「黒い肌に反射する色。」ムーンライト すっかんさんの映画レビュー(感想・評価)
黒い肌に反射する色。
◯作品全体
本作を見始めたとき、「登場人物が黒人である必要性があるのか」という感想が浮かんだ。内気な性格、いじめ、身体的コンプレックス…人種に関わらず経験しうる出来事ではないか。アカデミー賞作品賞という肩書というのもあって、少し邪推してしまった。
しかし、主人公・シャロンの理解者であるフアンのブルーと呼ばれたエピソードによって、本作の演出は黒人でないとできないと確信した。反射する肌とその色、という演出は必ずしも黒人である必要はないが、反射しづらい「黒」という色の肌によって、反射することの意味が強くなる。
本作において肌に反射する色は「他者からの影響」を意味する。フアンのエピソードも、他者である老婆から「青色だ」と指摘されなければフアンは気づけなかった。そして気づけたことにより、黒人というカテゴリとは異なる「ブルー」という個性に出会うことができた。肌に反射する色は、他者からの影響により違う自分に変える力を持っている。そして変化の説得力は反射しづらい黒色の肌にあるのだと思う。
シャロンは無口で、話すときも下を向く癖があるから尚更他者からの影響を受けない。黒人のコミュニティでありながらあだ名が「ブラック」なのは、普通の黒人よりもさらに反射させる色を持ちえないからかもしれない。そんなシャロンが初めて肌に反射させた色は青色だ。フアンと同じではあるが、意味合いとしてはネガティブな印象が強い。なぜなら母から「私を見るな」と怒鳴られながら呆然とするカットで反射した色が青だからだ。母が知らない男と入っていく強烈な赤色の寝室が対比として使われていた。
第二章では、居場所のないシャロンに反射する青色が印象的だった。駅のホームで反射する青色と下を向いたシャロンの表情から、街やコミュニティに入れない寂しさを感じる。海辺のシーンでは色を排除して、月の光とそれに当てられて光る肌が強調されていた。スポットライトのように注がれる真上からの光が、ケヴィンの隣にいるこの場所こそシャロンの居場所だと訴えかけてくる。もう一つ、光の反射が使われていたカットがあった。ケヴィンやテレルに殴られて、氷水で顔を洗ったシャロンのカットだ。こちらの光は鏡に乱反射していて、そして額からは赤い血が残っている。シャロンの怒りや悲しみが反射によってあふれ出た演出で、その後、テレルを椅子で殴ってしまう導火線のような役割だった。
幼少期から青年期のシャロンにとって他者からの影響は計り知れないもので、シャロンが口を閉じ、俯いていても他者や社会からシャロンへ向けられるものは抑えることができない。肌の色も、そして心も「ブラック」で閉ざしたシャロンに突き刺さる色たちが刺々しく映った。
第三章ではシャロンが失った居場所を再び獲得する物語になっている。ここまでの本編にシャロンの居場所はほとんど描かれず、自室にいるシャロンも意図的に映さないようにされていた。さらに街の名前が出てくることもなく、シャロンがどこにいて、どこに居場所があるのかわからなくなる立ち位置だった。
大人になったシャロンは自分の車と家を持ち、アトランタの街で生活していることがわかる。母からの謝罪も優しく受け入れられる心も手に入れたが、独りぼっちだ。忘れたい過去の中にいるケヴィンを少しずつ過去から現在へ掘り起こすシャロンの目線や仕草は、理想の居場所を壊してしまうことを恐れているかのような、そんな印象を感じた。
第三章はあまり色を感じるシーンが少なかったが、ラストカットの青い月光と幼少期のシャロンを強調するためかもしれない。青色が示すネガティブに感じた「他人からの影響」が月の光としてシャロンに映る。ケヴィンがいる、という「他人からの影響」をポジティブなイメージの月の光と重ねたラストだ。
肌に反射する色はシャロンを攻撃するかのようにシャロンのままでは居させてくれなかったが、ラストにはシャロンを包み込むようにやさしく存在している。シャロンの内的な世界を鮮やかに、静謐なままに切り取った色の演出が素晴らしかった。
〇カメラワークとか
・テレルがケヴィンの相手を品定めするカットは、テレルの周りを動きながらテレルをフォローパン。カメラを引くとケヴィンの前にシャロンがいる、というトリッキーなカメラワークだった。ケヴィンが相手を探し始めた時点で作品を見ている我々は誰が標的になるかわかってしまうから、そのくだりは確かに不要だ。省略の巧さを感じる演出だった。