三度目の殺人のレビュー・感想・評価
全146件中、81~100件目を表示
三度目って
役所広司が死刑になる事で自分を殺めたので三度目って解釈したのだけれど、後からもしかしたらって思った。
それは、広瀬すずをかばったことで実際には殺してないけど真犯人とゆう存在をこの世から抹殺したってゆう殺人。それが三度目なんじゃないかって解釈。
最後に役所広司が言っていた《器》って、物を受け入れない器は無い、つまり自分が死刑になることで広瀬すずを受け止める器になったって事なんだろうな、と。
考えれば考えるほど、唸る…。
こんなに深い話しなのに残念なことが、福山雅治が棒読みすぎる&斉藤由貴のスキャンダル。役所広司や広瀬すずや満島慎之助がすばらしいだけに、二人が目立って残念でした。
私の器が小さいからかな💦
不言
この物語で起きた事件の真相は誰にもわからない。フィクションの中での出来事だから、誰にも追求することは出来ない。強いて言うなら、是枝監督の頭の中には存在するのかもしれないが、監督がそれを口にすることは決してないだろう。
真実が語られないまま終わる。結局の誰の言葉のどこまでが本当のことで、どれが嘘だったのかもわからない。考察しようと思えば幾つかの可能性は挙げられるだろうが、そのどれも「そうかもしれない」の枠を出ない。
サスペンスというのは、最後に全てが明らかになるから面白い。これは当たり前だ。相棒にしてもコナンにしても、いつも数式みたいな脚本だと思いながら見ていたが、この作品はその裏をかいた魅力がある。何もわからないまま犯人が死刑になって終わる話。こんな終わり方をされると、逆に真実が気になって仕方がない。結局、なんで社長は殺されたのか。ついでに言えば、会社の食品偽装がどうとかいう問題も、その後どうなったのかは語られない。すべては想像の域を出ない。
正直、こういう作品こそ評価されるべきだと思う。「1+1=2」なのは誰でもわかる。では、「1+A=」だと何なのか。面白く作られたものだから面白い、というのでは当然すぎて、見る前からもう面白いということがわかりきっている。
今回、これといった情報も無しに観に行ったから、まぁ最終的には色々と明らかになるのだろうと思っていたら、本当に何もわからないまま終わった。こんな作品はなかなか無いと思う。外国で高く評価されたのだとしたら、素晴らしいことだと思う。
最後に。このレビューの「印象」のところ。この12項目しかないと、この映画の場合「知的」と、あと強いて言えば「難しい」ぐらいしかチェックを入れられるものがない。人によっては「怖い」とか、あと「寝られる」にも入れそうだが。「暗い」とか「重い」とか「モヤモヤする」とか、そういう項目もあって然るべきではないだろうか。
なんとなく、ずるい感じかな。
何を思って、何が嘘で、なんでその行動をとったのか?
そこを観客に任せてる感じな終わり方がなんかずるい。
役所広司の思考を敢えて描いてないんだろうけど…。
映像は良かった。斉藤由貴と広瀬すずの会話パートで振り返った時の影とか心情写してる気がしたし、最後の拘置所?で役所広司と福山雅治の顔が重なる部分は相手の心は自分に当てはめて理解できてると感じてるだけってのを示唆してると感じたし。。
役所さんすげー
もっと難解な映画なのかと思いきや、すごくわかりやすく描かれ、しかも画や映像にもこだわり、時間を忘れさせてくれるエンターテーメント、さすがですね。
予算もそんなにかかってないようにみえましたし、是枝さんはプロ中のプロですね。
ぬかりない。
時に、福山さんと役所さんの留置所コントかなとさえ思わせるやりとり。
役所さんのすごさに最後まで振り回されました。
三隅はサイコパスなのか情に厚い人なのか、闇の中ですが、私は単純に情に厚い人だと思いました。スズちゃん演じる娘を幸せにしてやれなかった実の娘に置き換え、スズちゃんの幸せを思い、かばったのだと思います。
そんな風に観終わったあとも観た人に想像させる楽しみを与えてくれる。
山田くん、是枝さんに座布団一枚持ってって。
余韻を残す…
殺害シーンから始まる。
撲殺し火をつけ…燃え上がる炎。
炎が犯人の顔を赤く映しだす。
犯人の三隅は前科があり次は死刑と言う状況の中弁護を引き受けた重盛は無期懲役に持っていくために奔走する。全ては依頼主を守る為。
裁判で勝つ為なら多少の嘘も方便とばかりにシナリオを描く様に司法とは何かと疑問を持った。
犯罪者の心情を理解する等無意味と考えていた重盛がいつしか三隅の闇に足を踏み入れていた。足の悪い被害者の娘と三隅の関係に興味を持ったのは重盛にも同年代の娘がいたからではないだろうか。
娘を思う父親という共通点で裁判は思わぬ方向へ進展する。
三隅は本当に空っぽの器だったのだろうか。
実の娘から死んで欲しいと言われ、生きてるだけで人を傷つける人間がいると言い、命の選別をする裁判官に憧れたと言う。
三度目の殺人とは三隅が自分自身を死刑にすることだったのではないか。
被害者の娘が裁判所で言った言葉。
「ここでは誰も本当の事を言わない」
裁判とは何だろう?
弁護士の仕事とは何だろう?
疑問が残るが、全ては三隅のシナリオ通りだったのかもしれない。
3度目の殺人とは何か
3度目の殺人とは何か。
結局、ラストシーンまで3度目の殺人とは何だったのか、宙ぶらりんのまま答えは出ず、幕を閉じる。
その言葉は宙ぶらりんのまま、この映画を引っ張り、三隅と重盛の対峙も答えを出さずに終わる。
ラストで重盛が佇む十字路はキリスト教的な暗示、空に浮かぶ電線も十字を切り、重盛が三隅に投げ掛ける「貴方はただの器。。。?」という言葉からも、十字は反復してこの世界に神の存在を語り掛けるように見えるが、あれはもしかするとそのまま十字路を表しているのかもしれない。
人が人生の中で真実を見つめてはまり込む辻。
どちらに行けば正解なのか、どの道が果たして真実に辿り着くのか。
重盛は佇むのみ。
真実に辿り着く事はない。
それは真実を追い求めるから。
人生において真実というものは重要ではない。
行った先がその人の人生の真実になるから。
結果が真実である。
だが、重盛は佇む。
真実に辿り着くことが出来ないのだ。
三隅は真実を語らない。
或いはその時その時、彼が語った事は全て真実なのかもしれない。
だが真実は世の中に明らかにされる事はない。
全てが明らかにされる事なく、全ては宙ぶらりんのまま、裁判は終了する。
三隅は分かっているのだ。
真実が何か分からないままでも、世は全て調和的に動く。
人が真実から遠く居たとしても、世界はシステムの上で動いていくのだ。
或いはシステマティックに動く世界によって真実は決定し、真実は世界から遠く離れた場所で輝くのだ。
誰も太陽に触る事は無いが、太陽の光によって恩恵を受け、生きていく。
真実は触らずとも、その真実を自分の都合の良いように解釈して生きていくことが出来る。
その真実に触れたいと思う時、人は十字路に佇むことになる。
真実は十字路から遠く離れた、しかし十字路を隈なく照らす天上にのみあるのだから、触る事は出来ない。
手に取ることの出来ない場所にあるのだから、その全体像を見る事は出来ない。
人は神に近づく事は出来ない。
その存在を信じ、只管に信仰して生きていく。
だから生きていくことが出来る。
触ることが出来る存在であれば、理解し尽くすことが出来れば、人はそのために生きようとはしないかもしれない。
触った瞬間に焼け死んでしまうのかもしれない。
重盛は最早真実に辿り着く事は出来ず、また生きていく。
だが彼は最早前のようには生きて行けないかもしれない。
三隅の後ろに、事件の後ろに宙ぶらりんの芯となる真実が在ったが、見ようとしても見えない。
その見えない真実を見ようとする行為を覚えてしまったから。
彼の佇む真実の十字路の上には十字を切った電線が走り、そのまた上には神の居る天が広がる。
そこに真実が在るが、彼には見えない。
本当はそれを見なくても生きていく事は出来るし、ほとんどの人は見えなくても生きていける。
真実が「在る」ということさえ知っていれば生きていける。
だが真実そのものを見ようとすれば、人は佇む。立ち竦むことになる。
そして立ち竦み、じっと真実を見つめようとする人は、生きては行けない。
人生は真実とは関係なく進んでいくものだからである。
映画全体を通して、「第3の殺人」というタイトルがその宙ぶらりんの軸である。
映画の中で具体的に第3の殺人が描かれる事はない。
その言葉は人により解釈を変え、でもそのいずれも具体性を欠いてピントをぼやかしている。
うまく出来たタイトルである。
事実、この世界でピントの合った真実が存在する事は無い。
世は並べて宙ぶらりんである。
結局
結局、三度目の殺人者は彼だったのか、と思うのは勘違いだろうか。
雪の上で三人が寝そべるシーンで、彼だけが違うポーズ。
そして、三人の頭の上にある足跡の有無も布石だと思う。
切ない話です。
この「三度目」の考え方はどうでしょうか?
「三度目」の意味について、一緒に観た友人も大体の皆さんと同じ解釈で、それも私は納得しましたが、重複した意味があるのでは?と思いました
以下、私が終わってすぐ感じた感想です
すずちゃんが殺した(1度目)
彼女の殺したいという思いを器で受けた役所さんが追体験した(2度目)
役所さんにとりこまれてしまいかけた福山さんが追体験した(3度目)
福山さんが頬の血を拭う仕草をした時に、三人とも同じことをしていたのでそう感じました
すずちゃんと役所さんが、福山さんの追体験?の中、二人で川原に立ち血を拭っていたので、どちらが殺してどちらがシンクロしたのかわからない描写でもありました
そうすると辻褄を考えるわけですが、、
すずちゃん「あの人が言ってた通りだった、みんな本当のことを言わない」
→彼女も本当のことを言ってなかったのではないか?虐待の話をすることで、犯人になった役所さんの減刑に手を貸すことで、せめてもの償い
十字架の印
→誰がかいたの?
ただの直感だったので、この視点で考察してくれる方がいると嬉しいなと思います
ブラックホール
目撃者の無い事件を客観的に裁くことなどまず不可能に近い話なのだと今さらながら感じた。
役所広司の猟奇的な芝居は観てる方も恐さを感じるほど。その三隅を中心に広がっていくある意味破綻しているとも言える人間関係がストーリーをより複雑に、そして面白くしていたと思う。
嘘と真実、生と死。対極にあるようで、実は表裏一体で最も近くに存在しているようなものだからこそ、人を裁くのは困難を極めるのだろう。被告人が裁量の対象になるのは当たり前だが、この世界には社会的、法的にではなく、罪を犯している人がいるかもしれない…そのようなメタファーを強く感じた。裁くもの、ひと、理由、それらが暗闇の奥底にあるような印象を受ける作品だった。
他人の気持ちの「器」となること
まず、役所広司の北国の人の演技が素晴らしかった。三隅は、北国の人特有の紅く腫れた目と何を考えているのか分からない不気味さがありながらも、どこか賢者のような風貌を漂わせている。
言うまでもないが、本作は「カラマーゾフの兄弟」とキリストの贖罪を踏まえたストーリー展開をしている。三隅が本当に殺人を犯したかどうかは不明のままだが、殺害の実行行為を行っているかどうかはさておき、この人は他人の罪を引き受けることに全く抵抗がないようだ。おそらく、誰かの強い気持ちを心の器にそのまま流れ込ませることを容認し、相手と同化したまま行動してしまうのだろう。カラマーゾフで犯罪を行ったのがイワンなのかスメルジャコフなのかがはっきりとしないのは、この両者の意思が混然一体となり区別不能な状態となっているからだ。三隅にそうした能力があることは、福山演じる弁護士の考えをあたかも自らの考えとして表現するところからも読み取れる。
多くの人間は、人と対峙する際に当然ながら防禦壁を作り、自らの中に相手を必要以上に入り込ませないようにする。でも、三隅のように無防備に心の器を開く人もいるのかもしれない。それは、三隅が自分が失われる恐怖を信じられないくらい軽視しているからだ。だから、彼は、自分が死刑になることに対しても無関心な態度を取る。死刑と人の気持ちを量りにかけたとき、人の気持ちの方が重いと感じる人なのだと思う。
世の中には木嶋佳苗のように人の命をおそろしく軽く評価する人間がいる。とすれば、逆に自分の命を信じられないくらい軽く評価する人間もいるのかもしれない。自らの死をもって人の罪を引き受ける態度はキリストにも通じる面があると思った。
法廷で三隅が一転して無罪を主張した理由は謎だが、最後に三隅がアクリル板越しに福山と面会をした際に、小鳥を空に放つような手のしぐさをしたのは印象的だった。あれは、広瀬すず演じる女子高生を解き放つという意味だったのかなあと思った。
すごく色々と考えさせられるいい映画だった。
福山も僕らも…誰一人犯人には追いつけない群盲のまま。
この映画は法廷劇ではない。
接見室での犯人と弁護士の会話の積み重ねが重要であり、それを中心にひたすら淡々と犯人と弁護士、様々な人々が描かれてゆく。やがてそれらは徐々に凄味を増してゆき、やがて第三の殺人として犯人自身を殺すことで確かに何かが成就するのだが......。
役所広司演じる犯人三隅は、誰よりも優しく弱い。そして何よりも強い意思を持つ掴みどころのない人物だ。人の思いに感応して殺人を犯し、先回りをして言動を変えてゆく。彼は言わば現代に出現した妖怪サトリ的な人物なのかもしれない....ふとそんなことまでも思わせるような存在だ。そして人を殺すことには罪悪を持たないソシオパスでもあると確信している。
ラスト、結審後に接見し三隅の真意を掴もうとする重盛。ここで会話する二人の顔を仕切りガラスで重ねる手法が圧巻なのである。犯人と重なりそうで重ならない顔。これほど犯人の真意に届きそうで届かないことを巧みに表した演出はないないだろう。
そして僕らは福山演じる弁護士重盛とともに犯人の真意に手が届きそうになる刹那---「あなたは入れ物?」「何ですか?入れ物って」....ここで重なりかけた二人の顔は完全に離れてしまう。そう、犯人はすべてを突き放して物語は終わる。劇中で「群盲象を評す」の故事が語られるが、まさに我々は群盲のまま、犯人を掴めないままにこの物語は終わるのだ。これはすごいラストだと思う。
決して興行的には大成功にはならないだろうが、こんな映画が生まれるのだから日本映画もまだまだ捨てたものではないと思わせる作品である。
----以下雑感(笑)
市川実日子は、どうにもシン・ゴジラのリケジョのイメージが強く、見るたびどうにも蒲田君が浮かんでしまったw
斉藤由貴は、娘の凶悪な厄災に目をつむり、夫の事業の不正を隠ぺいしながら諾諾と生きるの女という役回りが、いまの不倫騒動と相まって非常に感慨深い。
1秒も目が離せない
まず驚いたのは役者の皆さんの演技力。
特に福山さんと役所さんの演技に本当に引き込まれました。
ストーリーも最後の最後まで誰が犯人か、誰が嘘をついていて誰が真実を言っているのか全くわからず、真実はなんだ?!と思っていたらまさかのエンドロール。裏切られた!モヤモヤする!(もちろんいい意味で)
もちろんこの終わり方に賛否両論だとは思うが、伏線を全て回収しなければいけない、謎を残してしまってはいけない、ハッピーエンドでなければいけない、という最近の映画の傾向に抗ったことが素晴らしいと思う。そもそもそういう考えが最近の映画やドラマをつまらなくさせていると思う。
司法とは何を守るためのものなのか
面白かった〜
一度目の殺人で、娘につらい思いをさせてしまい
二度目の殺人で、娘の願いを叶え
三度目は自己犠牲で娘を守った
殺人犯の三隅
主人公の弁護士・重盛は娘のそばにいられない自分と三隅を重ね合わせ
冷静な判断をくだすことができない
本来なら、法廷が市民を守るべきはずなのに、「善悪」よりも「勝ち負け」にこだわるあまり、真実に蓋をし、彼らが決めたシナリオに沿って、裁判は進められていく
結局、本当に裁かれるべき人間は、裁かれないまま闇の中へと葬りさられる
この中で、救われた気分になっているのは、「自己犠牲」で神にその身を捧げた三隅かもしれない
真実は神様だけが知っている
是枝監督さんの世界観
この作品は、ある殺人事件があり、法廷で裁判が行われるという、最近では日常的とも思えるような刑事裁判がテーマです。
一つの事件の真相を解明することは、裁判に関わる法曹界のそれぞれの在り様で人が人を裁くと云うことであり、判決の一つ「死刑」それは言い換えれば殺人とも言える訳です。
裁判員裁判が現実に行われており、もし自分が裁判員に指名されたらどうするかと云うことを考えると、登場人物の台詞の中から思い起こされ、普段何気なく遣り過ごしてきてしまったことが当事者として起こり得ることもあるかと、怖いように思えてきます。
犯人と思われる、役所さん演じる三隅に翻弄される福山さんが演じる弁護士は、観ている私達の身代わりの姿でもあり、監督さんは、他人事ではなく自分自身が拘わることも有り得る事への思慮の喚起を促すため、接見の度に被告人の態度を変化させる手立てを採り、そして敢えて最終弁論を言わせる場面を作らなかったのではないでしょうか。
恐らく、監督さんの答えは出ているけれども、台詞から読み解いて貰うという演出手腕で、観劇者一人一人に判断を委ねることが、この「三度目の殺人」と云うタイトルにした所以ではないかと、私は今のところ考えています。
映像と音楽、そして出演者の方々の存在感、演技力には感心させられ、美しく素敵な役者さんの姿に魅せられました。
現在、難病を患っている旦那さんと観賞しました。
時間的に耐えられるか心配もあり、寝ているかもと横目で見たらしっかりと画面を直視していました。 本人は、「真剣に考えながら観たので、とても面白かった」と 。 考えることの刺激によるのか、ドーパミンの働きが良くなったようで、近いうちにまた観に行こうと自分から言い出し、福山の歌が聴きたくなったと言うのには笑ってしまいました。
おかげさまでその日は映画談議が弾み嬉しかったです。
ハッピーエンド、又は悲劇に終わる「起承転結」のはっきりした作品を楽しむことを一つの要因とするなら、この作品の終結のあり方の意図を汲み取り、考えあぐね、または意見交換をすることも映画の醍醐味を愉しむ一つではないかと思えています。
レビューの中には、つまらなかった。 もやもやした気持ちになり意味が解らない。 との意見もあります。
恵まれた環境で幸せに暮らして来られたのかなと思えたり、出自などの違いでも受け止め方は違うのだなと云うことを感じ、読まさせていただくのも参考になりました。
器
.
映画が終わった頃に三度目の殺人が終わるところにこの映画の趣旨を感じられた。
三度目が自分を殺すことだったことを感じる空間のシーン。
あの空間のシーンが多かったのも、
三隅の心情を投影したかったのか
「あなたは、器ですか?」というセリフで締められたこの作品。
最初も途中までも終わっても
犯人は分かっていても
劇中では明らかにされず、
モヤモヤと終わった後に感じずには
いられなくなるものになっているのも
この作品の一つの醍醐味だと思う。
心理が好きではない人には
オススメはしない。
.
公判中の共犯者について
弁護士重森の父親、裁判長だった重盛彰久が共犯者だったのではないかと思う。
三隅が咲江を守るために殺人を犯したとして、殺人まではともかく、公判中に本当の殺害動機に目が向かないように進める知識が三隅にあっただろうか。
特に三隅が犯行を否定した箇所は、一歩間違えば他の犯人を捜すため、咲江の父親に対し恨みを持つ人間、強いては咲江の父親の人間性に目が向く。そうなってしまえば咲江との関係性に注目される可能性はゼロじゃない。咲江を守るという意図とは大きく外れる行動だ。しかし実際のところ、三隅の過去の犯罪歴や今までの裁判での発言、なにより現在の司法の在り方で、三隅の死刑が決まり、本当の動機は隠される。
三隅の行動はここまで考え抜いた上でないと成立しない。しかし果たして彼にそこまでの知識があっただろうか。誰か司法に詳しい人間の助力があったと考えさせる。
現在の司法について理解がある人物は、登場人物の中では、弁護士、検察、そして裁判長であった重森の父だ。三隅と重森の父は葉書のやり取りがあり、また、三隅は重森の父を尊敬している節がある。なにより、映画で語られることはなかったが、三隅が重森の娘の存在を知っていたのは、重森の父に聞いたのではないだろうか。重森はいずれ、公判の進め方について助力している人間の存在を考える。そして自分に娘がいることを三隅が知った理由と結びつける。これは重森の父が重森に向けて発信したメッセージだと思う。これ以上真実について深追いするのであれば、お前も、お前の娘も第3者ではいられない、と。
重森が娘を大事に思っている描写や、親子の関係であっても理解できない、という重森の父の言動はここに結びついている気がする。
三隅が妖怪のさとりのようだった
最初は虚言癖の人なのかなと思った三隅が、だんだん何を目的にしているのか分からなくなり、最後の器…?で、妖怪のさとりの様な物なのかなと感じました。人間の形をしているけど理解出来ない何か。コクソンを少し思い出しました。
三度目の殺人?
タイトルの三度目の殺人はつまり、犯人とされるミスミに死刑が求刑されることを示しているんだろうか。それとも、ミスミ自身が強盗殺人を供述したことにより自身を殺したことがミスミが犯した三度目の殺人なのか…
胸くそ系は食事シーン多めなのはなんか小休止的な意味合いでもあるんでしょうか。葛城事件を思い出しました
システムを利用した合法的な殺人
最近観た中では、『ベイビー・ドライバー』の映画的爽快感と対極をなすようなイライラ感と後味の悪さ。
なのに、〝そうあっては欲しくない〟現代社会の有り様といったものが突きつけられ、ズンとのしかかってくる重い余韻があります。
世の中は結局、出来上がった社会のシステムの都合で動いているのですね。局面的には、誰かの都合であったり、スケジュールの都合であったり、会社や組織の都合であったりするわけですが、世の中全般に於いて、物事を停滞させないためには、どこかで折り合いをつけて都合を合わせなければいけないわけです。社会のシステムの都合や段取りを変えてまで何かをなす為には、アメコミヒーローとまではいかなくても、かなりスーパーな力が無いと難しいのが現実だと思います(少なくとも個人の正義感や理念だけでは、残念ながら、裁判の日程は変えられないということです)。
役所さん演ずる三隅は、自分を殺す、すなわち、三度目の殺人を犯すために、見事に死刑制度という社会システムを〝都合良く〟利用したわけです。この逆転の発想こそがこの映画の肝なのだと、個人的には大いに感心しているところです。
【ご参考】
生まれなければ良かった、いや、あなたを必要としている人がいる、といった切実で真剣で答の出ない心情を色々な角度から描き、それなりに納得感を得られる作品として、新潮文庫 早見和真 『イノセントデイズ』をお勧めします。どこかで三隅の考えの一端と重なるように思います。
全146件中、81~100件目を表示