「心は無辜のまま」夜明けの祈り 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
心は無辜のまま
キリスト教は子孫にキリスト教を強制する宗教である。かつてのキリスト教は子孫だけでなく他人に対しても信仰を強要していた。教会は権威を生み出し、人々は神ではなく権威に対して跪くようになった。権威は政治に利用され、キリスト教は坂を転がり落ちるように堕落していった。
しかし民主主義が世界中に広まりはじめると、キリスト教は他宗教の排斥をやめ、信教の自由を尊重するようになった。いまでは他人の宗教についてとやかく言うキリスト教徒はほとんどいないだろう。だがそれはあくまで他人に対してである。
自分の子供に対しては当然のように信仰を強要する。自由の国であるはずのアメリカ合州国でさえそうである。いまだに大統領就任式で聖書が使われる。他宗教のアメリカ人にとっては決して愉快な儀式ではないだろう。宗教の権威はまだなくなっていないのだ。
キリスト教だけではなく、仏教徒にも同じような傾向がある。母親が仏教徒だったら子供も仏教徒だと、あるスリランカ人から主張されたことがある。
ほぼ無宗教の国である日本にいると、宗教の話はなかなかピンとこないが、熱心なキリスト教国やイスラム教国では、宗教は政治から日常生活まで、あらゆる場面で指導層の権威が猛威を振るう。
本作品は、修道院長があくまで守ろうとするキリスト教の権威と、シスターマリアが告白する、残酷な現実に揺らぎ続ける信仰との対比を描いている。信仰は権威を必要としないが、修道院という組織は、組織維持のために権威のある指導者を必要とする。シスターマリアのもうひとつの悩みがそれだ。
第三者であり無宗教である医師からみると理解できない話だが、命を救うという主人公の行動が、シスターたちに目覚めた母性の共感を得ることになる。残忍なソ連兵、戦争の傷跡、信仰と権威など、背負う重荷が多い女たちは、それでも知恵を出し、勇気を出して生きていく。そのありように深い感動がある。
原題のLes innocentesは英語のイノセントと同じで無実の、無辜のといった意味で、Lesがついているから、無辜の人々という意味になる。女たちは身体を穢されても、心は無辜のままなのだ。