女は二度決断するのレビュー・感想・評価
全30件中、1~20件目を表示
タイトルなし
レビューを見て、一度目の決断から二度目の決断に至るまでのダイアン・クルーガーの逡巡になるほどと思わないわけではないが、やはり裁判をやらず、自らも犯人と自爆するラストの迎え方は嫌だった日
失望の末の復讐劇
ダイアンクルーガーのかっこいいポスターとキャッチーな邦題でつい観賞。
まず坊主憎けりゃ袈裟まで憎いじゃないけど、ナチス憎い人はネオナチも憎いんでしょう。現代に置き換えてネオナチに対する復讐劇です。
もう一つ過去に犯罪を犯したり犯罪者が身内でいたりしたり、社会的に差別を受けてる移民だったりすると勝てる裁判も勝てなかったりする。主人公カティアの夫はトルコ系移民子宝にも恵まれ幸せな日々を送っていた。ある日爆破テロで愛する夫と子供を失う。ネオナチの犯行であったが裁判ではトルコ系移民であるがために不利をうけネオナチの容疑者は無罪となる。カティアは失望の果てに最後の復讐に走る。各国様々だが移民は裁判で不利をうけるケースは散見される。よくできた作品だがそこまではまらなかったかな。
ある母の復讐劇
テロリストに家族を殺され復讐する映画と言ってしまっては身も蓋もなかろう。
監督の友人家族が実際にNSUのテロで殺されており社会問題として描きたかったと思われる、従ってリベンジ・アクション・エンターテインメントと期待して観ると裏切られる。
主人公はタトーだらけで薬もやるし夫婦そろっていわくつきに描くから同情の度合いにバイアスがかかる。テロリストも狂信的思想に染まっているとはいえ普通の若夫婦にしか見えない描き方、これはある意味NSUのリアルな側面なのだろう。
悲しみに暮れる主人公や家族の描写を延々見せられるのは辛い上に有利と見せてひっくり返す理不尽な裁判結果、とことん焦らすプロットには失望を禁じ得ない。残酷さを訴えたいのだろうが息子の死体検分調書を事細かに読み上げるシーン、ここまでやる必然性が分からなかったがラストまで来て悲しい結末への誘いと理解した。これはある種ドキュメンタリーとしてみないといけないのだろうが、であれば敬遠していたかもしれない。
生理
題材も話の導入も興味が唆られる。近親の死に駆り立てられる主人公。何処へ向かうのか?サスペンス感もます。フェアでない社会の論調。女友達の出産や自らの生理現象で何を感じ得たのか。直接的な説明を避けて、解釈の取りようが謎めいているあたりも良い。しかし、何のことやらさっぱり分からない所に着地したように感じた。
疑わしきは罰せずの原則は尊重されるべきで、それに反して被害者の感情に寄り添うことがテーマであれば大いに疑問。彼女は事件直後に被疑者を特定している訳だから、証言の信頼性に疑問の余地はないはずで、公判自体の違和感が最後まで引きずった。。
主演のダイアンクルーガーは熱演。
悲しみと憎悪、法と社会の矛盾と不条理を断ち切る決断
2017年度のカンヌ国際映画祭女優賞受賞作品。
ハリウッド~ヨーロッパで幅広く活躍するも、どうもここ最近めぼしい作品が無かったダイアン・クルーガーにとって、母国ドイツの作品で母国語で、栄えある賞と代表作として挙げるのも納得の熱演。
作品的にも見応えあり、今回見たカンヌ関連の3作品の中では一番良かった。
ドイツで実際に起きた爆弾テロ事件がベース。
テロによって夫と息子を殺されたカティヤ。
その行く末が、3章に分けて描かれる。
まず、事件直後。
喪失と悲しみをじっくり描写。
同情されて当然なのに、夫の両親から責められる。
夫は麻薬所持の前科あり。誰かしら敵が居て、何かしらの事件に関与の疑いが。
さらに、自宅から麻薬が見つかり、カティヤも日常的に服用していたのではと追及される。
そんな時、犯人逮捕の報せが…。
犯人は、ネオナチ夫婦。
裁判が始まる。
非道なテロによって愛する家族を奪われたのだから、こちらに有利な裁判の筈。が、
医師による遺体の損傷の生々しい説明、あちらの憎たらしい弁護士の狡猾戦術でカティヤ自身を貶め、信憑性が疑われるなど、苦境は続く。
カティヤの目撃証言、被告人の父によるこちら側に有利な証言、旧知の弁護士の奮闘などで、裁判は拮抗。
元々裁判物は好物なので、2章目は引き込まれた。
下された判決は…。
法や社会の矛盾・不条理をも訴える。
そして、3章目。
ズバリ言ってしまおう。判決は、まさかの無罪。
愛する家族を奪った憎き犯人たちは、罪に問われる事無く、また世に放たれた。
この抑えきれない悲しみと憎悪…。
これらは何処に、何にぶつければいいのか…?
こちらが妥協して、永遠に息の詰まる我慢をしなければならないのか…?
カティヤが取った行動は、誰しも予想は出来る。
法で裁けないのなら…。
カティヤは二度、苦渋の究極の決断に迫られる。
まず、一度目の決断。
これは、正しい決断だ。
復讐したい気持ちは充分分かる。でも、もしそれを犯してしまったら…。カティヤはもう一つ、別の苦しみを背負う事になる。
最後の2度目の決断は、見る者に考えを委ねさせられる。
あれ以外に決断の余地は無かったのか…?
また同じような凶行を犯すかもしれない犯人たちへのカティヤ自身の裁き、悲しみと憎悪、それら負の連鎖を断ち切る為とは言え…。
これはほんの一つの一例に過ぎない。
非道なテロ行為、法と社会の矛盾や不条理が続く限り、また…。
悲しみと憎悪の淵に立たされた時、アナタなら、どう決断するか…?
復讐はどこまで許されるのか
ストーリーは、
ドイツ、ハンブルグの街
トルコの少数民族クルドからドイツに移民してきたヌリは、ドラッグデイラーの罪で、4年間刑務所に居た。刑期を終えた後、ドイツ人カシャと結婚し、小さなオフィスを借りて税務士の手伝いと、通訳をしていた。美しい妻と6歳の息子が自慢だ。郊外に家を持ち幸せな家庭を築いていた。
ある夕方、妻のカシャは昔からの女友達と会うために、息子のロッコを夫の事務所に預けて出かける。事務所を出たときに、若い女が真新しい自転車を道に置いて立ち去るのを見て、声をかけた。自転車に鍵かけないの?若い女は笑って、すぐ戻るから大丈夫と言って姿を消した。カシャは、女友達と会い、しばらくして帰途に就くと、事故で道が遮断されている。見ると夫の事務所が、何者かによって爆破され死傷者が出ているという。夫とは連絡がつかない。死者の身元が不明だと聞いて、カシャは、警察に遺体を見せてほしいと言うが、遺体は損傷が激しく、人の形をしていない、と言う。警察は身元確認のためにカシャの夫と息子の歯ブラシをDNA検査のために持っていき、やがて2つの遺体は、カシャの夫と息子のものだったことが判明する。
警察は爆弾犯人が、東欧からきたギャングによるものか、夫のヌリにドラッグの犯罪歴があることから、ドラッグをめぐるマフィアの争いだと決めつける。担当刑事はカシャ自身がマリファナを常用していることを知って、ドラッグがらみの事件として処理しようとする。彼は、夫が頻繁にドラッグデイラーと連絡を取り合っていた証拠をカシャに見せる。しかしカシャは、事務所を出たとき、若いドイツ人の女が置き去りにした新品の自転車の荷台に爆弾が仕掛けられていたに違いないという確証があった。カシャは極右ナチ信奉者によるテロではないかと疑う。これはナチのヘイトクライムではないか。
最愛の夫と息子を奪われ、遺体をトルコに持っていきたいと主張する夫の両親を遠ざけたあと、カシャは一人きりになり、風呂場で両手首にカミソリを当てる。しかし意識が途切れる前に、弁護士からメッセージが携帯に送られてきて、カシャが予想した通りに、爆弾犯人は極右ナチの仕業で、すでに犯人が逮捕されたという。カシャは自殺するのを中止して裁判で犯人たちと正面から向き合うことにした。
裁判所でカシャは、夫の事務所前に自転車を置き去りにした女と、その夫アンドレというナチ信奉者が、爆弾を仕掛けたことを知る。長い公判中、夫と息子が爆破によってどんな死に方をしたかを知らされて傷つく。一方、爆弾犯人容疑者たちが、当日ギリシャに居たという証人が現れる。テロリスト側のアンドレの弁護士は、カシャがドラッグユーザーであることから、爆弾の入った自転車を見たというカシャの証言に信ぴょう性がない、と主張する。爆弾に使われたクギや肥料と全く同じものが、容疑者のガレージから発見されても、他にカシャの言うような自転車を見た人が現れない。遂に出た判決は、無罪。アンドレ ミラー夫婦は釈放される。
カシャは居たたまれない。夫と息子の死につぐないは無い。カシャは、ミラー夫婦がギリシャで宿泊していたというホテルに行く。そこは極右ナチ団体の根拠地だった。やはり公判での証言は嘘だたのだ。カシャは爆弾を作る。それを胸に抱いて、ミラー夫婦がいる車に入り込み、、、。
というお話。
監督ファテイ アキン44歳は、トルコ系ドイツ人。移民の街、ハンブルグで生まれ育った、硬派の社会派監督だ。社会的弱者に光を当てる作品を作って来た。若いころ DJで、生計を立てていたそうで映画の中の音楽の挿入の仕方や、バックグランドミュージックの使い方が秀逸だ。映画のはじめで、ヌリの出所と、それをウェデイングドレスで出迎えるカシャの場面が感動的だ。出獄を待ち望み、結婚を待ちきれない二人の喜びが、「マイガール」の歌とともに広がって、隅々まで幸福感で満ち溢れる。大音響のマイガールの歌が心地よい。音の使い方が、すごく上手だな、と思う。
で、つぎの瞬間に、眼鏡をかけた首の白い、ひょうきんで、もう100%愛らしい6歳のロッコの顔が大写しになる。街の騒音、人々の喧騒。音感の良い、音楽センス抜群の監督による映像が小気味良い。良いメロデイーを映画に取って付ける、ということではなく、映画作りには、良いリズム感が必須だということがよく解る。
この作品でダイアナ クルーガーは、ゴールデングローブ主演女優賞を獲得した。自身がドイツ人で、この映画の舞台となったハンブルグから遠くない街で生まれて育ったという。時間に正確で厳しい、責任感が強く、几帳面に仕事をきっちり仕上げる、など、日本人に似たドイツ人気質が、この映画にも表れていて、「自分のルーツに立ち返ることができた。」と言っている。ドイツ語という自分の言葉でドイツ女を演じることは、ハリウッドで活躍する彼女にとっても,大切な映画になったことだろう。撮影が始まる前の半年間、テロや殺人にあった被害者家族、30家族に次々と会って話をじっくり聞くことによって、夫と息子を失う役柄を考えた、という。意志の強い頑固な顎の張った四角い顔、大きな手、強靭なパワーを持った細身の体のダイアン クレイガーは適役だった。
もう一人印象的な役者は、爆弾犯アンドレ ミラーの父親役を演じたウイルリッヒ トウクル。ガレージで爆弾を作ったらしい息子を警察に通報して逮捕のきっかけを作った。実直で常識を兼ね備えた知識人の父親が、息子がナチに心酔していることに悩み、自分を責め、息子が極刑の受けることを覚悟で警察に突き出す。そんな哀しい父親をよく演じていた。怖れと恥とで歪んだ父親の顔。公判の休憩時間に、カシャが父親に近ついてタバコの火をもらう。互いに見つめ合うが言葉が続かない。カシャの犯人への憎しみと怒りを、苦しむ父親にむけることができない。このシーンが、カシャの最後の決断に大きく左右する。
息子は血も涙もないテロリストだが、息子を警察に突き出した父親は勇気のある立派な人間だ。カシャがナチ信奉者のテロに対して、テロで返答すれば、自分がナチ信奉者と同じレベルの卑劣な人間になってしまう。しかし、彼らのテロを赦して、そのまま生きていくことはできない。この父親のような人間になるのはどうしたら良いのか。憎しみゆえの復讐はどこまで許されるのか。人が人であるために、どこまで人は赦されて良いのか。
極右ナチ信奉者夫婦に無罪判決が言い渡された後、カシャは自分の脇腹に彫ってある武士のタツトウに加えて、武士が鮮血にまみれている姿に彫ってもらう。義憤と胸の痛みをタットウを彫る痛みで中和するかのようだ。余談だけど、この武士は三船敏郎にとても似ている。ファテイ アキン監督が黒澤明監督を尊敬していることが、よくわかる。
カシャは爆弾を一度は、憎いミラー夫婦の車の下に仕掛けるが、気を取り直してとりやめて、数日後に、爆弾を身にまとって犯人とともに自爆する。自分という犠牲なしに人を殺すことができないといったカシャのギリギリの人としての判断だった。
カシャは夫と息子の死に会って、生理が止まっていた。それが、ギリシャに犯人を追ってきてミラー夫婦を抹殺することに決めて行動に移そうとしているときに、生理が始まる。生理は命の再生であり、希望の兆しだ。夫と息子を奪われて、長い時間が経過した。カシャの底のない絶望に、わずかな回復の兆しが時間と共に表れて来ていたのだ。カシャが、その気にさえなれば、再び生き直すことができる。カシャには自分の命を再生する力が生まれて来ていたのだ。
しかしカシャはそれを拒絶する。亡くなった夫と息子に忠誠を誓うかのように後を追う。夫と息子への愛に純粋で誠実でありたいために。またミラー夫婦の父親の判断に恥じない自分でありたいために、ただの復讐ではなく、正義の名のもとにカシャは決断を下す。
法廷で死亡者ロッコの解剖所見が読み上げられた。爆破で6歳の子の胸に5寸クギが無数に突き刺さり、爆破熱によって皮膚は溶け、高熱を吸った肺は焼けて呼吸が止まり、眼球は溶けて無くなり、手足はちぎれて数メートル先に飛び、、、担当者は淡々と読み上げる。
カシャは、母親として自分の分身だった息子が最後に体験したことを、同じように自分も追体験せずにはいられなかったのだ。それが親というものだ。カシャの決断を誰が非難したり、否定できるだろうか。哀しい映画だ。
なんて切ない決断…
ネオナチに旦那と子供を爆弾で一気に殺された報復をするかしないか…
法廷では裁けないとわかってからは、むしろ自分のすべき事がクリアになったのね。
上告で闘って容疑者二人を終身刑にしたところで、相手は生き続けるのに、主人公は最愛の家族を失った喪失感を持ちながら生き続けなきゃならないなら、私も同じ決断をするかもしれない。
人間の心の葛藤がタイトながらズーンとくる作品。
でも、旦那も息子も殺された後あんなに淡々としてるもんなのかしら…ドイツ人の気質?
とてもよかった
主人公が、犯人と同じ手段を用いようとしてためらい、それを潔しとせず自らの命も投げ出す。彼女が脇腹に武士の刺青を掘っていたのだが、武士道精神で卑怯なことが嫌だったのかもしれない。とてもかっこよかった。
ビーチを車で尾行していく場面がとてもハラハラした。
ラストは賛否分かれるでしょう
まず邦題の付け方がネタバレ。これが残念。
舞台となるドイツの社会制度が日本と結構違うところや多民族国家で家族の形も日本と異なる姿は興味が湧いた。
冒頭の結婚式からして日本ではありえない?
また犯罪被害者に対する警察によるケアの方法、裁判の方法(刑事事件のはずなのになぜ被害者が闘ってるの?)とか。
裁判所の内装もハリウッド映画や日本のドラマに出てくるようなものと随分違うし、傍聴席?や透明パーテーションで区切られた席が後方にあったり。
そして主演のダイアンクルーガーがドイツ人と改めて実感する。強いし、でも弱いし、美しいし、そして恐ろしくスタイルが良い。ただタトゥーも入れまくるし、薬も酒もタバコもじゃんじゃん使うところは、日本のお行儀の良い美しさとは一線を画する感じ。
ストーリーは主人公に十分感情移入できるし、最後の行動も十分理解できるけど、賛否は分かれるでしょう。
原題は最後の主人公の行動の撮影方法にもつながるとのこと。
主演女優の演技
悲しみ、絶望、怒り、苦しみ、、、裁判中の感情の複雑さが表情からひしひしと伝わり、見ていてとても苦しかった。被告人の弁護士の憎たらしさも素晴らしい。
一度目の決断を見たからこそ、二度目の決断には納得できない反面、共感もできてしまう。
事件があったとき、被害者に非は無かったのか、が取り上げられがちな昨今、被害者自身にどんな非があろうと、その人の大切な人が感じる、その人を失った悲しみ、苦しみの大きさは計り知れないものであるた改めて感じることができる。
最後は木にも火が移り燃えて行く。
破壊の連鎖は終わらないことを象徴しているように思えた。
復讐の連鎖を止める覚悟と懺悔
ざっくり言うと目には目を…の話なのだが、ただの復讐とは片づけられない深い痛みがあった。
カティヤが二人を殺し、「ざまあみろ」と溜飲を下げるだけではジョン・ウィックと同じだが、彼女は自分も同じ方法で死ぬことで結果的に復讐の連鎖を止め、更に息子に味わわせてしまった苦しみを、自らに課したのだと思う。
彼女の心の動きは推し量るしかない。
一度目の決断。
窓にぶつかる鳥を見て何を思ったのか。
トラックの下からリュックを取り出したのを見て、復讐を諦めたのかと安堵した人も少なくないだろう。
しかし、彼女に生理がきたことによって、彼女の止まった時間が動き出したことが暗示される。
それが前向きにしろ後ろ向きにしろ、緊張状態から抜け出し、自分の心に冷静に向き合えた時が来たのだと思う。
旦那の両親から投げつけられた暴言、実母の旦那への無理解、自分が糾弾された裁判での屈辱。
容疑者が犯人でないのなら、では誰が犯行に及んだのか。家族が死んだのは事実なのに、そのことがなおざりにされていく彼女の絶望は計り知れない。
映画は三部構成でメリハリがあるが、第二部の裁判での検察の手腕は甘く、防犯カメラやギリシャへの出国記録や入国記録など、徹底的に調べたのか?と疑念が湧く。
ネオナチというヒトラーの遺産が、移民受け入れの軋轢で押し出されるように噴き出す。
しかしヒトラーもヒトラー以上に過激思想なSSのコントロールに手を焼いていたことを考えると、ヒトラーという男が台頭しなくても、第二のヒトラーは必然的に生まれてきただろう。
ヒトラーという象徴は優位思想や選民思想、差別主義者の都合の良いスケープゴートになっている。彼ら自身から生まれた劣等感や憎しみであるにも関わらず、ヒトラーの影響だと言えば、あたかも彼のせいにできるとでもいうように。
カティヤは社会的な制裁を下すための長い闘いをやめ、個人的な闘いに持ち込んだ。それを一種の逃げととる人もいるだろうけど、彼女の痛みを一緒に分かち合った気持ちになった私には、あの一度目の決断から二度目の決断へ向かう心の逡巡を思うと、家族への懺悔と人生への絶望が強く迫り、とても責める気にはなれない。
カティヤの魂が一瞬でも救われたことを祈らずにいられない。
「決断」に至るまでの力強い裏付け
映画は3つの章立てで構成されていた。1つは夫と我が子を突然失った女のドラマ。そして2つ目は法廷劇。そして3つ、復讐に燃える女のドラマ。それぞれを単独で描いた映画作品はありそうだが(実際、いくつかはすぐに名前が浮かんでくる)、それらを3幕の物語として描くことで、映画が多面的になったような印象を受けた。それぞれの章ごとに主人公カティヤの違う顔が見えてくる。そしてその都度カティヤの思いが角度を変えて突き刺さってくる。夫と子供を失うことは、悲しみだけではないし、怒りだけでもないし、嘆きだけでもないし、復讐心だけでもない。喪失感だけでも寂寥感だけでもないし、正義でもあって理不尽でもあるような。言い尽くせないカティヤの感情が、それぞれの章で様々な形で切り取られ、そしてカティヤという一人の人間の生々しい思いが膨大しながら形成されていくかのように感じられた。そして、そうやって出来上がったカティヤの生々しい思いが、終盤で訪れる「決断」の確かな裏付けになったところに感動を覚える。
物語には、ネオナチを取り上げてもいるし、差別や偏見についての風刺や、正義の定義など、タイムリーに議論されている事柄も盛り込まれているけれども、それらをすべてカティヤの心を通して描いたことで、社会の問題ではなくて個人の問題にまでぐっと引き寄せられ、この世界の「今」をダイナミックに感じる作品になったように思う。家族を失ったカティヤの正義と復讐のドラマとしてみているつもりが、感情が揺り動かされるたびに、この世界の「今」について、魂が何かを感じてざわざわしてくるよう。なんだかこの映画の志の部分に、ちょっとしたジャーナリズムまで感じてしまった。
そしてそういった役割を一手に担った主演女優ダイアン・クルーガーの魂の演技がまた良かった。クルーガーのことは前々から好きだったけれど、今作の演技はとりわけ良かった。瘡蓋を剥ぐようなカティヤの魂の痛みを文字通り全身全霊で演じる気迫。二度目の決断に至るまでのカティヤの心の葛藤がきちんと表現されていなければ成立しない結末だった。それを体現したクルーガーが最高にクールだと思った。
本編とは直接関係しないことかもしれないが、邦題には幻滅させられることが多い昨今で、「女は二度決断する」はなかなかどうして引きの強い良いタイトル。ついついこの邦題を下敷きにしてこの映画を解釈したくなってしまうほど。この邦題を付けた人は、カティヤの下した一度目の決断と二度目の決断に強い感銘とインスピレーションを受けたのだろうなぁと思うと作品への愛情を強く感じて、そこも含めてこの映画を好きになりたくなった。
邦題は何を意味するのか
「二度」の中身は何か。二度目は衝撃的な結末の行為に至った決意であるとして、一度目はその直前の小鳥を見ての逡巡を指すのか、あるいは当初、まっとうに裁判闘争に賭けたことを意味するのか。いずれにせよ、変な先入観を持たせる気取った命名はやめて欲しい。最近は作品の内容を理解していない下手くそな邦題が横行して迷惑している。製作者に対して失礼である。できる限り原題に忠実であるべきだと思う。誰か原題の「Aus dem Nichts」の意味を教えてください。
ドイツの裁判には結審までに期間の制限があるのか?ギリシャのホテルに...
ドイツの裁判には結審までに期間の制限があるのか?ギリシャのホテルに本当に滞在していたかどうか、もっと時間をかけて徹底的に調べ上げないのかな、と思った。
前半は少し冗長な感じがあり、裁判やギリシャの場面の方が面白い。ラストの「決断」は議論を呼ぶだろう。
逡巡
ダイアン・クルーガー主演のドイツ映画。
実際に2000〜2007年の間にドイツで横行した、ネオナチによる外国人排斥テロをモチーフにしたお話。
当時はドラッグやギャンブル絡みの争いと目され、的外れな捜査が被害者周辺にばかり集中して、後に捜査当局が批判を浴びたのだとか。
それはさておき、作中では捜査よりも、容疑者逮捕後の裁判と判決後に多くの時間が割かれます。
物語の軸は、トルコ移民の旦那と子供を爆弾テロで失った悲しみと怒りを、残された妻がどう整理し、ケジメをつけるのかという点。
涙の果てに憎しみの炎を燃やし、復讐心に駆り立てられる妻。
しかし、自身のやろうとしていることが、テロ犯と同様であることにふと気づき逡巡する様に、とてもナチュラルな感情の揺らぎを感じました。
最期に彼女がとる行動はそんな苦悩から生まれた、誅罰と贖罪をないまぜにすることで、彼らとは似て非なる行為に昇華させようとした、彼女なりのメッセージに思えました。
その決断は衝撃的だが、共感できない
ドイツのハンブルグの刑務所。
トルコからのクルド人移民二世ヌーリ(ヌーマン・アチャル)は、麻薬の大量所持により服役中。
だが、獄中で、ドイツ人女性カティヤ(ダイアン・クルーガー)と結婚する。
ふたりは大学時代に知り合っていた。
それから数年。
ふたりの間には可愛い息子が居、出所したヌーリはハンブルグのトルコ人街で税務関係の事務所を開き、地道に働いていた。
が、ある日、ヌーリの事務所前で爆発事件が起き、ヌーリと息子は亡くなってしまう・・・
といったところから始まる物語で、カティヤの目撃情報をもとに容疑者が逮捕され、裁判が開かれる。
彼女の目撃情報も役に立ったが、逮捕のきっかけは犯人の父親からの通報だった・・・と展開し、犯人カップルはネオナチであることがわかる。
さて・・・
で、これが簡単に、ふたりが犯人でした、となるならば、まぁ、ハナシとしてツマラナイ。
いや、出来れば、そちらの方が観たかった。
裁判で有罪が決まれば納得できるのか、というとそうでもないだろうし、かといって復讐するわけにもいかない。
そこいらあたりを、通報した犯人の父親と遺されたカティヤとの間でなにがしかが展開されれば、かなり興味深い題材になったと思う。
(実際、裁判が終わった際、判決が出る前にに犯人の父親とカティヤがすれ違い、言葉を交わすシーンがあり、おおお、これが展開するのかと思ったのだけれど)
けれど、物語は、そうは展開せず、被告側の極右証人の偽証も明白なのだけれど、「疑わしきは罰せず」の原理に基づき、無罪となってしまう。
やるせないカティヤであるが、やはり、彼女がとる行動については共感できない。
一度思いとどまった、としても・・・である。
自らもろとも・・・というのは判らなくもないが(3部構成でその頭にカティヤ家族のプライベート映像が挿入される、事件後、止まっていた生理が一度目の決断の後にやって来る、など意味ある描写がある)、やはり自爆テロを連想させるし、被害者のヌーリはまったくの無宗教だったということから、この行為、やはり自暴自棄、これしかない、思い込みの行動にしか見えない。
ということで、衝撃的な結末、共感できない。
あがいた末、苦悩した末の行動であっても、である。
平凡な復讐エンタテインメント作品よりも罪深いような印象がしました。
ラストが凄い
もうラストが圧倒的に凄いの。「あ!」って開いた口がしばらく塞がらなかったもん。
そこまでは冷静に振り返ると裁判映画だから、そんなに見せ場はないのね。でもダイアン・クルーガーの演技で観ちゃう。
法廷のやり取りは納得感あった。相手の弁護士は嫌な奴に見えるけど、与えられた職務を全うしてるだけなんだよね。だからちょっと「俺だって、これが良いとは思ってない」みたいな表情するしね。
法廷のやり取り観ててね「これ状況証拠しかないし、しんどいなあ」と思ったの。そこに「アリバイはあるんだ」って虚偽証言が入ってきたらもう「疑わしきは被告人の利益に」の原則で有罪判決は出せないね。やるせないけど、ここ無視しちゃうと冤罪生むから。99.9%有罪の日本より良い判決かもよ。
「これは、もう、しょうがない」って中で、でも、主人公の気持ち考えたら、そんなこと言ってられないし。「やったー、無罪だぜー!」ってネオナチを野に放ったら危険だし。それで、どうすりゃいいんだよって中でラスト来るからね。もう凄い。
でも、帰り道で冷静に考えたらね。犯人捕まえてるんだから、事件当日のアリバイは取り調べで把握するはずなんだよ。そこに「実はギリシアに居ました」って来たらさ、それ、おかしいでしょ。警察は何してたんだってなっちゃう。黙秘権行使したのかなあ。そこはちょっと気になった。
それでも、観てる間はそんなこと考えもつかない。ダイアン・クルーガーの演技にやられちゃってるからね。
全30件中、1~20件目を表示