息の跡のレビュー・感想・評価
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陸前高田の種苗店さん、津波で自宅兼店舗をまるごと流失。 町全体が嵩...
陸前高田の種苗店さん、津波で自宅兼店舗をまるごと流失。
町全体が嵩上げされるまでの数年間を追った記録。
跡地にプレハブを建てて、営業再開を。
松原公園から栃ヶ沢に向かう、坂の上り始めだったあたり。
丸ごと流失してしまった荒れ地、嵩上げ工事の当時は、向かいにファミマがありましたね。
この通り、私的にも何度か通りましたが (路線バス, JR BRT, 徒歩, 市内レンタサイクル…)、
交通量がとても多く、埃っぽかった当時ですね。
雨が強まると、水はけがまだ悪く,道路が冠水したりも。
さらに、震災の体験を記録に残さねばと思い立ち、英・中など複数の言語で綴り、自費出版を。
他国からの取材にも応対され、記事になったりも。
ご本人の X(twitter)を見てみると、いま(2025年1月)も変わらず、
お店を営んでいらして、テキストに加筆も続けている旨が、確認できました。
再建とか執筆出版とか、もろもろの機動力と観察力に、ただ敬服するばかりです。
p.s.
出来事を自分の言葉で綴る際、感情を排除したくて母国語以外をあえて選ぶところ、とても納得します。
具体的に書き綴る時点で、痛さが消えるわけではなく、むしろ蒸し返されることも。
(こちらでも、あえて日本語でなく英語で書くことがままあります。)
「気配」の不思議。
ひどく不思議な記録映画。ひとことで言えば、映画という形態には不可欠と信じられてきた「物語」をどれくらいオープンにできるか、ナラティブ構造をどれほど解体できるか、をめざして作られた作品。
ここでみる陸前高田は、たとえばNHKを筆頭に日本のTV局で数限りなくつくられてきた「震災ドキュメンタリー」の類とは、まったく似ても似つかない姿として差し出される。性急なまとめ・解釈を考えるより前に、その土地の気配を愚直に記録しようとする。
その「記録」の中には、記録者である作り手の存在も含まれている。観客は作り手と一緒に、震災後の被災地の空気を生きる。これが現代ドキュメンタリー映画の最前線につらなる感覚と手法であるのは間違いない。
同時に、その「見る側に解放されたナラティブ」をつくる試みが、あまりに曖昧で茫漠として見えかねないことも、作り手側は分かっているだろうと思う。
主人公の、ときとして真偽定かでない雄弁は、いったい何なのか。あの震災は、被災地で暮らす人々にとって何だったのか。作り手がその答えの一端に、ある確信をもってたどりついていないかぎり、映像が軸を失ってしまうことは避けようがない。
そうした確信があってつくられた映像と、そんな確信はないまま自分でもこれは何だろうといぶかしがりながら作られる映像とは、やはり別のものなのだ。
ただ、やはり人生をかけて土地の人々のそばに立つ記録者が、時としてみごとなショットを呼び込んでいることは確か。水滴にまみれたレンズがとらえた、雪の中の獅子舞の人々。白鳥たちに餌を投げる主人公。忘れがたいシーンは数多い。土地の気配を、物語にならないまま、気配として共有することのできる希有な作品と言うべきか。
バイタリティあるたね屋の佐藤さん
息の跡とは、生きた跡かなと。
佐藤は東北の太平洋岸、被災地には多い名前です。陸前高田の佐藤貞一さん、タネ屋の佐藤さんの事はこの映画を見るまでは全く知りませんでした。
実は山口県光市も陸前高田と同じく白砂青松の松並木と砂浜海岸で有名で、今年の5月には陸前高田に松の植樹ボランティアツアーが行われます。
あれからもう、6年。被災日はまだ6年。この映画を見ると佐藤さんという方の、それは多分にして東北人気質の公約数的なイメージですが、朴訥で芯があり、宮沢賢治的に理想的で、雨にも津波にも決して負けず怒らず、その人柄が画面からよく伝わりました。
スペインにしか17世紀初頭の被害状況を書いた記録がない事、ご神木との関係から導かられ仮説、しかしご神木はご神木だという感覚。
およそ東京オリンピックに向けて動き出している首都圏とは違う時間の流れがある。
でも、やはり人なんです。人が人を惹きつけ、人を感動させる。
高台には新しくできた佐藤さんのタネ屋があるそうです。ぜひ行って見たい。
東日本大震災で、陸前高田で被災しながらも、タネ屋を再開し、その体験...
小森
小川紳介、佐藤真、小森はるか
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