ハーフネルソンのレビュー・感想・評価
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いろんな違いを超えて友人に
一言で言うとそこまで自分の好みの作品ではなかった。
きっと破滅的にころがるんだろうと予想していたけれど
それはいい意味で裏切られた。
ヤク中でありながら学校の教師で
平等や公正を子供たちに説く
危うい青年をライアンゴズリングが好演している。
繊細な目の動きだけで物語る様子をただ見ているのだけでも
価値はある。
己の至らなさを棚に上げつつも
教え子は危険にさらしたくない、
なんとか守ろうとしている。
自身でも薬はいけないなとわかっていてもやめられず
でもなんとか表の顔とで整合性のバランスを保とうとしている
人物なのだろうと受け取れる。
彼自身はなんとか教師の体面を崩したくなかったかもしれないが
逆にそこが崩れたからこその
人種や年齢立場を超えた友人関係に至れたのではないだろうか。
作中の授業内容をまるで体現してるかのようで
興味深かった。
不完全さとせめぎ合い
授業の中で語られる「せめぎ合い」や「不完全さ」などが、作品全体で表されているのかな。
表からは良く見える先生、でも裏では薬物におぼれているという不完全さ。各人物の中で起こっているせめぎ合いや心の葛藤。いつかどちらかの力が大きくなり傾くのか、せめぎ合いが続くのか。人間のどうしようもない部分が、リアルに描かれていると感じた。
正直、感動・興奮・爽快といったエンターテイメント性はほぼ感じられず、特に前半は耐える時間だった。淡々と描かれていき、最後もはっきりとした答えが出るわけでは無い。でも現実はそんなものだろうし、だからと言って希望が無い訳でもない。最後まで見たら、じんわりと良かったと思えた作品でした。
深すぎて、私は理解してるかな?
バーである生徒の父親に、今、娘ポーラはジョージタウン大学で、歴史を専攻していると言われたが、ダンは全くこの生徒が誰かも覚えていない。先生冥利に尽きる言葉で光栄なのに。あきらかにダンのクラスで歴史を学び、興味をもったからそれを専攻にしているのだ。父親は娘をダンに自慢して感謝しているのに、教え子の名前、存在を忘れてしまっている。『一人を救えない』とかれは言っているがこの生徒に影響を与えた。一人を救ったのに。忘れているから、自分の功績を『一人を救った』と思えないし、生徒に将来どんな影響を及ぼすかより、今に焦点をおいているかもしれない。私だったら大喜びで同僚や友達にこのことを伝えるのに。
自分は一人の人間。何ができる。一人がなにができる?! 自分に自信がないんかね?
こういう言葉を何度が彼は言う。私の理解が足りないのか、なぜ、こう言うんだろう。ここに出てくるハービーミルクも、シーザースチャベスもリーダーだが改革を一人の力で成し遂げていない?結局、周りの力があったから成し遂げることができたんだよ。ダンは家族と会った時も言ってるじゃない。米国がベトナム戦争から抜け出られたのも、その当時の学生運動の人々(ダンの両親を含めて)のお陰だって。でも、母親はダニエル エルスバーグのお陰だって言ったけど。ダンの言葉は母親に『成功感』を与えた/与えることができる人。
ダンはジェファーソン中学の歴史の先生で、麻薬とアルコール中毒で基本的生活習慣はまるで保てなく、学校にもやっと行ってる状態。朝、車の中で、1.2.3、と数えて、車から立ち上がる様子で明らかにわかる。職員室でも、厭世感溢れ、歴史のクラスでも椅子に座ったら、もう終わりだという感じを与える。
でも、立って教え始めたらすごい先生だ。
まず、歴史とは何かで始まって、年号や起きたことを覚えるものではないことを伝える。(私はこう習った!?)なぜ起きたか?その結果がどうなったかと広義に、証明する教え方をしている。世界は相反するもので出来ている、左右、良い悪いなど。このバランス関係があって、世界も私たちの生活も成り立っていく。神はすべてを上手く創造したものだと。「暗喩、隠喩」も生徒に答えを出させて、いくつもの答えに賛美を与える。ダンは『dialectics of power and world politics』の弁証法的思考に誇りをもっているから、dialectics(弁証法的)を簡単にわからせるため子供の本を書いている(?)中学生を引きつける(全員じゃないけど)教授法は天下一品である。
また、ひとりの生徒を助けようとする気持ちはなんともいえなくいい。
ダンは麻薬中毒のリハビリに行ったようだが、またもどりこの中毒から抜け出せない。自分では管理できると言ってるが、いやいや。ヘロインを使っているようだから簡単には行かない。学校の女子ロッカートイレで麻薬を使って、トイレに入ってきたドレイに見つかっている。ドレイは麻薬売人を父親に持ち、兄は麻薬売人の手助けをして監獄にいる。こういうバックグラウンドだから、ダンを心配しているし、淡い恋心をダン先生に抱いている。それに、母親は救急搬送(EMI)の仕事をしていて、忙しく、ドレイは一人ぼっちだと思っているし、ダンも同じ意識を持っていて、共通点を見出している。この共通点があるから、お互いに助け合っている。麻薬中毒のダンがドレイの父親のフランクに『ドレイにいいことをしろよ。できるか?』抗議に行くシーンでわかる。自分を救えないのがどうやってドレイを救えるのかと思うかもしれないが。同じ痛みを抱えている同士が救いあえるんだと思った。相反関係のパワーのバランスがよく出ている。
『Soul on Ice』という本がダンの本箱にあったら、ドレイは借りられる聞いている。この本は作家が監獄にいたとき、書いたもので、ドレイは監獄での兄のことをもっと知りたくて借りたと思う。ドレイは黒人の本が多いと言うが彼女がそう思うだけで、ダンはオープンマインドで包括性のある考えをしているから、各種の本を持っている。
麻薬中毒は悲惨な問題であるが、ここでそれを書くのを避ける。個人的にそこが焦点ではないと思うから。焦点は麻薬中毒でもなんでもいいんで、人の二面性、人にも、ここで言う相反関係におこるパワーが働いていて、その2面のパワーは良し悪しでない。個人的に考えるとダンはパワーのバランスが崩れているだけで、崩れたバランスの両面がそれぞれの人に影響を与えていると言うことだと思う??
同僚でダンと肉体関係を持った女性がダンに『共産主義か』と聞く。本を見て、『ゲバラチェはアフリカ 』があると。マルクスの『共産党宣言コミュニストマニフェスト』があるとか。ダンはもし、『我が闘争MEIN KAMPT』の本があれば、私はナチかと聞く。まったくダンの言う通り。こういう概念で物事を考えないからダンは凄い。オープンマインドでステレオタイプで物事を考えないんだよ。私の好みの考え方をする人だ。こういう考えの人がもっと社会に必要なのに、ダンさん、自分をもっと大事にしてよと言いたくなっちゃう。
もっと他のことにも焦点を当てたい。
人間は誰でも弱い。ダンの二進も三進もいかないこの気持ち。なぜ? ただ、弱いだけじゃない。人は誰でも弱さを持っているからね。
ダンの家族にあって気づいた。家族はまだ、疑っているし、麻薬をやっていることを知っているから、特に父親は厳しい目で見る。ベトナム戦争に行って、傷をつくって帰ってきた父親、両親の青春はベトナム戦争反対時代。そして、ダンが黒人の多い学校で働いていることに喜んでいないような態度。黒人を軽蔑しているのかも? 『アス ホール』は黒人用語でなんというかとか質問するから。
なにか家族になかでも外れているといったらいいか、行き場がないと言ったらいいか。両親は弟の方に愛情が入っているかも。母親も『前のガールフレンド、レイチェルに電話したら。でも、麻薬やめなさいと。。。しあわせ? 』ダンは母親になにか話したく、『ママ』と声をかけたが、、、、母親は返事をしない。ダンが何かを話したく、お母さんと言ってるのに母親は避けた。もうなにも聞きたく無いというそぶりだった。ダンの話に耳を傾けてくれるところがない。
ダンは家庭に助けを求めるところがないんだ。どこにも助けを求めるところがないが傷ついた心を心で共有できる人はダレイなんだと。社会福祉のリハビリはいるが、心の隙間を埋められないから、また、薬中毒に戻るという悪循環だのだ。
最後にシーンでダンがドレイに水を持ってきて二人が離れてすわるシーンがあるが、ここで、二人は距離を置いて座っている。私は最後のシーンをこう読んだ。二人は友達で、同じように傷心しているいる。それを冗談で笑いに変えてる。だれにも理解されない、だれも理解してくれない。麻薬もやめられない。ダンはその空虚感を埋められない。彼の口癖『人間は一人じゃ何も出来ない』といっているけど。ここでドレイと二人でなにか変えることができるという意味で映画は終わっているのかと?人間は問題点を持っている。『聖職』なんて言う概念はやめてくれ!人間は 心のバランスの均衡を保てる人ばかりでない。ダンの生き方に素晴らしい面がある。人間は一人でも何か出来る?
蛇足:
この俳優のことは知らないが、ダメ教師のような演技はうまいが、麻薬中毒者の目をしていない。中毒の目はこんなものじゃない!
すごく深い意味のある映画で秀作、レビューを書いてみたけど、なんかイマイチ??!!
タイトルなし
黒人街で熱心に教鞭をとりながら、ドラッグに溺れるライアン・ゴズリングと、ドラッグを売る生徒の少女の奇妙な友情。ラストはいい方向に向かってるのだろうか?何とも言えないか押し付けがましくはない社会派映画。
相反する者同士が存在し合う真理
白と黒、男と女、大人と子供、教師と生徒、そして買う者と売る者・・・。映画は、白人教師と黒人の少女という、ほぼ共通点の無い相反する者同士を中心に動く。
最初は若き白人の教師が、黒人の小学生たちに熱心に教鞭を打つ様子や、積極的に部活動の指導をする様子が描かれる。さながら、学園ドラマか教師ドラマのような様相に見える(同じライアン・ゴズリング主演の映画「ラ・ラ・ランド」内で揶揄していた「デンジャラス・マインド」を想起させないではない)。しかし映画の本質は、教師と女子生徒それぞれの隠れた私生活における秘密と罪、そして教室で教師が語る言葉にある。ライアン・ゴズリング演じる白人教師が教壇で語る内容が、次第にこの映画の主題とリンクしていくのだ。彼は、相反するものが社会を構成する重要な要素であることを生徒たちに話して聞かせる。そしてその言葉を象徴するように、白人教師と黒人の女子生徒の存在が動き出す。
白人と黒人、男と女、大人と子供、教師と生徒、そして、クスリを買う男とクスリを売る少女。二人はアメリカの社会においてはまるで相反する存在だ。しかし、教師が語る言葉の通り、相反するもの同士が共存するからこそ社会である、相反する者同士だからこそ、その不思議な絆が成り立つというところを見せる。 とあるモーテルの一室で、白人教師と黒人女子生徒それぞれが生きる社会が交差する瞬間が映画で描かれたとき、まるでパズルのピースがピタリとはまるように映画が語り尽くされるのを感じた。NICE!!
「絆」という些か甘ったるい言葉を使ったが、実際の二人の関係はそんなに甘くもなければ柔くもない。ある意味では、それぞれの弱みを見せ合い削り合うような、そんな痛みを伴う関係性である。しかしいつしかそれが、手羽立った弱みを滑らかに削り整えていくようにも感じられる。
学校を舞台にしても、よくある学園ドラマがテーマではない。クスリに溺れる男が主人公だが「薬物ダメ、ゼッタイ。」がテーマではない。相反する者同士が存在しうる社会そのものがこの映画の本当のテーマであり、それを肯定する事がこの映画のメッセージなのだと思う。実に強固なメッセージと構成の映画で、とても良かったし、その思いがよく伝わってきた。
白と黒、男と女、大人と子供、富と貧、右と左、民主主義と共産主義・・・。相反する者たちは、頻繁に対立し合うけれど、しかし、相反する者両方が存在しなくては、この社会は成立しないのだということを、「アメリカ」「学校」「薬物」というものを通じて、物語の中で上手く実感させてくれる上質の社会派ドラマだった。
そして何より、10年間日本公開を待ち続け(半ば諦め)ていた作品を映画館で見られて本当に良かった!
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