「日本人が白人社会を征服する日」猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー) 曽羅密さんの映画レビュー(感想・評価)
日本人が白人社会を征服する日
本作は最初から最後まで衝撃であった。
それは映像の技術が優れていたからではない。
本当に驚いたのは隠された内容にである。
『猿の惑星』の原作者はピエール・ブールというフランス人である。
彼は『猿の惑星』の他にデビッド・リーンが映画化したことで有名な『戦場にかける橋』という小説も著している。
この映画では早川雪洲が演じた斎藤大佐の存在感が際立つ。
そしてこの映画で連合軍捕虜を使役して日本軍が建設していたのが泰緬鉄道(泰:タイ、緬:ビルマ、タイとビルマを結ぶ鉄道)である。
ブールは日本軍の捕虜となりその経験でこの小説を書いたと言われている。(実際は諸説あって定かではないが、ナチスに占領された故国フランス独立のためにアジアでスパイ活動をしていたのではないかと言われている)
なおこの泰緬鉄道の開通式に参加した機関車は靖国神社内の遊就館という博物館で見られる。展示されているのはC56型蒸気機関車31号車になり、この泰緬鉄道部隊の元軍人の方々がタイとの交渉をまとめ1977年に靖国神社に奉納されている。
もう10年以上前になるが筆者が当時通っていた映画学校の課題として靖国神社を取材していた縁で、幸運にもこの泰緬鉄道を奉納された方からお話を伺うことができた。
奉納された1977年から毎年年末になると、元軍人の皆さんが集まって機関車を大掃除するのが恒例の行事になっていた。
それはもうみなさん手抜きなく、まるで愛する我が子を扱うかのように隅から隅まできれいに掃除されていた。その際、筆者も普段は立ち入ることのできない機関室内部を特別に見せていただいた。
ただ年々鬼籍に入られる方や体調を崩される方が増えて参加される人数は徐々に減っているとのことであった。
その中に旧日本軍の元大佐?(少佐?多分それぐらい地位の高い方だったように思う。ほぼ泰緬鉄道建設の責任者だった記憶がある)がいらっしゃり、『戦場にかける橋』で描かれているのは誇張と嘘だとおっしゃっていた。
日本の捕虜になった連合軍の軍人がよく「木の根っこを食べさせられた」と言うが、上記の方は「彼らは肉食だから、こっちは少ない食料の中から何とかごぼうとか食べさせても不満だったんだよ」とおっしゃったのを強く覚えている。
さて二次大戦というと日本では普段「太平洋戦争」と呼称されているので、今の日本人はアメリカに武力で圧倒されて力負けしたとしか思えないかもしれないが、戦争初期、太平洋以外のアジアで日本軍は向かうところ敵なしであった。
フィリピンで親子2代にわたって勝手放題好き放題をしてフィリピン人も多数虐殺し、彼らから大層憎まれていたマッカーサーも口では「I shall return」などと言ったが、実際は精強な日本軍の攻撃を受けて部下を見捨ててさっさと逃げた。
イギリスもインド洋に東洋艦隊を派遣していたが、予想だにしなかったゼロ戦を中心とする日本軍の航空攻撃の前に「レパルス」「プリンス・オブ・ウェールズ」という主力戦艦を失い、事実上アジアでの海軍力がゼロになった。
今のチャールズ王太子(日本のマスコミはなぜか「皇太子」というが、王の世継ぎは「王太子」が正式名称であり、「皇太子」が存在するのは天皇の存在する日本だけである)の称号は「プリンス・オブ・ウェールズ」である。
まさに「王太子」と命名された主力戦艦が沈められたのだ。後にチャーチルは回顧録の中で「戦争全体でその報告以上に私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」と語るほど敗戦のショックは凄まじかった。
英歴史学者トインビーも「日本人が歴史上に残した業績の意義は西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかにした点である」と述べている。
なお彼は上記の記述などからかつては日本でも人気があったが、実はお隣の漢族にも人気がある。なぜなら人数の多い漢族にいずれ日本も飲み込まれ、アジアは彼らのものになるとの記述もあるからである。
日本も漢族もどちらも自分たちに都合の悪いものには見ないふりをしているのだろうか?
さて以上のように白人にとって日本人に負けたのは相当な衝撃であったわけだが、それはもちろん『猿の惑星』の原作者ブールとてもいっしょである。
もう察しのいい方はおわかりだろう(もちろん知っている方は始めから知っているだろう)が、『猿の惑星』の「猿」は日本人である。
彼は「劣等人種」である日本人への恐怖と屈辱を反動にして小説を書いていた。
そして本作、冒頭に米軍兵士たちのヘルメットに書かれた標語の数々は、二次大戦時に実際に「猿」を「Jap(日本人の蔑称)」に変更して使われていたものだと思われる。
極めつけは中盤の大佐の基地に書かれていた「いいコングは死んだコングだけ」という標語である。「いいジャップは死んだジャップだけ」という標語が戦時中の米軍に確実に存在している。
彼らアメリカの白人(もちろん全員ではない)が日本人を人と思っていなかった事例は数えればきりがない。有名な例としては死んだ日本兵の頭蓋骨を米兵がお土産として多く持ち帰ったことだろうか。
昨今のハリウッドは人種の割合にこだわる。『美女と野獣』や『キングアーサー』など本来は白人しかいない世界を描いた作品ですら黒人やヒスパニック、アジア系が結構な割合でまざる。
それにひきかえ本作はSF作品のはずなのに白人の比率が異常に高い。黒人やヒスパニックもいるにはいるがそこまで多くない。唯一アジア系兵士が登場するのは猿たちにエサが配給されるシーンだけである。なぜか米軍兵士たちの好印象となるシーンで、エサの後ろに、しかも兵士たちの真ん中の目立つ位置に1回だけ配されている。
アメリカに白人が入植してから今日まで1000万人いたインディアンは95%が滅ぼされている。
しかも途中からは、精悍な戦士と戦うよりもまずは後方に控える女子どもを優先して殺している。インディアン戦士の戦意をそぎ後の戦士を生まないために。
日本の市街地広島・長崎に原爆を落としたのも同じ理由である。しかも原爆の威力を計るために京都・広島・長崎・小倉は大規模空襲からあえて外していた。
アジア人女性に白人の子どもを産ませて知能を良くする必要があるが、下等な日本人だけは4つの島に押し込めていずれは殲滅するべきだ、と堂々と発言して日本への敵意を隠そうともしなかった米大統領フランクリン・ルーズベルトが戦争中に病死したおかげで京都への原爆投下は免れた。恐らく彼が生きていれば何の躊躇もなく落とされ京都も灰燼に帰したしただろう。
ウディ・ハレルソン扮する大佐がシーザーの妻と子どもを殺し、それをシーザーから指摘された際に「これは戦争なのだ」と開き直るシーンはまるで彼ら白人の最も醜い戦争観を体現しているようであった。
また本作の最後では猿どころか同じ人間同士が争うわけだが、攻めて来た軍隊の構成も白人が異様に多い。
また猿を撃ち殺すシーンでも主に白人がマシンガンを使用していたりと、全体的に白人の残酷さが強く印象に残る。
そのため本作では人間よりもむしろ猿たちに感情移入してしまう。
人間側で良く描かれているのは猿たちに心を寄せる話せない白人少女の「ノバ」だけである。
もしやトランプ政権の白人至上主義とも取れる「アメリカファースト」に反発してのことなのか?と勘ぐってしまったがそれだけには思えない。
なぜなら前述した標語の他にも日本を感じさせるシーンが2つほどあるからだ。
シーザー一行がノバと出会う村?の入り口にまるで鳥居のようなものが見える。後にカメラが動いて手前の木柵と後方の木柵を合わせた目の錯覚であることがわかる。
猿を皆殺しにしようとする人間に対して、人間の少女を助ける猿たち、彼らが善行を積むシーンでなぜ鳥居が?
こんな話がある。かつて沖縄で1人の米兵が日本人少女を保護したという。すると突如として2人の日本兵が現れ米兵は死を覚悟した。しかし、少女を保護しているのがわかった2人はお辞儀をして去ったのだという。
戦後米兵は彼ら2人に会いたがったのだという。
真白な雪景色の中に突然あざやかなピンク色の樹が現れる、まるで桜の木のように見える。そしてルカが枝から花を手折ってノバの髪の毛に差す。
しかもルカが死んだ際に今度はノバがその花をルカの頭の毛に差す。
ルカはシーザーを守るために盾となって死んでいくわけだが、二次大戦中日本兵は死んだら桜の咲く靖国神社で会おうと戦友同士で話し合い、家族あての遺書にもしたためていた。
まるで死に装束の効果を狙ったかのような白い雪景色の中、桜のような花、戦前の日本人が持っていた志高く潔い死生観を表現しているように思えるのだが偶然だろうか?
こうなると、猿たちが人間から仕掛けられて戦争を始めたという設定まで日本が戦争を始めた背景に重なって見えて来てしまう。
日本は最後の最後まで戦争を回避したかった。しかしあらゆる国から石油を止められもはや戦争せざるを得なくなってしまった。
これは前述した卑怯者のマッカーサーですら朝鮮戦争の際に、日本の戦争は「自衛のための戦争」だったと認めたくらいである。
しかも本作ではリーダーのシーザーは猿全体の団結を呼びかけ、憎き大佐をすら許してしまう。
戦争の大義を植民地支配からのアジアの解放としてアジア全体に団結を呼びかけ、いうなれば「人類みな兄弟」という意味になる「八紘一宇」という言葉をかかげた日本にしか見えない。
最後は人間同士が殺し合った末に自然の象徴である雪崩によって全滅する。最終的なところで猿は手を下していない。
さすがに猿が人間を皆殺しにするようには描けなかっただろうが、それでもアメリカでは本作を観てこの描写に憤慨する人々もいるのではないだろうか?
制作者側が「猿」が日本人の暗喩であることを知らないはずがない。
筆者はあの戦争がすべて日本が正しかったというつもりはない。国益と自衛のために動いていた側面は大きいだろう。
しかし、黄色人種が白人国家を相手に粘り強く戦う姿は多くのアジア人を勇気付けたはずだし、実際に日本軍が占領中は各国で教育の普及と、自国民による軍隊の組織が推進された。
それにより大戦後、日本軍のいなくなったインドネシアにオランダが再植民地化するために軍隊を派遣するが、見事に撃退されている。ベトナム・ビルマ・カンボジアも同じである。
いまだ二次大戦はすべて日本が悪いと考える歴史学者がアメリカを牛耳っていて反論すら許さないらしいが、ありがたいことにアメリカ人やイギリス人の一部に、日本の戦争を正義の戦争と再評価し直し、それを英語書籍化してAmazonで販売するなどの動きも出ている。
第1作『猿の惑星』につながる「ノバ」や「コーネリアス」の名前が登場すること、パフォーマンスキャプチャーがより高いレベルで実現されていることなど見所は他にもたくさんある。
ただ筆者の目には本作での「猿の惑星」の実現は、日本の戦争意義を再評価する暗喩にも見えてしまったのである。
最後に本作の邦題における副題は「聖戦」と書いて「グレート・ウォー」と読ませている。
しかし英題は単に「War」であり、本編中で大佐が1度だけ「聖戦」の言葉を使用しているが、英語は「Horly War」である。
GHQに占領されて使用を禁じられた経緯があるが、かつて日本が閣議決定までして正式採用した二次大戦中の戦争の名前は「大東亜戦争」であり、英語では「Great Eastern Asian War」となる。
本作の作品内容から見て、副題にそれを連想させるような「グレート」が使用されているので、改悪邦題ばかりつける日本の映画業界にもまともなセンスの持ち主がいるのかと一瞬嬉しくなったが、恐らくは単に「戦争」だと弱く「聖戦」で「ホーリー・ウォー」と読ませたのでは宗教戦争のようで嫌っただけだろう。