「ドニー・ダーコか、まどマギか、」打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? よんしんさんの映画レビュー(感想・評価)
ドニー・ダーコか、まどマギか、
映画公開時は、また古い映画のアニメ化かあ、と思って、多少の興味は持ちつつも結局今回の地上波放映まで見ずじまいでした。
まず内容はともかく絵がね、上手いところと下手なところの差が大きくて気になりました。
1/4くらいは海外発注なんでしょうが、クオリティの高い映像に、突然の作画崩壊気味な映像が入り込み、さらに不自然なCGの挿入で、なんだか海外のアニメ会社が日本のアニメを必死に真似て作ったような映像になっていました。
あと、菅田将暉は声優で主役を務めるにはもうちょっとだったかな。
ところどころ美しい映像が入るだけに、クオリティの安定しない映像面のアラがかえって目立ってしまい、アニメオタクではない私でも、日本の劇場版アニメってこんなだったっけ?と何度も思いながら観てしまいました。
ストーリー自体は、主人公たちが中学生ということで、年頃の観客にはグっと来るかもしれませんし、大人が見れば中学生の浅はかな本気の、どこまでが真実でどこからが虚構なのか分からないような作りの内容に、観終わったあと色々考察したくなる作りで悪くなかったと思います。
特にラストの出欠のシーンに関する考察が多くなされているようで、制作側はこのシーンに「インセプション」のラストのコブのコマのような意味合いを込めたのでしょう。
そこで、主人公とヒロインはどうなったのか?という考察が多くなされているようですが、この映画、ラストより重要なシーンが映画冒頭に出てきます。
映画冒頭は、誰かが溺れているようなシーンから始まり、夜のプールのようなところで玉が光ります。さらに溺れる手が映りまた玉が光ります。
そして主人公が溺れるシーンに「もしあの時」というセリフが続き玉が光ります。
次に主人公が溺れヒロインが助けようとし「もしあの時俺が」というセリフが続き、今度はヒロインが溺れ主人公が助けようとし「あのときなずなが」というセリフが続き、物語終盤に出てくるもしものかけらの中のような映像で、セリフのみ同じで劇中には出てこない映像が流れ、玉が光りクラゲの花火や右回りだったり左回りだったりの風力発電機などの映像が出てきます。
これはすなわち、劇中の世界がすでに主人公がヒロインと結ばれるために何度も何度も「もしも」の世界を繰り返してきた、何度目かの世界であるということなのでしょう。
冒頭の主人公のセリフに続き、先生の「今日はもしも神社のお祭りと花火大会です・・・」というセリフや、何度も現れる「茂下(もしも)」やifという文字が、この世界自体が「もしも」の世界であることを表しているのでしょう。
観ている者は、劇中の世界が「もしも」でないニュートラルな世界だと思って観進めますが、その世界でも主人公が不自然に玉の存在に気づいたり、ヒロインを好きだと言っていた友人が突然否定して主人公に譲ったり、花火が平べったいという花火師が現れたり、主人公が初めて玉を投げるシーンではそれまで右回りだった風車が左回りになり、すでに使い方を知っているように「もしも・・・」と叫びながら玉を投げ、風車がまた右回りになるなどなど、ところどころ現れる不自然な場面が、観客にこの世界が本来の世界であるとミスリードさせていることを暗示しています。
そしてラストのシーンは、主人公が別の「もしも」の世界へ行ってしまったが、観客は元の「もしも」の世界を見せられている、または取り残されている、ということなのでしょう。
このロジックはタイムスリップもののロジックとしてはかなりよくできていると思いますし、結末をはっきりさせない終わり方も面白いと思います。
ですが、こういうタイムスリップものは、最後にタネあかしがあってこそ、「そういうことだったのか!」というどんでん返しが生まれ、カタルシスとともに観客の印象に深く残るものですが、タネあかしをせず、謎を残す終わり方をしただけでは、劇中の内容に相当強烈な魅力がなければ観客はそこまでの関心を持ってくれないのではないかと思います。
「ビューティフル・ドリーマー」や「まどマギ」ではタネあかしを終盤の山場にすえ、一気にラストに持っていくことで観る者に強い印象を与えてくれました。
また、ラストに謎が残る作品と言えば、「インセプション」はラストに行きつく前に難解な内容ですが、圧倒的な映像と世界観によってラストまで引き込まれますし、「シン・ゴジラ」は非常によくできた映像とストーリーの最後の最後にゴジラの尻尾を映すことで、さらなる深い世界観へと誘ってくれました。
「魔女の宅急便」ではジジの声が聞こえなくなったシーン抜きでも十分ストーリーが成り立っていました。
しかし本作は、ラストの出欠のシーンまでなんだかよくわからないまどろっこしい変テコな展開が続くわけです。さらに声優や映像のクオリティの高低差によって、「ナンジャコリャ?」感が付きまとうわけです。
せめて冒頭のシーンを再び最後に持ってきてわかりやすくタネあかしをしてくれていれば、もどかしい劇中の内容が一気に払拭されるカタルシスを得られたのかもしれませんが、おそらく本作は「ドニー・ダーコ」のように何度も何度も見てやっと理解できる難解映画のようなものを目指したのでしょう。
ただそのような作品にアニメで挑戦するのはなかなか難しいことだと思いますし、作品のクオリティがそこまでこの作品に箔をつけるまでには至らなかったのではないかと思います。
ファンタジーやSFを観る者は、物語を観進めながらその世界に流れるパラダイムを読み取ろうとするわけです。そしてその世界がどのような世界観でどのような道理が流れ、どうなったらバッドエンドでどうなったらハッピーエンドなのか、物語の行き着く目的地を探し、それが理解できたところで登場人物たちと同じ方向を見ながら物語を観進めることができるわけです。
しかしこの作品は、前知識がなければ物語中盤までSFであることも気づかずに観てしまい、制作側が意図的にちりばめたサインに気づくこともできず、突然現れた世界観に追いつく前にこの作品にある程度の評価を下してしまっているわけです。
「途中ずっとダルかったけど、最後まで見たら面白かった!」なんてなるのはよほどの映画好きだけで、たいていの観客は途中で飽きて、駄作の烙印を押してしまいます。
せっかくのアニメーション作品なので演出面でもう少しわかりやすい演出にしていれば、本作の評価はもっと高くなったと思います。
が、この作品が見せたかったロジックにたどり着く前に、単純にアニメとしてのクオリティのせいで評価が低くなってしまっている残念な作品だと思います。
すなおにドニー・ダーコじゃなくてまどマギを目指せばよかったのに・・・。
※)追記
後で知りましたが、「魔法少女まどか☆マギカ」って本作を手掛けたシャフトの作品なんですね。
もう一段高度なSF作品を目指したのものの、観客が追いつけなかったんでしょうねえ。
読みが甘かったんじゃないかと・・・。