劇場公開日 2017年10月7日

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「映画『アウトレイジ最終章』評」アウトレイジ 最終章 シネフィル淀川さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0映画『アウトレイジ最終章』評

2017年10月20日
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☆映画『アウトレイジ-最終章-』(北野武監督作品)評

-この映画は『アウトレイジ』シリーズの悼尾を飾るに相応しい北野武監督という彼自身の映画の自叙伝的相貌を語るに適したテクストの乱舞が荒唐無稽さと傍若無人さを装う事で成立する叙事的特権を観る者は歓喜の内に見出だすだろう。「最終章」とは終焉を諦念で纏う特権をも凌駕する強靭な映画への意志が貫かれる時に露呈される極めてナラタージュなプルースト的な失われた時間を追い求める北野武監督の気概に満ちている。それは決して徒労に終わらぬ結晶としてこのシリーズが映画史上に君臨している事実からも明らかであろう-

 このあられもない非情さと冷徹さを徹底させたこれは逆光の映画と謂っても過言ではないであろう。事の発端を飾る花田氏のマゾヒズムは映画全体取り分け主人公・大友氏の自虐的殺戮をも促しそこには組織と個の交錯に齟齬をきたす時覚醒されるマゾヒズムとサディズムの錯綜する映画のアルケオロジーを極めて冷徹でグレイ・ゾーンの色調の中に塗り込めるまさに最終章に値する佳作である。
 先に掲げた逆光が駆動させる外光を通す窓が四角張るフォルムを顕示する時のアンバーなライティングが役名という固有名詞を弥が上にも強意の対象とする。そこにはこのシリーズがいかに散文映画としての強度を遺憾無く保っていたかが如実に実感できるのも映画が虚構空間を維持する為の説話的磁場を醸す記号の飽和をこの映画は実に巧みに奮っているのだ。
 例えば車体に対する官能性は一作目『アウトレイジ』を恰も懐古するかのように踏襲させている。その証拠にこの映画のタイトル・バックも黒い車体のルーフの真俯瞰により提示される。車が人間と同化されるのも登場人物から走る行為を回避させる事で成立する映画の運動性をこの車自体が担っている。それは速度を欠くが故の停滞と逡巡を辺りに波及させる効果を伴っておりこの映画の主題体系とも謂えるのだ。
 それは先に挙げた懐古とは異質な映像に時空間を麻痺させる眩暈にも似たクロノジカルな耽美さの表出だとも謂えよう。そこにはこの人物達が属する社会が担う即物的な殺しの美学さへ醸し出され実に叙事性に富む物語の回復を活性化させる。
 液体が醸す殺戮への序曲は冒頭の大友氏と市川氏が防波堤で糸を垂らす釣りの場面から匂い漂う。そこでは銃が玩具にも酷似した記号として幼児的特権を彼等にまとわす時釣りの静寂さとは対称的にその銃声そのものがトーキー映画のカタルシスを生成する。ここに北野映画のブルーへの傾倒と共に銃へのフェティシズムが明瞭に語られるのである。この静寂と喧騒の均衡が映画内映画という虚構のテクスト化を目論む北野映画の意匠を推進させるのだ。
 この海水はやがて気化され常に画面から回避される空の雲の一部となる。そして次に我々の目の前に現出するこの記号体系に準ずるのが花菱組の鉄砲玉・河野氏の刑務所からの出所パーティに於ける屋外の場面の豪雨。大友氏と市川氏は花菱会にまさに血の雨を降らすかのようにマシンガンで組員を撃ち殺す。この場面には人と人というよりも組織化された集団を一刀両断に駆逐するカタルシスの権化が確認されるだろう。
 それはかつての傑作『ソナチネ』のホテル内の暗闇で一人組織にマシンガンで挑む男が北野武氏本人によって演じられたという事実を改めて反復に近い状態で行使する事でこの監督の日本映画界に於ける孤絶さとその出自を画面に刻印させるのだ。そこには彼自身の映画の為のプロバガンダが主張されていよう。
 そしてラストの海を臨む倉庫街での大友氏のピストル自殺も北野武監督自身の広告とも準えるべき『ソナチネ』の最期に呼応する。そこには液体が催す死への欲動装置としての海が醸す女性性が映画という魔物に対する北野武監督の諦念にも近い動揺と共に確認できる。この諦念こそが映画の視線を獲得する活性化の対象である事も見逃せない。そこに存在するのは映画が虚構空間の申し子である事実をリュミエール以来のあくなき探求心で観る者の眼前に披瀝する際に発動される記号との馥郁とした戯れへの固執が導く諦めであろう。
 又観る事への誘惑を常に映像化するこの希代の名監督の意匠は敵対する人物を対峙させる時に映画が孕む緊張の強度の高揚にある。冒頭の花田氏と大友氏の対峙をそれぞれ正体で捉えるカメラの乾いた質感とモンタージュにはフィクションが貢献するエイゼンシュタイン的な理知性をあっさりと放棄する感性の魔力が息づいている。それは殺気立つ両者の因縁の無償化を根拠立てていよう。その証拠に大友氏が花田氏をベッドに括りつけ爆死させる時の殺戮が卓抜な省略技法で成される映画の経済的文脈に露呈されている。
 この対峙する者同士のカタルシスの排除は西野若頭と野村会長との腐れ縁による組内の対立から発展した抗争劇の場面でも遺憾無く発揮される。それは殺戮への欲望装置とも謂うべき雨中の場面。
 ここでは深作欣二監督の名作『北陸代理戦争』のハイライトでもある雪中での身体を土中に埋め首だけを外気に曝す事でその顔が恰も人名という固有名詞に繋がる匿名性とは裏腹な記号的特権を露顕させる。その雪と土という自然そのものを暴力装置化させる殺しの手段の聡明さを雨に変換する事で野村会長の無力を露呈させる時の倒錯的な殺戮場面に換言できよう。
 この眼鏡が印象的な首だけが覗かれる野村会長こそは殺意の記号体系を液体とするこの映画の主題とその固有名詞的な顔面を矩形の画面の表層に曝す事で記号と虚構空間を幾重にも融合させる襞にも喩えられる夜景の場面。ここにこの映画のもうひとつの主役でもある車体の疾走が認められる時この首をはねる瞬間を音のみで処理する北野監督の映画の経済的示唆は実に誠実さに溢れている。それは彼の尊敬する深作監督へのオマージュであると共に1950年代のハリウッドの犯罪B級活劇への憧憬がほのかに見て取れるのだ。
 この対峙と省略という文体がこの映画に犇めく空間芸術は映画誕生以来把握できる映画の特性でもある。それは無声映画が持つ映像の魔術であると共にトーキー以後数多の映画が発揮してきた音への執着が実に大胆不敵に捏造されたまさに温故知新な北野監督の自作への解答とも受け取れる自己のテクスト化作業の解析でもあろう。
 この映画は『アウトレイジ』シリーズの悼尾を飾るに相応しい北野武監督という彼自身の映画の自叙伝的相貌を語るに適したテクストの乱舞が荒唐無稽さと傍若無人さを装う事で成立する叙事的特権を観る者は歓喜の内に見出だすだろう。
 「最終章」とは終焉を諦念で纏う特権をも凌駕する強靭な映画への意志が貫かれる時に露呈される極めてナラタージュなプルースト的な失われた時間を追い求める北野武監督の気概に満ちている。それは決して徒労に終わらぬ結晶としてこのシリーズが映画史上に君臨している事実からも明らかであろう。
(了)

シネフィル淀川