「復讐はどこまで許されるのか」女は二度決断する DOGLOVER AKIKOさんの映画レビュー(感想・評価)
復讐はどこまで許されるのか
ストーリーは、
ドイツ、ハンブルグの街
トルコの少数民族クルドからドイツに移民してきたヌリは、ドラッグデイラーの罪で、4年間刑務所に居た。刑期を終えた後、ドイツ人カシャと結婚し、小さなオフィスを借りて税務士の手伝いと、通訳をしていた。美しい妻と6歳の息子が自慢だ。郊外に家を持ち幸せな家庭を築いていた。
ある夕方、妻のカシャは昔からの女友達と会うために、息子のロッコを夫の事務所に預けて出かける。事務所を出たときに、若い女が真新しい自転車を道に置いて立ち去るのを見て、声をかけた。自転車に鍵かけないの?若い女は笑って、すぐ戻るから大丈夫と言って姿を消した。カシャは、女友達と会い、しばらくして帰途に就くと、事故で道が遮断されている。見ると夫の事務所が、何者かによって爆破され死傷者が出ているという。夫とは連絡がつかない。死者の身元が不明だと聞いて、カシャは、警察に遺体を見せてほしいと言うが、遺体は損傷が激しく、人の形をしていない、と言う。警察は身元確認のためにカシャの夫と息子の歯ブラシをDNA検査のために持っていき、やがて2つの遺体は、カシャの夫と息子のものだったことが判明する。
警察は爆弾犯人が、東欧からきたギャングによるものか、夫のヌリにドラッグの犯罪歴があることから、ドラッグをめぐるマフィアの争いだと決めつける。担当刑事はカシャ自身がマリファナを常用していることを知って、ドラッグがらみの事件として処理しようとする。彼は、夫が頻繁にドラッグデイラーと連絡を取り合っていた証拠をカシャに見せる。しかしカシャは、事務所を出たとき、若いドイツ人の女が置き去りにした新品の自転車の荷台に爆弾が仕掛けられていたに違いないという確証があった。カシャは極右ナチ信奉者によるテロではないかと疑う。これはナチのヘイトクライムではないか。
最愛の夫と息子を奪われ、遺体をトルコに持っていきたいと主張する夫の両親を遠ざけたあと、カシャは一人きりになり、風呂場で両手首にカミソリを当てる。しかし意識が途切れる前に、弁護士からメッセージが携帯に送られてきて、カシャが予想した通りに、爆弾犯人は極右ナチの仕業で、すでに犯人が逮捕されたという。カシャは自殺するのを中止して裁判で犯人たちと正面から向き合うことにした。
裁判所でカシャは、夫の事務所前に自転車を置き去りにした女と、その夫アンドレというナチ信奉者が、爆弾を仕掛けたことを知る。長い公判中、夫と息子が爆破によってどんな死に方をしたかを知らされて傷つく。一方、爆弾犯人容疑者たちが、当日ギリシャに居たという証人が現れる。テロリスト側のアンドレの弁護士は、カシャがドラッグユーザーであることから、爆弾の入った自転車を見たというカシャの証言に信ぴょう性がない、と主張する。爆弾に使われたクギや肥料と全く同じものが、容疑者のガレージから発見されても、他にカシャの言うような自転車を見た人が現れない。遂に出た判決は、無罪。アンドレ ミラー夫婦は釈放される。
カシャは居たたまれない。夫と息子の死につぐないは無い。カシャは、ミラー夫婦がギリシャで宿泊していたというホテルに行く。そこは極右ナチ団体の根拠地だった。やはり公判での証言は嘘だたのだ。カシャは爆弾を作る。それを胸に抱いて、ミラー夫婦がいる車に入り込み、、、。
というお話。
監督ファテイ アキン44歳は、トルコ系ドイツ人。移民の街、ハンブルグで生まれ育った、硬派の社会派監督だ。社会的弱者に光を当てる作品を作って来た。若いころ DJで、生計を立てていたそうで映画の中の音楽の挿入の仕方や、バックグランドミュージックの使い方が秀逸だ。映画のはじめで、ヌリの出所と、それをウェデイングドレスで出迎えるカシャの場面が感動的だ。出獄を待ち望み、結婚を待ちきれない二人の喜びが、「マイガール」の歌とともに広がって、隅々まで幸福感で満ち溢れる。大音響のマイガールの歌が心地よい。音の使い方が、すごく上手だな、と思う。
で、つぎの瞬間に、眼鏡をかけた首の白い、ひょうきんで、もう100%愛らしい6歳のロッコの顔が大写しになる。街の騒音、人々の喧騒。音感の良い、音楽センス抜群の監督による映像が小気味良い。良いメロデイーを映画に取って付ける、ということではなく、映画作りには、良いリズム感が必須だということがよく解る。
この作品でダイアナ クルーガーは、ゴールデングローブ主演女優賞を獲得した。自身がドイツ人で、この映画の舞台となったハンブルグから遠くない街で生まれて育ったという。時間に正確で厳しい、責任感が強く、几帳面に仕事をきっちり仕上げる、など、日本人に似たドイツ人気質が、この映画にも表れていて、「自分のルーツに立ち返ることができた。」と言っている。ドイツ語という自分の言葉でドイツ女を演じることは、ハリウッドで活躍する彼女にとっても,大切な映画になったことだろう。撮影が始まる前の半年間、テロや殺人にあった被害者家族、30家族に次々と会って話をじっくり聞くことによって、夫と息子を失う役柄を考えた、という。意志の強い頑固な顎の張った四角い顔、大きな手、強靭なパワーを持った細身の体のダイアン クレイガーは適役だった。
もう一人印象的な役者は、爆弾犯アンドレ ミラーの父親役を演じたウイルリッヒ トウクル。ガレージで爆弾を作ったらしい息子を警察に通報して逮捕のきっかけを作った。実直で常識を兼ね備えた知識人の父親が、息子がナチに心酔していることに悩み、自分を責め、息子が極刑の受けることを覚悟で警察に突き出す。そんな哀しい父親をよく演じていた。怖れと恥とで歪んだ父親の顔。公判の休憩時間に、カシャが父親に近ついてタバコの火をもらう。互いに見つめ合うが言葉が続かない。カシャの犯人への憎しみと怒りを、苦しむ父親にむけることができない。このシーンが、カシャの最後の決断に大きく左右する。
息子は血も涙もないテロリストだが、息子を警察に突き出した父親は勇気のある立派な人間だ。カシャがナチ信奉者のテロに対して、テロで返答すれば、自分がナチ信奉者と同じレベルの卑劣な人間になってしまう。しかし、彼らのテロを赦して、そのまま生きていくことはできない。この父親のような人間になるのはどうしたら良いのか。憎しみゆえの復讐はどこまで許されるのか。人が人であるために、どこまで人は赦されて良いのか。
極右ナチ信奉者夫婦に無罪判決が言い渡された後、カシャは自分の脇腹に彫ってある武士のタツトウに加えて、武士が鮮血にまみれている姿に彫ってもらう。義憤と胸の痛みをタットウを彫る痛みで中和するかのようだ。余談だけど、この武士は三船敏郎にとても似ている。ファテイ アキン監督が黒澤明監督を尊敬していることが、よくわかる。
カシャは爆弾を一度は、憎いミラー夫婦の車の下に仕掛けるが、気を取り直してとりやめて、数日後に、爆弾を身にまとって犯人とともに自爆する。自分という犠牲なしに人を殺すことができないといったカシャのギリギリの人としての判断だった。
カシャは夫と息子の死に会って、生理が止まっていた。それが、ギリシャに犯人を追ってきてミラー夫婦を抹殺することに決めて行動に移そうとしているときに、生理が始まる。生理は命の再生であり、希望の兆しだ。夫と息子を奪われて、長い時間が経過した。カシャの底のない絶望に、わずかな回復の兆しが時間と共に表れて来ていたのだ。カシャが、その気にさえなれば、再び生き直すことができる。カシャには自分の命を再生する力が生まれて来ていたのだ。
しかしカシャはそれを拒絶する。亡くなった夫と息子に忠誠を誓うかのように後を追う。夫と息子への愛に純粋で誠実でありたいために。またミラー夫婦の父親の判断に恥じない自分でありたいために、ただの復讐ではなく、正義の名のもとにカシャは決断を下す。
法廷で死亡者ロッコの解剖所見が読み上げられた。爆破で6歳の子の胸に5寸クギが無数に突き刺さり、爆破熱によって皮膚は溶け、高熱を吸った肺は焼けて呼吸が止まり、眼球は溶けて無くなり、手足はちぎれて数メートル先に飛び、、、担当者は淡々と読み上げる。
カシャは、母親として自分の分身だった息子が最後に体験したことを、同じように自分も追体験せずにはいられなかったのだ。それが親というものだ。カシャの決断を誰が非難したり、否定できるだろうか。哀しい映画だ。