北の桜守のレビュー・感想・評価
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日本人の辛抱強さの映像化
普通に映像にするには、余りに過酷な絵面になるから、舞台表現にして、絵を柔らかく、そしてその人の気持ちを観客目線で客観的に考えさせるための舞台表現なのかなと考えながら観た。
しかし、それを効果的でないと捉える人もいるようだ。個人の感想は自由で、それはそれで良いと思う。
ただ、ごくごく普通の樺太の家族が、内地では終戦しているにも関わらず、突然のロシア侵攻により内地=北海道に76kg歩いた後に船に乗り疎開することになり、離散してしまう。そして命からがら北海道内地にたどり着いた母1人子2人は、道中長男を亡くし、母と次男で砂を噛むような生活をなんとか生き抜く極貧生活に転じる。
この脚本自体はフィクションだが、戦争の影響はどこにでも誰にでも起こりうるし、生き残った罪悪感、大切な人を失った悲壮感をみんな噛み殺しながらどうにか生きる術を見つけて日々過ごしている。
現代の戦争を知らない人に近い目線で、アメリカ育ちの真理がお金に不自由なく育った帰国子女日本人の嫁として出てくるが、そのような者には計り知れぬ、入り込めぬ、苦難が沢山あった戦争経験者の方々に、無理矢理口を開かせる事などできない。でもそのぐっと堪えてきた想いを、今を生きる者達に伝えないと、平和をなんとしても守り抜く必要性はなかなか伝わらない。身近に戦争経験者が少なくなってしまっている現代人が想像力がないわけではなく、余りに過酷な戦時中の様々な立場の者達の想いを、普通に暮らしている生活で想像し推し量ることもまた困難。
こういった日本の現状に、使命を持って取り組んでいる監督や吉永小百合などの映画製作者達の思いには頭が下がる。
一方で、その方々も昭和の方々ゆえに、令和の若者までなかなか響かない台詞回しや作品構成になっているという指摘のレビューがあがるのもわかる。
いったいどうしたら良いのか、考えてしまう平成の人間な私。作中の堺雅人の孫の世代。生きたくも命から脅かされ食べる事もままならなかった世代がなんとか繋いでくれて命がある、桜の枝葉の世代。枝葉世代が自分らしくその花を咲かせられるよう、周りと心通わせて生きる事が、先祖の苦を労う事に繋がるのだと思う。
いつか何者になる、と堺雅人演じる修二郎の義父が話していたように、主人公修二郎本人も戦争に人生狂わされた本人。可愛い子が苦難の人生から抜けられるよう、心を鬼にして突き放した母親に、突き放された捨てられたという親の心子知らずな苦しみを抱えながらも、なんとか生きるために過ごしてきた人間。
何者になれるのかなどわからぬまま、どうにか職を得て食べられるようになり、まだ使命まで自覚していない。
年老いた母親と共に、思い出すのも辛い過去を振り返る機会があり、お礼めぐりの名のもとに、当時は分からなかった母親の気持ちと目線で母と過去を辿り、伏せたい過去の呪縛から自己を解放して、妻とオープンに向き合えるようになる。
きっとわかってもらえない、ではなく、わかってもらえなくて当然だけどこんな想いを抱えていてさ、と分かち合いながら人の心は成長し、協力して持ちつ持たれつしながら、できることも大きくなっていくのが人生だと思うので、今の若い世代が自分を探し使命を見つけるまでも、温かく見守って待てる年配者でありたいなと思う。
作中の母を助けていた信治も山岡さんも、綺麗事だけでは生き抜けなかった辛さを奥に秘めながら、時代変化に合わせて仕事を変え生きていたのが印象的だった。
母てつだけは、高度成長期の3Cすら取り入れず、テレビ洗濯機冷蔵庫もないまま掘立て小屋で長年独りでおにぎり屋さんをしなんとか生計を立てていたが、それは長男を亡くした罪悪感ゆえ。
結局次男の仕送りも、小さなスナックママに持っていかれていたわけで、ひどいキャッシュフローだが、それもこれも、親のボケに気付くのが遅かったから。
作中では、網走の極寒貧困から抜け出させるため、母は次男を追い出すように網走の外に送り出し、それゆえ次男は母に距離を取られた気まずさゆえに足が遠のいていたわけだが、そこまでの環境下にいない者が殆どだろうから、「親とは連絡をまめに取りなさい」という啓蒙に感じた。詐欺も多いし。
中村雅俊の「歳を取ったら子供に面倒を見て貰いたい」の台詞が実際年老いたら気持ちの本音なのが人間なのだろうけれど、核家族共働きしないと育児も厳しい現代。それを言ったら押し付けと捉える人も沢山いるだろうなぁと思う。難しい時代、難しい問題を日本人は抱えすぎだと思う。
戦争に負けたばっかりに、あんまりだ。
そんなこと作中では台詞にないが、そういう想いの日本人の気持ちが溢れていると思う。
エンタメ内に、日本人を感じられるだけで、充分なのかも。あまりに何もかもの資本が日本以外に変わってしまっているから。。
生活の楽を考えれば、母てつは信治さんと再婚した方が楽だったに違いないが、ソ連の捕虜に取られて生き別れた夫への想いを忘れず、白い喪服で再婚を断る姿が印象的。そんな極貧暮らしで白い喪服を準備できないでしょうよとご都合主義フィクションに面白さも感じたが、戦前は白の喪服も普通だったようなので、万が一のために疎開荷物の中に含めて運び、ずっと取っていたのかもしれない。
それを着たということは、夫の戦死を受け入れる意味も持つ一方で、再婚もしませんという意思表示。
とても奥ゆかしい意志の伝え方で、言葉なく見た者の瞳に通達が焼き付けられる。
最初の場面の、咲いた桜をみんなで囲み写真を撮る時間が、夢のまた夢の幻になってしまったそれぞれの人生が悲しい一方で、辛く惨めで理不尽な子供時代を生き抜いた修二郎の息吹がちゃんと引き継がれ、子が産まれ、江連の表札は守られた。
桜と命が重ねられて展開される作中で、墨と糊を混ぜて桜の木の穴を塞ぎに出掛けるボケ始めた母てつは一見異様に映るのだが、その半生と堪えてきた苦難を思うと、守れる物は守りたい。同じように吹きっさらしで孤独と空腹に堪える苦難を他の者にはさせたくないという経験者だからこその強い意志を感じる。
守られ引き継がれ受け継がれた命のバトンだからこそ、再び戦争などに脅かされるなど以ての外だし、その使命をゆっくりと見つけて、全うする人生をそれぞれが歩み、他の命と心通わせ、次の世代にまた命を分けて繋げていく必要がある。
桜はね、満月の時、満開になるの
映画「北の桜守」(滝田洋二郎監督)から。
阿部寛さんと吉永小百合さんが夫婦役で、
ちょっぴり違和感を感じたが、それはさておき(笑)
1945年、樺太のシーンから物語が始まる。
ソ連軍の侵攻によって、父親役の阿部さんが出兵する直前、
子どもたちに、こう呟く。
「満月の日、内地で4人揃ってきれいな桜を見よう」と。
「えっ?」と驚く子どもたちに、
今度は母親役の吉永さんが、そっと教える。
「桜はね、満月の時、満開になるの」
2度も繰り返され、観ていた私も「えっ?」と驚いた。
その後のストーリーよりも、そのフレーズが気になってしまった。
だって、南のほうから桜が咲き始め、少しずつ「桜前線」が北上し、
今年の満開はいつだろうか?と予想していたのにも関わらず、
こうもはっきり「満月の時、満開になる」と言われると・・と、
その根拠が知りたくなっていると、ラストでも、
(2年後)「見事に満月の夜に咲いたね」という台詞があった。
う~ん、リアルさに欠けた物語になってしまったなぁ。
この構成 どうなんだ?
何のために舞台を挟むのかなあ。
好き好きかも知れないけれど、いい効果を生んでるようには思えない。
戦後の混乱期を少し過ぎた頃の話は
もれなく戦中から戦争直後の悲哀を引きずる。
終戦時、樺太 及び北方領土に住んでいた日本人の苦労は筆舌に尽くしがたいもののようだ。
この一家も夫をシベリア抑留で、長男を引き揚げ船の爆破で亡くし、戦後を母と次男で生きて来た。
そういう物語性、題材を
もうちょっと違う形にしてくれても良かったのにと思う。
幻想的(?)な踊りを含む舞台が
入り込んでいる気持ちを すっとしらふに戻す。
まず面くらうのは
吉永小百合さんと阿部寛の夫婦設定。
最初 息子と母親なのかと思ったほどだ。
ラストに夢のように現れる夫の姿を息子に見るのだが、それを引きずってるものだから、なんだか入り込めない。
この物語が実話であろうがなかろうが、このような悲惨な家族は実在した事だろうに
一つ一つの感動場面(壮大な音楽付きで)が唐突過ぎて
感情が追いつかない。
北海道 札幌に本社を置く セイコーマートという今で言うコンビニエンスストアの創業者がモデルという事だが
フランチャイズ形式やその利益の分配(店舗との)が、今 現存するコンビニとは桁違いに善良らしい。
こういう形のコンビニが存続し続けて欲しいと思った。
んだけど、
そのあたりの事は映画では一切 伝わっては来ないし
そもそも そういう表現をしていない。
役者さんたちが 非常に豪華なのに
もったいない
それに尽きる。
この頃 フランチャイズ式の大手コンビニ各社の非道を報道で聞くにつけて
現在も北日本を中心に何店舗か 北海道ではかなりの数が存在するコンビニチェーンのようなので
大手に負けず生き残って欲しいと思う。映画に関係ないけれど。
そして最後に一つ。
ラストサムライで
桜の色があかすぎる!もっと白っぽく淡いほのかなピンクだ!と言ったけれど。
これ。日本人が作ってこんな商店街の街灯に刺さってる桜色にしてどーーーするのよー。
あれ?ソメイヨシノとは言ってないかな
八重の設定でしたかね。
深い愛を感じました。
てつの人生は人のためばかりのことで生きてきたのに、可哀想に思いました。
でも、最後にずっと耐えてきたことがやっと報われたところにグッと来ました。
舞台のシーンは賛否両極端に分かれてますが、私はこれで良かったのではと思います。
過酷な時代の話
第二次世界大戦中の話
ソ連が日本に攻めてきて、てつと子供らが網走へ避難し、旦那の帰りを待つ。
その次男の修二郎がアメリカへ渡り、修行をし、やがてホットドッグ店の社長となり、日本で店舗を広げていく。
修二郎が久しぶりに網走を訪ねると年老いたてつがいた。
てつの住む住宅が取り壊されることになるので、修二郎の家で居候することになるが、嫁のまりが心地よく思わなく‥。
戦争の悲惨さと修二郎の母に対する深い優しさが伝わった作品であった。
いい映画だった
素直に見てよかったって思った。
残酷なシーンを舞台劇で緩和させて、ストーリーに集中できました。変わった手法だけど、違和感は特になかったです。
強いて言えばマリさんのキャラがあまり定まってないなぁって感じた。まぁ、普通にいい人とワガママな人が混在してるのかな?
吉永小百合は吉永小百合・・・
吉永小百合ファンにとっては
最高傑作!ってかんじなのでしょうか。
まわりのご年配の方は上映中も少し笑い声が聞こえたり、
小さく「わッ」と声を出して驚いたり、
とリアクションが多々ありましたが
はたからみると、「?」です。
演技も滑舌も吉永小百合は吉永小百合。
吉永小百合の140本目?主演記念で作った映画を
ただみせられているという感じでした。
演劇の演出の意図もよくわからず。
吉永小百合の本格”汚れ役”。昭和VFXの気くばりが行き届いた映画
吉永小百合の120本目の出演作。かつての昭和スターには出演200本以上がザラにいるが、平成以降の映画製作ではそれを主要キャストで実現するのは至難の業。吉永小百合といえども平成以降は20本程度、100本近くが昭和作品である。それにしても現役俳優の中では別格中の別格である。
驚くべきは73歳(3月13日が誕生日)の単独主演。エンドロールに並ぶ、"製作・プロデューサー"にあたる人物が30人以上もいる!のは、いかに業界のお偉いさんたちに支えられているかが手に取るようにわかる。もちろんら共演者も日本映画の大俳優がズラリと揃う。
本作は「北の零年」(2005)、「北のカナリアたち」(2012)に続く、東映の"北のシリーズ"とされるが、ストーリーの相互関係はないので、3部作といわれてもピンとこない。いずれも"北海道を舞台にしている"ことと、あえて吉永小百合が"汚れ役"を演じるところに特徴がある。
汚れ役といっても、"絶対に恥部をさらさしてはならない"、そんな命題に守られた清純派の権化。演出や脚本で、その矛先が鈍るのか、それともそれを跳ね返すオーラなのか、やはり吉永小百合は吉永小百合である。
前2作と比べると本作はかなり踏み込んだ"汚れ役"ではある。終戦間際の1945年樺太から、困窮ゆえにヤミ米流通を手伝ったり、畑泥棒をしたり、子供を育て上げてからの無許可住宅での居座り、そして痴ほう症の役柄である。
終戦間際1945年の樺太で、暮らしていた江連(えづれ)家。突然のソ連軍の侵攻によって土地を追われてしまう。夫(阿部 寛)は出征し、妻の江蓮てつ(吉永小百合)は、2人の息子を連れて北海道の網走まで命からがらたどり着く。てつは夫が生きていると信じながらも息子を育て上げ、戦後を生き抜く。
1971年、てつの息子・修二郎(堺雅人)は日本初のコンビニを開店させる。そんなある日、修二郎のもとに役所から母親を保護してほしいと連絡が入る。
吉永お気に入りの阿部 寛が、出征した30代のダンナ役である。やはり吉永小百合が30代の妻を演じるのは痛々しい。しかし本作を観る世代には"同窓会メガネ"があるから大丈夫。"同窓会メガネ"は、何十年ぶりに集まっても、お互いが当時の感覚で打ち解けあえる空気に包まれる。他の世代からすると、キツネにつままれたような映画である。
独特なのは、戦後混乱期の回想シーンを劇中劇に置き換える演出である、映画の中でたびたび舞台劇シーンが挿入されるが、これが見事なアクセントとなっている。
映画の本編監督は滝田洋二郎(「おくりびと」ほか)だが、舞台演出は、ケラリーノ・サンドロヴィッチ。日本人である(笑)。世代によってはナゴムレコードのインディーズバンド"有頂天"の"ケラ"といったほうがわかりやすいかも。ミュージシャンでありながら劇団も主宰するクリエイターだ。
当時の時代考証に、きめ細かく気を使っている。北海道で走っていた蒸気機関車C-5696の再現や、VFXを駆使した空襲シーン、昭和の街並みの再現など、「三丁目の夕日」以降の邦画では当たり前となったCGを駆使した映像はよくできている。当時の全日空機も出てくる。修二郎の自宅にあるアナログプレーヤーがLo-D(日立)製だったりもする。
また本作は日本初のコンビニ、"セイコーマート(Seicomart)"が創作モデルのひとつになっている。セイコーマートは、現在でも北海道ではセブンイレブンより店舗数が多く、コンビニでお弁当や惣菜販売を始めたのもセイコーマートが日本初である。このあたりも楽しめる。
(2018/3/10 /TOHOシネマズ上野/シネスコ)
昭和の映画☆
吉永小百合さんの映画、映画館で初めて見ました。
いつも「皇后様のようだ・・」と思っていましたが、
じっさい拝見してもそんな感じでした。
お話は、それなりなんですが、全体的に古い感じがします。
共演者が、吉永さんのせいか良い役者が勢揃いしているので、
見ごたえはあるのですが、何だかなぁ・・
最後の桜の下に 全員勢揃いしているシーンとか、いまどき
こんなことはないんじゃない⁉と思いました。
最後にながれる小椋佳の歌の合唱も、文部省推薦で
学校で見ているようでした。
うーん、吉永さんを好きな人にはたまらない映画かも・・
吉永小百合舞台挨拶にて鑑賞。
一言で言えば『不思議な映画』と言える。
渾身の演技からか、感極まって何度か涙を流した、、それ故、感動した作品であるものの、
一方、ファンシーな展開を巧く飲み込めないのか多少疑問の残る“何とも言えない不思議な舞台劇”を見せられた感じがして、満点とすべきか、評価を下げれば良いか微妙な点ももある。
何より、滝田洋二郎監督作品は始めて劇場鑑賞するものの、画面構成に無理がなく、所々に私の過小評価する舞台劇を取り入れて、話を出来るだけコンパクトに纏めて、“作者の意図”で済ませず、鑑賞する者に全てを受け容れさせることに於いては綺麗な創りとも言える。
那須真知子の脚本も割と冴えた暖かみを感じる、ただクライマックスへの導入である、“2年後の北見”は幾ら何でも、主役のテツさん生きらてられないだろう…もう少し短いスパンと、なぜ北見の桜に辿り着いたかを説明して欲しかった。
昭和20年の樺太と、
昭和46年の北海道、
所々に昭和20-31年の網走が散りばめて、
それをきちんと丁寧に昭和46年の観点から整理し、一つ一つの流れを証明して稚内北岸での荒波でグッと引きつけて、人気の無いバス停を徘徊し、吹雪の中を歩くテツさんを見て涙が出ただけに、ラストへの持って行き方が個人的に残念。
『北の“桜守”』と言うからには桜で始まり、桜で終わらせたかったんだろうけど、テツさんの夢の中で咲かせても良かったのかもしれないけど、やはり現実に咲かせて月夜の桜で全てを語りたかったのかな。
先年亡くなった大鵬さんが樺太から引き揚げと少年時代の極貧生活に比べたら、相撲部屋なんて何の苦もなかった、
と仰ってましたが、本作拝見して、ソ連侵攻地域からの引き揚げされた方は戦後もだいぶ苦労された方が多かったようですね。
我が家も台湾から一家引き揚げした筋ですが、戦後は人並みの貧乏⇒世間同様の中産階級になったのが台湾組ですが、満州・樺太の方々は亡くなるまで苦労を背負っておられたと聞き及びます。
日本映画界最後の大スター・吉永小百合も壮年と言うか、老いの役柄を演じるようになり、端々の行動がその年代の親を持つ者としてはゾッとする側面もあり。
もし本作をご覧になるのであれば、HBC製作で時折CSで放送される『幻の町』、なかにし礼原作の作品『赤い月』の映画またはテレビドラマをご覧いただくと宜しいかもしれない。
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