「アニメの本質に迫る」夜明け告げるルーのうた mark108helloさんの映画レビュー(感想・評価)
アニメの本質に迫る
この作品は票が結構真っ二つに分かれているんだけれど、低い評価をしている人は殆どが宮崎アニメのエピゴーネンと言う躓きに会うと、もう物語に入っていけなくなってしまっている。昔よく言われたパリではパリの街並みに目が行く人と足元に落ちる犬の糞に気を取られる人ではパリの印象が180度違って見える現象だ。どちらがいいかどうかはここでもどうでも良い。それぞれの気質の問題だから。でも唯一いえる事は勿体ないよね、あんな素敵な街並みに目が行かないなんて!って言う事。今作品とポニョの類似性だけでこの作品を楽しめないなんてなんて勿体無いんだ・・と同じように思う訳で。事実最初の頃の評は殆どは★5つで、僕同様、何となくいろんなのに似てる~的な感想を凌駕するノリとテンションと同調感による興奮がこの作品を後押ししているのだと言う事の証ではないだろうか。
湯浅監督の作品は今回初めて鑑賞したわけだが、アニメ的には宮崎の作品とは全く異質なアニメだと思う。むしろ高畑に近いアニメ手法の作家とみた。元々高畑はアニメ手法的には手塚に近い。むしろ逆かな・・。宮崎はそののアニメ哲学で手塚と反目し合うが、実は似たタイプである高畑と仲がいいのは、制作、作画における職人性が二人の絆を強くしていたと言って良い。と言うより東映の伝統はまさにそこにあるからだと思う。一方手塚はどうかと言うとアニメ哲学において極めて芸術性を重視し、音楽との共通性を追求する。ここが将に今作品の高畑=手塚型の所以である。音楽がタイアップだとか、演奏方式の表現がどうだとか、打ち込みはソロ楽器メンバーといきなりジョイントしないとか‥どうでも良い事。
しかし手塚は制作、作画もとんでもない天才性を発揮したものだから宮崎に終生妬まれることになる。手塚の死亡記事に対する宮崎のコメントは異色です。でもいいのです二人とも稀代のアーティストであることに変わりはないのですから。手塚の作画が天才であることはアニメより漫画の方が一流であった事からも伺える。宮崎の漫画はそのレベルに到底追いついていない。嫉妬するのも無理からぬところだ。
さて今度はどこを宮崎、真似たかと言う指摘でキャラ、設定、取材等を上げてる方が多い。
キャラは確かに似ているが、これとて宮崎の場合、徹底して一貫しているのは物の怪はあくまで物の怪として描いており、設定としては後期の水木に近い。愛くるしくはしているが人間と必ず一線が引かれており、住み分けが前提でのニアミスを描いているのに対し、今作での人魚は人との交流を求めていて音楽を媒体としてそれを成し遂げようと物語が進行する。
特に人魚たちは誰かがゾンビじゃんって言ってたけれど、元人間や元動物たち・・人間社会にメチャクチャ未練のある存在たちで、その意識は特に人魚少女ルーに強くあるようですね。そしてルーはポニョと違い思春期の少女のような儚いエロスを持ち合わせています。人魚たちは恐らく漁民の人たちの心にくすぶる、まだ見ぬ自分、怒れる神によって分かたれた失いしもう一人の自分である、まだ見ぬ成長後の自分の化身でもあるかのようです。事実人魚と村民たちが一体となって、自然の脅威から身を守り抜いた後人魚たちは住処を無くしていなくなったけれど、島の民たちは、主人公の少年たちも含め新しい自分へと生まれ変わったではないか・・・。人魚は消えて漁民達の心を大きく成長させた成長譚とみるとこの物語は理解しやすくなる。エヴァしかり、新海監督の作品しかり・・そうこれは成長譚、少年たちだけに限らず人間の成長譚として描かれたのであると思う。
ポニョの街並は広島県の鞆の浦であることが良く知られているが今回の日無町のモデルとされた街並みは京都府の伊根町と言われているが、街並みは確かに取材されているようだが肝心の日の当たり方が違う。あの朝日の出方は明らかに太平洋側でなければいけない。事実湯浅監督は名古屋のどこかの島(実際は愛知県の)と言っている。宮崎アニメが極めて映画的な取材に基づき、職人的な処理の仕方で街並みを再現するのに対し湯浅アニメでは極めて柔軟に舞台も設定されている。最近流行りの巡礼マニアには何とも悩めしい設定ではあるが、アニメとしてはやはり王道と言える。
以上の考察から湯浅監督の今作品はアニメ哲学としては手塚さん(すなわちディズニー)的
制作哲学としてはもちろんジブリ的ではあるもののどちらかと言うと高畑さんよりの制作哲学を持った作品と言う事になると思います。
いずれにしても完成度の高い、多くの日本アニメの歴史と哲学を踏襲した金字塔となりうる作品のひとつと言えましょう。