「危機感をもった」君の膵臓をたべたい saicacoolaさんの映画レビュー(感想・評価)
危機感をもった
私はこの作品に対しある明確な危機感を持つ。
それは、人々は人の死や痛みと向き合い、共感、同情し共に苦しむ事を忘れてしまったのかということである。
正確には、共感するということは、誰もが初めから持っているものではなく、培うべき心の能力であるのだから
人々は共感するという能力を今までの人生、生活の中で少しも発展させてこなっかったのかということである。
私がそのように思う理由を挙げる。
この作品において中心にあるのが余命わずかの高校生の少女であるにもかかわらず、その不安、孤独、悲しみの描写に乏しい事。彼女の病気については間接的な多量の薬、注射器の描写に止め、具体的な闘病と死の描写は意図的に避けられている。そのことがもたらす効果は、作品を見終わった時のさわやかな終止の感覚である。綺麗だがどこかで聞いたことのある空気のような言葉で丸く収められ終わる。彼女の悲劇的な死はその用意されたような言葉の引き立て役に撤するのみである。
少年は少女に問いかける、君にとっての生きるということは何であるのかと。少女は答える、人のために何かをして誰かを愛することだと。少年はこの彼女に魅かれたのである。そして彼女は彼の一人自分自身と向き合うことのできるその精神に魅かれるのである。だから二人はお互いを真逆であるという。しかしこの二つのことは本来同時に一人の成熟した人間の中にある。これは自分自身と向きあうことを出発点として自分を思うように他人を思うことで愛が始まるからである。このことから二人は高校生という未熟な発達段階にあるがゆえ異なる二つの側面が表れているがもともと根は同じところにあり、よって向かう先も同じであると考えられる。このような二人が出会うことでお互いがどれだけ救われるであろうか。特に死という恐怖に怯える桜良にとってどれだけのことであったかは言葉では言い尽くせない。
このことを描写することに対しこの作品は不足している。何の痛みも伴わないさわやかな終止のために切り捨てたものの分だけ全く不足しているのだ。桜良の痛みを考えずに彼女のこの喜びを理解することはできはしない。
また彼女の生き方を表現せずに彼女の死を描くことはできはしない。しかしこの作品は少年の問いかけに表れた彼女の生き方を表現することに対して全く注意を払ってはいない。その重要性に気づいてさえいないのだ。
我々はたとえ作り話の中の人物とはいえ死に怯える少女に対し同情する事さえ避け、綺麗な言葉に酔いながらさわやかな終止を迎えることを望むというのか。
我々は自身の生活に快楽という指針しか打ち立てられないのか。
私は余命わずかの少女の苦しみと向き合う覚悟でこの作品を見たのだ。
それでも誰かを愛し生きるという彼女の生命の表現に期待をしていたのだ。
心の深くを共にする彼に出会い救われるその喜びの光を見たかったのだ。
そしてその死を痛みとして心に刻んでもいいと思っていたのだ。
この悲愁の中に彼女の生きた幾つもの輝きを思う以上のことを私は知らない。