「サスペンスのその奥で、人間の感情の暗部を抉る」セールスマン 天秤座ルネッサンスさんの映画レビュー(感想・評価)
サスペンスのその奥で、人間の感情の暗部を抉る
寸分の狂いもないような物語だと思った。冒頭で突然マンションが崩壊するシーンから始まってすべてが緻密で綿密でもう計算し尽くされたような物語と演出。派手な装飾も何もないのに、ずっと映画から目が離せなくなる。そしてある事件をきっかけにして、一組の夫婦の運命が変わると同時に夫婦の関係も変化し、そして人間の思い違いや思い過ごし、思い込みなんかが、まるでメッキが剥がれるようにボロボロと剥き出しにされていく様子に、イランという国の風土も相まって最後まで緊張感が止まらなかった。
確かに物語はサスペンスの要素がある。主人公の男は、妻に暴行した犯人を捜して奔走するし、謎解きのミステリーのような展開もある。けれどもやっぱりこの映画は人間のドラマだと思う。罪を犯すことと復讐心と赦し。誤解と偏見と決めつけ。そういった人間のあらゆる感情に肉体が冒されて突き動かされて、しかしいつしか何かを見失っていく様子は間違いなく人間の感情の奥底を抉ったドラマだと思ったし、その上で、どんなサスペンス映画より緊張感があったし、どんなミステリーよりも深遠だと思った。
善と悪は必ずしも白と黒で色分けされるわけではなく、特に、何処までも黒い完全な悪は存在するとしても、完全な白、完全なる善というのは、いったい存在するのだろうか?と作品を観た後でふと考えてしまった。妻を傷つけた犯人を見つけ出したい、そして懲らしめてやりたい。その気持ちはとても理解できるし至極真っ当な考え。自分がその立場なら、同じことをしたかもしれないと思う。けれどイランという国で、その事件で警察に行くということはさらに妻を傷つけることになる。だからと言って、自力で犯人を探し出すことは一体誰のためで誰を傷つけているのか?誰一人望む者のいない「犯人捜し」そして「復讐」という善意は、どのくらい白い善だったのだろう?とふと思うのだ。
夫がこの犯人探しに何を望んでいたのか、それを眼前に突きつけられ、それがいかに不毛であるかが明かされるラストに、まるで此方まで打ちのめされるような、あまりのやり切れなさと虚しさ。映画が終わって思わず深いため息が漏れて、自分がいつからか映画を観ながら息を止めていたことに気づいたほどだった。
アメリカ大統領の政策のために、曰くつきでオスカーを受賞したように思われてしまっている嫌いがあるのが非常に辛いのだが、本当に凄い映画なので、誤解せずに評価されてほしいと切に願う。撮る映画撮る映画毎回凄まじい作品ばかりを生み出すアスガー・ファルハディの更なる凄みを見たような感じだった。