「「演劇による革命」を夢見た男」あしたはどっちだ、寺山修司 マユキさんの映画レビュー(感想・評価)
「演劇による革命」を夢見た男
90年代初めに寺山ブームがあり、大槻ケンヂや柳美里をガイドに寺山ワールドに触れたひとりとして、今でも色褪せない寺山の影響力を見る思いだ。市街劇『ノック』については、断片的には知っていた。観客に「いついつにどこそこへ行け」と怪しいメモが渡され、その場所に行くと、何やら芝居らしいものがはじまっている、とか、観客が箱に入れられ、どこかに連れて行かれる、とか、およそ演劇とは思えない内容だったが、この映画で、それを凌駕するものだったことがわかった。
寺山はブレヒト的な「異化」に憑かれたひとだった。映画『書を捨てよ、町へ出よう』では、暗闇に座りスクリーンを眺める観客に「待ってたって何も始まらないよ」と挑発し、天井桟敷の公演では、観客を劇中に引きずり込もうとした。「町は書き込まれるべき余白に満ちた、大きな書物である」。
寺山は、お行儀よく席に座り、映画や演劇を観てカタルシスを得、また元の日常に帰って行くような営みに異議を申し立て続けた。晩年、病に伏しながら、構想していた市街劇『犬』の実施を夢見た彼。それは、もはや「演劇のための革命」ではなく「革命のための演劇」と言っても過言ではないものだった。
寺山修司という稀代のアナーキストがばら撒いた作品という種子は、たとえば園子温や、劇団どくんご等に着床し、花開いている。いや、この映画『あしたは―』の出演者は、みな寺山によって大なり小なり「意識の革命」をこうむったひとたちではないのか。
「寺山修司の意志を受け継ぐというなら、昔と同じアングラテイストの芝居をするなんて醜悪だ。そうではなく、今なら寺山はきっとSNSを使って何かをやるだろう。寺山が今生きていたら何をするか、それを考えるべきだ」(宮台真司)。
寺山の遺伝子は現代を生きる私たちに託されている。