「どこまでも深い風刺映画」犬ヶ島 ymさんの映画レビュー(感想・評価)
どこまでも深い風刺映画
犬ケ島は海外が日本を舞台に映画を作るとのことで公開当時から楽しみにしていた映画のひとつである。特に独特のストップモーションアニメに加え、日本人が話す日本語がそのまま海外でも流れ、逆に犬の言語が英語で、英語圏の人からすれば日本語話者の方が客体化されるような仕組みがお気に入りである。他にもみるたびに工夫がみつかる奥深い映画だ。
権威主義の日本社会の中とそれに服従し迫害される犬社会の二重の構造を持つこの映画の世界で、“stray”であるチーフや留学生、戦後復興の象徴たる新幹線の事故での交通遺児が社会を動かすというメッセージ性を持ちながら、登場人物がほぼ皆結局血統や権威に縛られているという点も興味深い。
アタリが政府への説得力を持ったのは彼が小林の養子だったからであるし、ヒロインのナツメグはショードッグ出身であることが彼女の権威であり魅力として描かれる。チーフもどうしようもない野良かと思いきや、実は誇り高い犬スポッツの弟であることが判明する。最後のシーンでは権力を得たアタリやトレイシーが独裁者のように振舞っている。結局これらの登場人物,動物はマイノリティの属性のままハッピーエンドになることはなく、権威を得たものは再び権威に飲み込まれる。
留学生のトレイシーが政府の悪事を暴いて行くシーンはしばしばホワイトアッシュと批判されるが、個人的にはそれは疑問に思う。のちに触れるが、むしろ日本人をもってこの役をやらせることが不可能であるからこそここで外国人が使われているのではないだろうか。
そして議会で主張をした彼女のビザが剥奪されるシーンは先ほどの権威、血統主義に繋がる。小林の養子であるアタリがいなければ、ビザが剥奪されて、そもそも政治に関わる権利のない彼女は排除されて終わりなのが現実であるし、他の一般市民は(科学者たちでさえ)結局自ら声すらあげられない。日本国民はアタリや留学生や議員の後ろ、テレビの前でわいわいとするだけである(ここがまた日本らしさなのだろうが)。権威主義の社会で一般市民が声を上げてなにかを成し遂げることは現実には難しく、日本は今もそうだと言われた気がした。
結局この映画の結論としてなにが起こったかといえば、権威をまとったアタリが議会で声を上げ、それがたまたま養父に効果を出し、養父の権威と権利で法が撤回され、既存の法制度に従って養子のアタリが権力を引き継いだだけである。何の市民革命も起きていないどころか、ただの身内騒動にすら見方によっては落ち着いてしまう。
なんだか、クーデターである明治維新しか経験せず、市民革命を起こせないままの日本を風刺された気がした。そして唯一の市民革命的な要素を導くのは、先ほどの留学生という最強の異分子なのだ。
犬ヶ島のストーリーはもともとヨーロッパ舞台であったのを日本に変えたらうまく行ったと言われてるが、結局日本社会においては、12歳の子どもとか犬とか留学生とか、そういった日本社会の仕組みの外にいる要素なしにはなにかが大きく変わることはないのだろうかと考えると、やはり他にどうにかして日本の「生まれ変わり」を引き起こすのは難しいと感じて、なんだか情けない気分になった。