでも、それでも市井の人々が、名もなき市民が、金も権力も持たないごく普通の人々が、自分のできる範囲で困っている難民に当然のこととして手を差し伸べる社会のありように、アキ カウリスマキ監督は希望をつなげようとしている。
映画の中で、カールドは一度として笑わない。避難民としてどれだけの苦難を負って来たかが想像できる。彼は自分はどうでも良い。彼の使命は妹を探し出し自分の保護のもとに置くことだけだ。その日が来るまで、彼はヴィクストロムに拾われて、労働許可証が出て安心して寝食できるようになっても、友人とビールを飲んでも、好きな音楽を聴くことができても、決して笑顔をみせず一貫して無表情だ。
その彼が一度だけ笑顔を見せる。最後の最後、死んでいく自分に可愛がっていた犬が会いに来てくれた時だ。そのことが泣かせる。
妹も笑わない。兄という保護者を失い、少女ひとりリトアニアに避難民としてたどり着くまで、何があったか、どんな酷いことが続いたか、想像を超える。ヴィクストロムの援助で、やっと念願の兄に遭えたが彼女は笑わない。二人は堅く抱き合うだけだ。わたしたちは笑顔を忘れた難民たちの姿をみて、いかにシリアからヨーロッパに逃れた難民が厳しい旅路を経験したかを、考えてみることができるだけだ。
戦禍を逃れてヨーロッパに流入する難民の立場は、受け入れ各国が厳しさを増す中、状況が困難になるばかりだ。2011年、この監督の作品「ル アーブルの靴磨き」は、ベトナム移民のチャンとともに靴磨きでその日その日を、カツカツの生活を送るマルセルは、ガボンから密航してきた少年のために、大金を作ってロンドンに居る母親のところまで見送ってやることができた。しかし、今回の2017年作の映画では、シリアからの難民カーリドの命を助けてやることができなかった。
しかし、ヴィクストロムは、人間としての良心をもって、これからも難民や困っている人々、無力な人々の力になるだろう。それが人間というものだ。
人の為に生き、初めて人は人となる。(トルストイ)
アキ カウリスマキの映画には、どんな状況にあっても人は人の良心のために勇気を奮い立たせることができる、そんなことを教えてくれる。
希望のかなた
内戦で両親を亡くしたシリア難民の青年カリードは、海外に逃げた唯一人の妹を探して北欧ヘルシンキに行き着くが、いきなり襲ってくる移民排斥主義者の暴力に会う中、困っている人に手を差し伸べずにおれないフィンランド人や移民の人達がたくさんいた。
カリードが、収監所の中でミュージシャンの弦楽器を借り、弦を爪弾くシーンがこの映画を象徴し、胸を打たれた。
アキ・カウリスマキ監督作品
2017年・第67回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞
ダークチョコレートチップな後味
フィンランドに亡命した難民達とその後の話。紛争に巻き込まれ逸れてしまった妹に会う事だけを糧として新しい生活を始める主人公。シリアスなメインテーマながらユーモラスなシーンが多いので、会場全体からクスクスと何度も笑い声が聞こえてきた。にも関わらず、あらゆる絃楽器を効果的に使って移民難民の酷な現状も同時に訴えかけてくるバランスとテンポの良さには圧巻の1時間半だった。静かに畳み掛けてくる。
フィンランドにたどり着いた、シリア難民の青年とフィンランドの人々の...
フィンランドにたどり着いた、シリア難民の青年とフィンランドの人々の交流を描く。決して明るくない内容だが、滑稽な登場人物とシュールな笑い、ゆったりとした空気から、人生なんとでもなる、という妙な前向きさを感じた。
行き場のない彼らの、生きる過酷さゆえだろうか、自己主張の強さが少しだけ身勝手に感じた。
しかし、安全な居場所を持ち、簡単に海外に行ける環境に生まれた自分のエゴかもしれないとも思う。
SUSH I
空は灰色、人形劇の様な無表情な人間たち。その無表情な人間たちの中には、人を助ける人間、人を差別する人間、人を慰める人間、SUSHI屋をやる人間、色んな人間がいます。
日本に住む私とフィンランドに住むカウリスマキ村の住民達は、無表情でも、違う国に住んでいても、『感じる』気持ちは皆同じ。それは、シリアもイラクもドイツも一緒で全ての人類に共通します。『差別』『ヘイト』『戦争』は、誰もが辛く悲しいと感じる。一度始まると、死や憎悪が一瞬にして広がります。無表情の奥にはこれらに対する沢山の感情があって、だからこそ「困っている人を助ける」のです。「困っている人を助ける」ということが、差別や戦争とは全く逆のことだからなんですね。
画が綺麗
まず画が綺麗なの。スクリーンショット綺麗に編集して写真集にしたいわと思ったもん。初め画の綺麗さに、冷静さを失ったんだけど、しばらくしたら慣れた。
それでみんなが無表情で淡々と演技してるのに気付くのね。演出なんだろうけど。淡々とした中に面白い話が入ってきて、くすくす笑いながら観てるの。
主人公はシリアの難民だから、難民の話がテーマになってるんだけど、淡々と描かれるのね。ここで抑えた演出が効いてくるんだけど。
「いや、まあ、そうだよねえ」と思うんだよね。身近に難民の人がいたら、できることをしようと思うけど、政治に物申すまではいかないよなあって。
助け合う優しさ
この作品を通じて感じたのは難民問題への対応。我が国民は果たして同じような優しさを持つことが出来るだろうか。国境を越えて助け合う優しさが問われる。淡々と進む内容で派手さはありませんがジワジワと良さが滲み出てくる作品。
2018-35
希望の別の側面
シリア内戦から逃れてフィンランドにやって来たカーリド(シェルワン・ハジ)。
難民申請をするが受け入れられるかどうか。
内戦で唯一生き残った妹も道中ではぐれてしまった。
一方、フィンランド人中年男のヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)は妻と別れ、衣料品店もたたみ、あまり流行っていないレストランのオーナーに落ち着いた。
そんな接点などなさそうな二人だったが、強制送還から逃げ出し、行き場を失ったカーリドが一晩求めた寝床は、ヴィクストロムのレストランのゴミ捨て場だった・・・
という物語で、『ル・アーヴルの靴みがき』につづく「難民三部作」の第二作目だそうな。
ならば、前作との関連が強いかと思うとさにあらずで、前々作『街のあかり』との関連がかなり強いように思えました。
ヴィクストロムのレストランで働くふたりの男性を演じているイルッカ・コイヴラ(カラムニウス役)とヤンネ・フーティアイネン(ニュルヒネン役)、それに収容施設の女性役のマリア・ヤンヴェンヘルミの3人は『街のあかり』の主要人物を演じた役者さんだし(他のカウリスマキ作品には出ていない)、カーリドはフィンランド人ではないシリア人(『街のあかり』の主人公は体制崩壊後の旧ソ連領からやって来た)と共通点があり、さらにレストランに拾われる犬の名前コイスティネンは『街のあかり』の主人公の名前。
それに、映画全体を包むタッチが、いつも以上にシリアス。
まぁ、ヴィクストロムのレストランではズンダラなユーモアもあるにはあるのですが、カーリドがフィンランド解放軍を名乗るネオナチ風の一味に狙われ、暴力により傷つけられたりと、かなり殺伐した印象が強いです。
と、本作はこれまでのアキ・カウリスマキ作品と比べると、どこか印象が違ってみえました。
たしかに、音楽や煙草や犬や日本好き描写など、各々のアイテムは揃っているのですが・・・
また、前半、カーリドとヴィクストロムをそれぞれ別に描いたエピソードのタイミングの悪さは、あれれ、どうしちゃったんだろうといった感じでした。
たしかに、カーリドのエピソードだけを詰め込んでやってしまうと、あまりにシリアスで辟易するのかもしれませんが、ヴィクストロム側のズンダラなユーモア、必要だったのかしらん。
なんだか、サーヴィス精神を出して、ユーモアシーンを入れ込んだんじゃあ、とも思ってしまいました。
さて、ラストシーン、傷ついた主人公に寄り添うのは『街のあかり』では女性だったけれども、本作では別。
もう、ひとは助けてあげられないのだよ、とは思いたくはないのですが、なにせ原題(英語タイトル)は「THE OTHER SIDE OF HOPE(希望の別の側面)」。
希望には別の顔があるんだ、っていうのは、うーむ、やっぱりシリアスすぎるかなぁ。
全75件中、21~40件目を表示