「最後はロマンポルノ」BPM ビート・パー・ミニット よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
最後はロマンポルノ
思えば、まだLGBTという言葉もなかった頃、世界には同性愛者が数多く生きていて、それは売春宿や精神病棟にだけ存在する特殊な人々ではなく、我々の職場や学校にも少なからず生活をしていることを、ある種の驚きをもって知り始めたのはエイズの蔓延のニュースと共にではなかっただろうか。
同性愛者にエイズ患者が多い(誤解のないように補足するが、エイズ患者=同性愛者だと述べたいのではない。)のか、エイズ患者に同性愛者多いのか、そのあたりの情報もよく整理されないまま、HIVウィルスへの感染がひき起こす病気に関する情報は世界を震撼させた。
しかし、同時にこの病気は、同性愛や性愛について公の場で語ることをタブーとしない潮流を生み出したのではなかろうか。
HIVに感染し、命の尽きるのを日々感じながらも、HIV感染への対策を政府や社会に訴えることに駆り立てられている若者たちの姿は壮絶である。
映画は彼らに対して必要以上の感情移入をしない。見知った顔の俳優がスクリーンに登場していなければドキュメンタリーかと思うほどに、彼らの焦燥感が直接伝わる。
同時にこの直接的な描き方は、彼らが結局は性愛に対してオープンな人々であることを観客に見せつけてもいる。
ショーンが亡くなったあと、恋人のナタンは他の活動家とベッドをともにすることを自ら望む。行為の後、ショーンを想い慟哭するナタン。しかし、愛する人を失った悲しみを他の人との行為によって埋め合わせようとする短絡的な発想は、もはやピンク映画である。喪服の未亡人が、親戚のおやじに慰められるものとなんら変わらない。
本当のところは分からないが、どうも「簡単にヤレる」ことが同性愛者になった理由の一つでもあると、この映画は最後に彼らの業についても言及していたような気がする。