「タイトル通り「どの角度から見るか?」な作品。(長文考察です。)」打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? はとらさんの映画レビュー(感想・評価)
タイトル通り「どの角度から見るか?」な作品。(長文考察です。)
感想というよりほぼ考察になります。
観賞後にネットの考察記事などで補完しようとしたところ、僕と同じ意見のレビューを見つけられなかった為残します。
まず結論として「典道は生存、なずなは死亡」していると思います。
これはあくまで個人的な考察です。
以下長文になりますが、これらはあくまでアニメ劇場版のみから読み取った情報を整理しただけなので原作やメディアミックスで語られる事実は無視します。
本編を二度観ただけなので見落としなどあればご容赦ください。
●もしも玉
まず時系列上もしも玉が最初に現れたのは『なずなの父親の手の中』です。
事故死なのか自殺なのか不明ですが、なずなの父親は一年前に死亡しその死体は海辺に打ち上げられます。この時死体が握っているのがもしも玉です。
恐らくなずな父は死の直前に「もしも」という願望を抱いたんでしょう。
そう願ったものに託されるアイテムなのか、はたまたそう願った父が生み出したアイテムなのかは不明です。
そしてもしも玉は時を経てなずなの手に渡ります。
彼女もまた「もしも」を願う人間だからです。
やがて玉は「もしもあの時水泳で勝っていれば」と願った典道の手に渡ります。
「もしも玉」は現実逃避を助けるアイテムとして望むものの手に渡るのです。
もしも玉には発動条件があります。
回転させることで物理的にエネルギーが生まれ発動していることがわかります。つけ加えると「もしも」と願う精神的エネルギーも必要なのかもしれません。
こうした条件が揃って初めて"典道"がもしも玉を発動させるに至ります。
一度目は偶然に、二度目は必然的に発動します。
劇中でもしも玉は発動したことが"ハッキリ"と描かれます。
十分な飛距離から生まれるエネルギー、発動したことが分かる輝き、静止する世界、そして巻き戻し、別世界線へ。
しかしもしも玉は三度典道の手から放たれます。さて三度目はどうだったでしょうか。
●物語の構造
典道が水泳で負けた最初の世界を①
2人で列車に乗れなかった世界を②
裕介に灯台から突き落とされた世界を③
2人で海に潜りキスした世界を④
とします。
ここで重要なのは③→④の時。観客は既にもしも玉というスーパーアイテムによって
「どんな悲劇が起きても回避できるだろう」「どんな不可思議が起きてもおかしくないだろう」と納得する姿勢になっている、ということです。
これがこの作品の巧みな点であり、多くの誤解を招いている点でもあるかと思います。
ここが実は受け取り方の分岐点になっていて「ひとつの事象をどの角度から見るか」に繋がります。
つまりこの③→④→ラストシーンの受け取り方で「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」というタイトルを現しているのです。これについてはまた後述します。
しかしながらこの作品、結局のところどう捉えるかは観るものに委ねられていてどの角度から観ても正解であるとも思えます。
純粋な目で物語を観た人の多くはラストシーンにおいてこう捉えるでしょう。
「花火大会の日に気持ちを確かめ合ったなずな と典道。そして新学期、なずなは転校して遠くへ行った。なずなに告白するつもりだった裕介は不服そうに頬杖をつく。そして典道は学校をサボりなずなのことをどこかで想っているのだった。広い空の下、もしもいつかまた会えるなら。」
一方で僕はこう捉えました。
「花火大会の日、灯台からの落下事故によって死亡したなずな、死の淵から戻った典道。そして新学期、裕介が犯人であることを典道以外は知らず落下は事故として処理された。典道を心配した友人2人は典道を登校させることができず遅刻するのだった。そして典道は事故現場の灯台に訪れなずなを弔う。ナズナの花が風に揺れていた。」
では僕がなぜこの様な見方に至ったか。
●三度目のもしも玉は発動しなかった。
そもそも④の世界などないのです。
以下前述した説明を踏まえて答え合わせします。
③→④の時、灯台から落下する典道が投げたもしも玉は発動条件を満たせずに着水し沈んでいきます。
あれ程ハッキリお約束として二度描かれた発動シーンがないのです。
そしてブラックアウトして突然次のシーンでは列車に戻ります。
ここから描かれるのが
❹水中で溺れたなずなと典道が臨死状態で一緒に見ている夢の世界
です。走馬灯の様なものでありつつ2人で共有している夢の様なものかと思います。
では何故多くの観客がこれに気付けなかったのかと言うと「もしも玉で悲劇を回避できた」と思っているからです。「もしも玉は現実逃避を助ける為に望むものの手に渡る」のです。
典道が発動させられなかったもしも玉を観客自身が発動させることで、④の世界に行けたと誤認させられているのです。
さて列車で目覚めた時点で肝心なもしも玉はどこか。
これまで別世界線へジャンプした際、もしも玉は「戻った時点の」「あるべき場所」にありました。
④への移動が成功しているとすれば「列車に乗っている」「典道」が持っているはずです。
しかしもしも玉は❹では終盤海辺に現れ、通りかかった花火師の手に渡ります。
海から現れた玉は、③で「玉が水没した世界の続き」つまり「2人が落下した世界の延長線上」であることが示唆されているのです。
そしてこれはもう一つ物語っています。
●死の間際で見る願望
劇中で海辺に打ち上げられていたものがもう一つあります。「なずなの父の死体」です。
つまりこの「海辺のもしも玉」は、観客が何となく見た「死のイメージ」を掘り起こさせるのです。
一見すると「青春恋愛もの」という「願望の象徴」である今作ですが、「死」という「現実の象徴」はしっかりとこの作品に備わっていたのです。
これこそ前述した「打ち上げ花火(娯楽の象徴)」をどの角度から見るかということなのだと思います。
願望に従いもしも玉を自身で発動させた観客、現実的に色眼鏡で見た僕の様な観客、どちらもいて良い作品なのです。
話が前後しましたがここからは❹が並行現実世界ではなく夢想世界であることについて綴ります。
この物語において「水」と「鏡面」は死と願望を表すメタファーとなっています。
実際にも死のイメージとして「三途の川を渡る」「彼岸へ渡る」など言います。
また鏡はあの世と繋がっているとも言われますし、そこに写る自分を美化して見せる効果もあります。これらは死と願望の例えになります。
そして物語において直接的に紐づけられるモノと言えば、水の持つ「死」のイメージについてはなずなの父です。
そして鏡面の持つ「願望」のイメージを表すのは、③で列車の窓に写ったなずなが歌い踊るシーンです。
❹はこの両方から成っています。
❹は波紋で覆われたドームの内側になっています。
これは水の波紋であり、2人がまだ水中にいることを教えてくれます。
また途中海の上を走る列車もまるで「向こう側の世界」に向かって進んでいる様です。
ここはつまり、水という「死」の間際で、水面という「鏡面」が写し出す願望、その内側で見る夢なのです。
「じゃあこれは典道君が作った世界なんだね」
「そうなんだけど、俺がもしもって望んだ通りになったけど、なんかおかしいんだよな」
と、これまでの世界と違う事を語っています。
●水中(死と夢想)から水上(生と現実)へ
海の中で見る夢は、夢の中で海へと辿り着くことで終わりへ近づきます。
なずなは恐らく列車の窓から見た母親が泣く姿を見た時点で、現実と向き合わなくてはいけないと感じ始めています。
一方で典道は懲りずに「元の世界でなずなとずっと一緒にいられたら」と、もしも玉があったら叶えたい願望を語ります。
しかし玉は手元にはなく、「海で泳ごう」と言うなずなに遮られます。
なずなはこれが覚めなければいけない夢である事を悟っていたのかもしれません。
そしてもしも玉が花火師によって打ち上げられ、発動し、砕け、その破片は見たものの願望を写し出します。ですがこれらも全て典道の願望によって描かれたものだと思います。
「好きな人に対して正直になれる友達」や「都合よく流れ着いたもしも玉」と「それを発動させる人物」、すべて典道の願望を叶える為に補完された「材料」なんだと思います。
玉は本来の力を発揮せずとも、破片は典道の望んだ未来をビジョンとして写して見せます。
そこに写るのはなずなとのキスです。
そしてそれを見た典道はやっと気付きます。
願望は今この瞬間に行動ひとつで叶えられると。
これこそが今作のメッセージです。
2人は海の中へと深く潜りキスします。
(一連のシーンはやたらと非現実的に感じますが、やはり夢想世界だからでしょう。)
そしてなずなは典道と気持ちを確かめ合うと満足気に、しかし悲しく名残惜しそうに彼の元を離れ浮上していきます。
「次会えるのどんな世界かな、楽しみだね」
転校するなずなの言葉というよりかは
来世について語る言葉としての方が受け取りやすいです。
そして水中で作られた❹夢の世界は、③現実世界の水面に到達することで完結します。
水面に雫が滴るシーンで締めくくられますが、これは典道が気付いた瞬間でしょう。
「なずなは先に夢から覚めていた」という生存の可能性もあるのかもしれません。
ですが、やはり水中からなずなが1人で浮上するシーンは、僕にとってはあまりにも決定的な別れのシーンでした。そして後述に「死亡した」と感じる決め手となったくだりが存在します。
●ラストシーンの意味と解釈
ここで改めて僕の解釈を。
「花火大会の日、灯台からの落下事故によって死亡したなずな、死の淵から戻った典道。そして新学期、裕介が犯人であることを典道以外は知らず落下は事故として処理された。典道を心配した友人2人は典道を登校させることができず遅刻するのだった。そして典道は事故現場の灯台に訪れなずなを弔う。ナズナの花が風に揺れていた。」
ラストシーンに典道の姿はありません。
しかし恐らくは事故現場となった灯台を訪れ、自分の過ちを後悔しています。
その心の声こそが冒頭のナレーションです。実はこのモノローグがエピローグでした。
この映画の冒頭はこうでした。
水着姿で水中深く沈んでいくなずな、そしてその手を掴み損ねて溺れる典道。
そして繰り返される典道の「もしも」というセリフ。
「もしもあの時俺が…(手を掴めていたら)」「もしもあの時なずなが…(意識さえあれば)」「もしも…(最初から玉なんて使っていなければ)」という事です。
そして存在しないはずの「私も泳ごうかな」と、なずなが微笑む記憶。生きていて欲しかった願望です。この男、この後に及んで願望です。
この冒頭の語り「やっと両思いになった女の子が遠くへ転校してしまった」という事であれば大袈裟で意味深すぎます。
ひとつ引っかかるとすれば実際落下した時は私服でしたが冒頭のシーンでは水着です。
深く捉えなければこれは印象を薄める為のミスリードです。
斜めから捉えると「もしもあの時(水着で泳ぎやすければ)」と典道が語っているブラックユーモアのビジョン。
深く捉えると「なずなはもっと前に溺れて死んでいた」「典道は登校日8/1に戻ってきていた」「玉を手に入れる前だからその記憶が薄れて起床時に虚ろな顔をしていた」「なずなの命を救えたのに願望の積み重ねで結局死なせてしまう」など大きくループしてる可能性も残します。
しかしここまでくると深読みですね。
長くなりましたがまとめますと
この物語が教えてくれるのは「願わずに動け!」という事です。
もしも玉が作り出した世界は正しかったか?そうでも無いと思います。
そもそも典道は自己肯定と責任転嫁で「もしも玉」への願いが全部ずれてました。
思春期の少年が幼さ故に見過ごした事のやり直し、歪んでいった世界です。
人はみんな願望を持ちながらも現実と向き合い行動して向上していきます。
「好きな子を取られた」けど「二学期に告る」と決めた裕介の様に。
僕は打ち上げ花火、こう見ました。