女は二度決断するのレビュー・感想・評価
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追体験しました
この監督の作品は前も観たけど、テーマはやはりグローバルリズム。そして理不尽な壮絶体験。
なのに今回は自分が体験したかのように、胸に衝撃を受け、ダイアンクルーガーと共に涙し、揺さぶられ、打ちひしがれてしまった...他人事には全く思えない。
私にも息子がいるが、同じことが起きたら犯人が正しく裁かれない限り救われないと思う。
復讐に踏み出し、自身と向き始めた矢先に月経がくるのも納得で、海辺で、旦那と息子にママおいでと呼ばれれば、もう確かにあのラストしかないと感じた。
そうでもない。
全く感情移入できない
ご遺体がご主人と息子らしい、と、いうことを警察に言われた瞬間ヒステリックに泣きわめく主人公の演技、あるいは演出の浅薄さが気になり、以後、全く感情移入できませんでした。ご遺族となる立場の方は、そんなはずはない、自分の家族ではないはず、と、いちるの望みを託すはずで、現実に家族の死を受け入れ泣き叫ぶほどの感情を噴出するにはもっと時間がかかるはずです。安易に覚醒剤に手を出したり、手首を切ってみたり、なんというか演出が少女趣味で、実話を基にしているといえども監督の表現力不足をかなり感じる作品でした。
サスペンスでは無い
移民を狙った爆弾テロによって、夫と息子を失ったドイツ人女性が、逮捕された犯人に報復していく...という内容かと思っていたら、明らかに異なっていた。裁判で正当に裁けたとしても、自身が復讐を果たせたとしても、喪失感と悲しみは自分の中に残ってしまう。映画ではあるまいし(映画ですが)、それと対峙出来る程、人間は強くはない。そういった部分を、あまりにもリアルに描いた喪失の物語に胸が痛む。ラストの選択を肯定したくはないが、全てを癒すためにはそれしか...と納得してしまう。主人公の女性の悲しみや後悔や苦悩を見事に演じきったダイアン・クルーガーは、カンヌ映画祭女優賞受賞も納得の見事な演技でした。原題と全く異なる邦題「女は二度決断する」は、言い得て妙な秀逸なタイトルだと思います。
帰ってきたヒトラー
近年、移民に寛容な政策を取ってきたドイツで作られた映画ということで、この問題は根が深い。
ただ第二部までは良かったのだが、第三部に至って、またそういう方向に話を持っていくのかと、正直がっかりさせられた。「スリー・ビルボード」でも感じたことだが、(映画の見せ方として)非常に安易な気がする。報復の連鎖を肯定しているようにも見える。個人的には、法廷シーンの最後の方で主人公側の弁護士が放つ啖呵がピークだった。
この邦題は原題とは全然違うし、ピントはずれだ。映画界は“二度”何かするのが好きなのか、二度生まれたり、二度死んだり、二度微笑んだりしているが、元は二度ベルを鳴らしたのから始まっているんだろう。
二度目の決断は明確だが、一度目の決断は「どこ?」
第75回ゴールデングローブ賞外国語映画賞、第70回カンヌ国際映画祭主演女優賞(ダイアン・クルーガー)、第90回アカデミー賞外国語映画賞ドイツ代表、第23回クリティクス・チョイス・アワード外国語映画賞作品。
ドイツで発生した、ネオナチ・グループ「国家社会主義地下組織」(NSU)による実際の連続テロ事件に着想を得ている。実際の事件では、初動捜査の誤りから犯人逮捕が遅れ、10年以上にわたってテロが繰り返されてしまい、ドイツ警察戦後最大の失態とまで言われている。
いやぁ、それにしてもダイアン・クルーガー凄い。カンヌ国際映画祭で、主演女優賞を受賞しただけの事はありますね。テロで、大人と子供の犠牲者があると知らされた時の慟哭は、鬼気迫るものがありました。本当にすごい。
作品中の天候が、雨の事が多いと思いませんでしたか?ドイツでの突き抜ける青空と言うのは、あんまりイメージには無いですが、来る日も来る日も雨と言うのもねぇ。あれは、カティヤの心を描写した表現なんでしょうかね?その意味では、犯人が逮捕され、裁判に移ってからは、雨のシーンは無かったような気もします。
ところで、邦題が『女は二度決断する』なんですが、“最後の決断”が二度目だとして、一度目の決断はなんでしょうかね?一度目の決断が、はっきりとわからないことがちょっと気になりました。二度目はね、明確ですけどね。
腑に落ちる
少ないセリフだけど通じる気持ち
ファティ・アキンのこの選択は重い
幸せを掴んだ女性が、テロによって夫と一人息子を喪う。
そこからの法廷劇、次に復讐サスペンスと、映画はその表情を変化させながらも、この女性の決断に焦点を定め続ける。
もはや、法律や社会による犯人への制裁は期待できない。となればどうするか。私刑の問題も孕みつつ、物語はラストの主人公の選択へと進んでいく。
主人公の決断が迫りつつあるとき、スクリーンにはギリシャの静かな海が映し出される。ファティ・アキンの「そして、私たちは愛に帰る」を観たものならば、この海を観て必ず思い出すだろう。あの作品の静かな、そして不穏な海のラストのカットを。
海を前にして主人公が静かに決断を下す。しかし、広く静かな海は不穏な雰囲気を湛えている。「愛に帰る」では、その不穏さの正体が画面に現れることなく映画の幕が閉じられた。しかし、この作品では不穏な空気は主人公の激烈な決断へと具象化されるのだ。
この物語の終末も、観客それぞれに委ねることが可能であっただろう。しかし、今作ではファティ・アキンは主人公に決断をさせている。その主人公の行為が大きな意味を持つことは確かだが、アキンが物語の最期を具体的な行為で締めくくっていることにもっと強い意味を感じた。
ファティ・アキンはヨーロッパ社会の、いや現在の人間社会の不寛容そのものをこのラストによって強烈に訴えたかったのだ。憎悪の炎を消すことのできない弱さが社会の隅々に滲みだしている状況を。
メタファーではなく、完全に直接的な表現によって物語を締めくくる。ファティ・アキンがこのような映画の結末を選んだことの重みを観客は噛みしめなければならない。
どのような決着もあり得ると思わせられる
エンドロールに涙が押し寄せる
イメージ
私達が思う爆弾テロのイメージ。犯人はイスラム教徒で、原因は宗教対立や報復。しかし、そんな思い込みはこの作品でいとも簡単に吹き飛んでしまうだろう。
カティヤの夫ヌーリはトルコ人であるが、宗教的にも政治的にもノンポリであるように見える。しかし、ヌーリを殺したのは極右のドイツ人であり、また犯人に爆弾で報復したのも同じドイツ人のカティヤである。ファティ・アキン監督は、ドイツ人のテロリストとトルコ人のテロ犠牲者という世間の持つ一般的なイメージを裏切る作品を意図的に作ったのだろうか。
報復だって、決してイスラム教徒だからしているわけではない。どんな人種でも、どんな国籍でも、私も、もしかすると報復をする可能性がある。つまり、この作品は実に普遍的な話なのだ。世間では、テロリストはイスラム教徒というレッテル貼りを未だに続けている。
私もカティヤは報復をするわけがないと勝手にレッテルをはっていた。だけどカティヤが、爆弾を入れたリュックを握りしめているラストシーンで、爆弾を身体に巻いた中東の女性達が初めて重なった。その時、差別や偏見がある社会では、この瞬間は皆に等しく訪れるかも知れないことなのだということに気がついて、ハッと息をのんだ。
外国人を標的にしたネオナチのテロ サスペンス
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