20センチュリー・ウーマンのレビュー・感想・評価
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フィツジェラルドやヴァージニア・ウルフ後の米国モダニズムの歴史
見た。消された?
凄く退屈な映画なのにもう一度見る羽目になった。
色々と屁理屈を言って消されたと思われるが、消される価値も無い映画だと思う。
消されたのか?途中で見るのをやめたのか?あと、15分。
兎に角、昔から続く「エデンの東」「理由なき反抗」等などのモラトリアムな白人青年の話。(あ!ジェームス・ディーンの映画ばかり)
兎に角、結婚式のビデオを見せられているようだ。若しくは、存在するのかしないのか分からないキャラクターのカタログの様な話。
「20世紀女性」と言うよりも1924年って昭和2年って事。だから、
「アメリカン昭和枯れすすき」の方がいいんじゃない。兎に角、現代のアメリカキャピタリズムの歩みそのもの。ある意味、温故知新。世の中はこんな単純な資本主義になっていない。
大日本帝國から日本。日本はこのアメリカに夢を抱いて生活をして来た。いやいや、生活をしている。
アメリカンドリームは藻屑と化したし、資本主義の主役ではなくなった。
象徴しているのが、毎朝の株価のチェック。こんな事やって、飯を食べている奴は、もういないはずだ。
中山第4レース新馬戦の19番人気と20番人気の馬単に1000円ぶち込んだ方がアメリカの株を買うよりも儲かる。
また消される♥
誰もそんな事出来ないよ。
アメリカがトーキングヘッズを好んだ時代
70年代後半の祭りの後的なアメリカ
大恐慌の時代に生まれた母がシングルマザーとして今は豊かになったアメリカの小さな街で男の子を育てている
時代の描写 音楽 ファッション セラピー フェミニズム 価値観 趣味の相違
大人世代の豊かにはなったけどなにか満たされない空虚なった諦念
若者子ども世代は感受性が高いからパンクを聞いてパンクを生きてる、少なともクールでパンクな素振りで必死な毎日。
ジェイミーを殴り倒したりジェリーに生出ししたりする奴らはパンクがわからないマチスモ、ゲス野郎とお見受けするが、彼らもスケボーやってる。これは1979年だからここから mid90s の萌芽を感じる。
自然に出会い集まりできるコミュニティの面白さと鬱陶しさ
伏線も裏も何もないあっけらかんなストーリー。アメリカではオルタナティブな人たちなんだろう、先端をいく若者も10年経てば旧世代既得権勢力または敗北感にまみれ、この母親のように、自分はそんなに不幸せではない、と裏腹に、子どもにはわたしみたいになってほしくない、もっと幸せになってほしいと本音が出る。
ジェイミーもmid90sの男の子も、スケボー仲間、友達の悪ふざけに乗っかり生死を彷徨い母親は子どもの危機に自らの存在の是非を問い苦しむ。赤く髪を染めたパンクの申し子アビーが生理を語る(今なら普通、、この世代時代のずれが、今2020年代とくに日本にいると遅いな全然前進してないな、と思うのだが)が母親の胎内で副作用により癌ができたことにこの母親はだんまりだ。
さまざまな親と子、女と男の関係。
車で移動する時、時がたつとき、タイミングよくわからないけど。時々レインボー、七色に光り画面がチラチラして時の遷移価値観の変化や兆しを感じた。
フェミニズムとかまだまだエキセントリックな時代だったが2020年代の日本よりずっとマシだよな、その後母親が新世紀とともになくなるまでも詳らかに、ほんとに裏もなんにもない感じなので、20世紀の時代感や社会的な変容に興味あれば誰でも楽しめる。パンクを知ってる世代には今の忖度と損得のクソ社会、時代遅れっぷり揺り戻しっぷりを痛感するだろう。
ジェリーを演じるエルファニングの言葉は説得力ありあり。
三人の女子の魅力的なことそれだけでも見応えあり。俳優さんたちみんないい。
特に母親の言葉はユーモラスで笑えるところ満載、子ども世代のセリフは刺さる、時代を軽く振り返り、爽やかに楽しめる作品。
本音が怖い
舞台は1979年カルフォルニアのサンタバーバラ。ドロシーは高齢出産で授かった男の子ジェイミーを溺愛するシングルマザー、15歳と言う大人の入り口に差し掛かったジェイミーの人生教育に頭を痛める。ドロシーは若い頃空軍のパイロットに志願したという気骨と実行力では下手な父親より頼りになるのだが昨今の若者文化には自信が無い。
そこでシェアハウスの住人アビー24歳や年上のガールフレンド、ジュリーに相談相手になってやってと頼み込む。確かに年の近い姉さんたちなら本音が話せる。ただ、彼女たちは彼女たちなりの理想の男にしようと世話を焼くがもっぱら性教育だから赤面もの。
脚本はマイク・ミルズ監督の自身の生い立ちがベースと言うこともあり人物描写は妙にリアル、セリフにも時々唸ってしまう。例えばアビーの病気のことで母が息子に言うセリフ、「男はたいてい解決に躍起になるか何もしない、解決できない時に寄り添うってことが下手なのよね」とか母に助言のつもりで「女にとっての加齢」ゾーイ・モス1970の一節を読む息子に「私は自分を知るのに本は必要ないわ」と返す母。淋しいだけでやってくるのだろうかいつもジェイミーのベッドにもぐりこむジュリーを見咎めたアビーがジェイミーに、「セックスしない女を横に寝かせるのはおやめ、自信をなくすだけよ」とのたまう。数え上げたらきりがないが秀逸な会話劇でもあります。
人と関わるということ、生きるということ
親子と日々助け合い率直に関わりあう同居人を中心に描かれる、日常の人間関係。
他人と関わるのは良いことばかりではなくて、面倒くさくなったりもする。
その描写が秀逸でした。
ドロシアみたいな親だったら子どもは幸せだなと思った。
子の将来のためにどうすればいいか考え、ダメなことなどきちんと指摘。日々コミュニケーションを取り、寄り添って、きちんと向き合っている。
かといって頭の中が子ども100%というわけではなく、自分の人生も大切にしている。
(ジェイミーが読んで聞かせた本の内容が自分ズバリだと思っても、それを受け入れないということの伝え方)
ジェイミーがウィリアムを無理だと思うことや、親に言いづらい喧嘩の理由をドロシアに言えるのは、関係ができているからだと思う。
アビーとジュリーという、助けを求めた先が不適格だった。
皆でテーブルを囲む席で性について口にし、一方的に聞かせる(嫌と言いづらい)のは、最低だと思う。
ウィリアムとアビーは訳わかんないと思うところもあるけど、寄り添う優しさや弱さを隠さない魅力がある。
一方で、気の強さと自分は絶対正義で言いたい放題のジュリーは無理…
年上のドロシアに平気で失礼なこと言ったり、妊娠検査薬買ってきてくれる優しいジェイミーを翻弄したり…
拒まれたら手放したくなくて誘って出奔、あげく拒む…何なのこの女としか思えなかった。
息子が生まれたというジェイミー、きっと、ステキな人に育っているから、心から愛する人がパートナーだといいな。
ドロシアも人生をとじるとき愛する人がそばにいて良かった。
内容も素晴らしかったけど、映像もキレイでした。
最初とラストの海と空がとても美しかった。
想像していたのと違っていたが…
てっきり二人のお姉様方に21世紀で生きる手ほどきをされて成長する少年の物語だと思い込んで鑑賞。
二人のお姉さまのぶっ飛びぶりを楽しみにしたところは少しはぐらかされた気がする。
1979年、自分はまだ小学生だった。いま振り返れば確かにいろいろな物事に変化が起きていた時代だったのだと思う。でもそれは結果論に過ぎず、まだインターネットも発達していないテレビ全盛の時代に、東北の片田舎に住んでいた小学生には時代の変化を察知する感性も育つ土壌はなかった。この1年後にはポリスやジョンレノン、レーガン、ウォークマン、ベータマックスビデオを知り、少しずつ世界の容貌が見えてくるわけだが、それでも自分の生活レベルで意識が大きく変わった記憶はない。
二人のお姉さまはこの時期ちょうど多感な年頃にあり、母親は既に自分が時代の遺物になろうとしていることに焦りを感じている。だからお姉様方に息子の教育係を頼めば、きっとこの先も一人で生きていく術を身に付けるだろうと画策する。高齢で産んだ子どもだから、自分にないものを授けることができ、息子が若いうちに自分がこの世を去っても、彼が露頭に迷うことなく生きていくようにするための最善策と考える気持ちは分からなくもない。
ところが、このお姉様方自身が迷える子羊であることは、さすがの母親も捉えきれていなかった。
1979年は、きっと誰にも理解されていない時代だったのではないか。みんなが露頭に迷っていたのではないか。この30年と少しの間が、長い長い変化の時代で、2017年になって、まもなく2018年を迎えるいま、ようやくそれを客観視しつつ乗り越えようとする世代が成長してきていることを感じる。
あと一月足らずで50歳になる自分は、それを頼もしくも、羨ましくも感じながら、置いていかれまいと焦ってもいる。自分の息子もいよいよ来春から社会に出る。しかも自分と同じ道を歩む選択をした。何か気の利いたことの一つも言ってやりたいが、言いたいことすべてが時代遅れの世迷い言のようにも感じる。だから言葉を失ってしまう。
アネット・ベニング演じる母親もこんな感じだったろうか。
だからこそ、エンディング近くで息子から掛けられる言葉は、自分のような世代には本当に励みになる。
「母さんがいれば、僕は大丈夫だよ。」
それが良いことかどうかは別として、20世紀末の亡霊がいまようやく振り払われようとしている。そんなことを感じる作品である。
とてもよかった
70年代の空気感が本当に再現されているような気がした。主人公は何もしていないのに素敵な女性にかこまれていて羨ましい。パンクのお姉さんにナンパのやり方を教わったりしてみたい。
お母さんの彼氏の、諦めたような流されるままに生きているような佇まいがよかった。
もっとパンクをいろいろ掛けて欲しかった。もうちょっとストーリーに引きがあった方がよかったような気もするのだが、このままのだるい感じがいいのかもしれない。
添い寝
ん〰️
かわいい幼なじみが添い寝だけ
しにくるのは、
うれしいのか、拷問なのか。
あだちみつるのタッチを
読んだことある人は
同級生の異性の幼なじみと
暮らすスチュエーションに
憧れた人がいるはず。
それを超えました。
しかし、非日常も毎日となれば
日常になるなー。
自分の周りに3人の違う世代の人が
暮らしていれば、コミュニケーションに
長けて成長するだろうな。
ということは、モテモテです。
母親がああいう感じだと
彼女が苦労しそうだけど
まあいいか。
母親のシャツの色彩が
結構いいな。
暮らしの中に、音楽とセックスが
カジュアルに混在していて
とても素敵な作品です。
女子の観客が多かったけど
男子が観ても 面白いよ。
というか心地いい。
独り暮らしで、
ちょと人恋しくなったなと
いうひとに。
21世紀を生きる私の映画。
気持ちがまとまらず感想を書いては消しを繰り返して早2ヶ月…だって、これは本当に私の見たかったものが描かれている映画だったからさ、それに見合った感想にしたかったんですよ。
でもさすがにバカバカしいので、とりあえす終わらせようと思います。悔しいぜ、文才なくて。
この映画で描かれたマイクミルズの女性観が、世界のスタンダードであるならば、もっと女は自由だと思う。
なんでそうじゃないんだろうという絶望感を噛み締めながら観ました。
私の映画だと思いました。
5年に一回くらいしか買わないパンフレットを買ってしまうほどに、私の今にフィットする映画でした。
この映画をつまらない・興味が持てないという男性は、現代女性にとって選んではいけない男性だとおもいます。
結婚前に見せて反応を窺うことをお勧めします。
リトマス試験紙として活用されたし。
女のセックスとオーガズムについての話が出てきましたが、非常に実用的です。女のオーガズムはクリトリスが握っているというのは真実です。ですがセックスに求めるものは、オーガズムだけではないのも真実。その時のかっこ悪い男の姿が愛おしい。ジュリーのこの告白は、切なさの語釈として辞書に採用してくれと思いました。
ドロシアの哀しみが一番胸に沁みました。
愛さなくてはいけないと思った、という告白に、わかるよと、無言で呟きました。
大人になれば誰かを愛して、子を設けて家庭を営まなくてはならない。
それが夜になると月が空に輝くのと同じことにように自然と思わされていて、そうあるべきと自分を無理やり嵌め込んでいたってことを、ドロシアは言っていたのはないかと感じました。その苦しみは私が感じていたものでもあるので、ドロシアと自分が重なりました。
ドロシアは結婚したし夫を愛そうとしたし息子を設けたけれど、結婚と夫を愛そうとすることはやめた。それが合わないと思ったから。
私は根暗で深刻になりがちな性格なので、軽やかに語れませんが、この映画はとってもスタイリッシュで知的でおしゃれです。とっても、というか、めっちゃくちゃ、あるいはバリバリ。おしゃんてぃを愛でるだけでも価値はあります。
あとアメリカの1979年頃までの歴史的背景も知っているともっといいと思います。私は結構全く知らなくて、パンフレットにすごく助けてもらいました。
わかりあえない幸せ
1979年という時代設定のせいだろうか?
登場する女性たちがよく喋る。自己主張する。近所の少女も、下宿人も、母親も。
好き勝手話しまくっているにもかかわらず、母親は、主人公の少年に、のたまう。
「あなたは、私のことがわかってない」と。
うわー、めんどくさい女だなあー、勘弁してーと思うが。
確かに映画を見てると、二人がホントに共鳴しあってるシーンは、1シーン(車とスケボーのところ)しかないのではないか。あとは、ずーっとわかりあえないままだ。
家族だからといって、何でもかんでも、わかりあえる訳ではない。世代も違うし聞いている音楽も違う。感じ方が同じである筈がない。
母親を、もしくは息子を、家族という役割から一旦外して一人の人間として向き合った時に、理解できない部分も知らない一面も当然出てくる。どんなに言葉を尽くしても埋められない部分もある。
そのことを受け入れる謙虚さが、この映画にはある。
「わかったつもり」の傲慢さを、「わかりあえる筈、同じな筈」という同調圧力を、排除した映画なんだと思う。
「わからない」という自覚は、決してネガティブなことではなく、相手への謙虚さであり、畏怖である。
「わからない」ものを受け入れる度量の深さが、愛である。
20世紀の女性たちは、マイク・ミルズにとって、「わからない」存在だけれども、だからこそ深く知りたいと思うし、尊重したいし、愛おしい。そんな賛歌だったのではないか。
「わかりあえない幸せ」に満ちた映画だったなあと思う。
—
この映画でもう一つ気になったのが、「ロールモデルの消失」。
映画に出てくる成人男性(ビリー・クラダップ…むちゃくちゃカッコいい!さすがDr.マンハッタン)がポンコツすぎて。少年の父親には絶対なれないキャラ。
なので母親は、二人の女性に息子の父親がわりになってほしいと頼む。
どういう父親像が正しいのか?いや、そもそも「正しい父親像」とは何なのか?「父親像」は必要なのか?
「ロールモデルの消失」というよりも、「憧れるべき対象(父親)の喪失」と言い換えた方が良いのかもしれない。
マイク・ミルズと同世代のポール・トーマス・アンダーソンやウェス・アンダーソンといった監督たちは、何度も繰り返し「憧れの喪失」をテーマにしてきた。単に家族内のというだけではなく、指針を見失った20世紀のアメリカ像と重ねて描いてきた。
ポール・トーマス・アンダーソン(『ザ・マスター』『インヒアレント・ヴァイス』など)の描く「憧れの喪失」=20世紀のアメリカ像は、どこか苦く切ないものだった。
ウェス・アンダーソン(『ダージリン急行』『ファンタスティック Mr.FOX』など)は、「喪失」後の再生までを描いている。
では、マイク・ミルズの「憧れの喪失」=20世紀のアメリカ像はどうか。
苦くもなければ、再生もしていない。
不完全で面倒くさい20世紀の女性たち(母・下宿人・近所の少女)を「わからない」ままに愛したように、マイク・ミルズは、不完全で面倒くさい20世紀という時代を「わからない」と畏怖しながらも受け入れているように思える。
だからこそ、ラスト、母親(「憧れ」を持ちつつづけた世代)の飛行シーンが、素晴らしいのではないか。
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追記:
監督マイク・ミルズの配偶者ミランダ・ジュライ(代表作『廊下』)が、すごく好き。サブカル女子(子って歳でもないか)の面倒くささを煮詰めたような人。この映画、お母さんだけではなくミランダ・ジュライの要素もかなり入っていると思う。
母なる世紀。
世代や環境で好みが分かれそうな作品。監督の自伝的映画らしいが、
この監督もきっとフェミニストなんだろうな。個人的に自分の息子
が可愛くて仕方ないけど、女手で育てる方法が分からない過程とか、
他人を頼っておいてけっこう文句つけてるあたりに苦笑いしながら
自身の子育てを振り返る形となった。どんなに理想を掲げてみても、
息子は息子のやり方で生きていく。そりゃこんな境遇だから母親の
言うことをよく聞くいい子に育つだろうけどやがて自分の道を選ぶ。
彼女を助ける女性陣も最後には自分で自分の道を選ぶ。母親自身が
最もそれを成し遂げてきた女なんだから、周囲も彼女に感化される
でしょう。羨ましいけれど、ちょっと面倒くさい感じのするこんな
母親像は当時の日本にまだいない。特異なことは何も起こらないが、
少年の目を通して描かれる各年代の女性たちは魅力的。父性がほぼ
ないところが問題だけど(爆)こういう環境なのだから仕方ないよね。
しかしホントにヘビースモーカー、あれじゃ肺を遣られてしまうよ。
つまらないものを観た
ただひとこと、薄っぺらい。
時代性と、少し風変わりな親子関係、それを取り巻く個性的な人々をうまく絡めて描いているのだと思うが、どれをとってもぐっとくるものが一つもない。
結局なにを描きたかったのか、まるでピンとこない。
アーティスティックな映像表現も何だか浅はか。
少しも格好いいと思えず、むしろムカムカする。
70年代のパンクシーンは個人的に好きなはずだが、部屋で踊るシーンなどかっこいいどころか寒気すらする。
第一、学校とか仕事とか毎日の営みのようなものが見えなくてすごく不自然。それでそんな四六時中、ドラマティックなことが起きたり哲学的な会話ばかり繰り広げる?
エピローグで主人公が、自分の息子には母親がどんな人間であったかを語り尽くすことはできないだろう…的なセリフを語る。そりゃあそうでしょう、どうってことのない人物像だったもの。魅力的然と描いてはいたけれど。
そしてその結び方もやはり陳腐。
Shakedown 1979
母親+魅力的な2人の女性との関係の中でジェイミー少年が成長していく物語かと思いきや、突っ張って生きざるを得ない3人の女性がジェイミーを通じて変化していく話だった。
タイトル通り主人公はドロシア。激動の20センチュリーを生き抜いてきたが、自分は不幸せ、という観念に囚われている。生きるためにパートナーとの関係を捨てており、本当はパートナーシップを築きたかったが、気がついたら年老いてしまい、もうダメなのではと思い込んでいる。
ジュリーは母親に支配され、自分を生きることができない。アビーは子どもを産みづらくなるような運命を背負ってしまった。みな自分の問題を見ないよう、突っ張って生きている。強いようだが脆いと言える。
ジェイミーは少年だけど、なんか仏っぽい。エル・ファニングと毎晩一緒に寝ているのにエロいことを我慢できる15歳なんてあまり現実的ではない。ちょいと都合良すぎる存在だ。
まぁ、でもそんな仏の15歳と関わっていくうちに、彼の存在が鏡のように機能し、年上の女たちはパートナーシップの問題や、自身を受け入れられないなど、自分たちが目を背けていた問題に直面していく。ジュリーの母親はセラピストという設定だが、ジェイミーはまるでナチュラルボーンのセラピストのようだ。
物語上、ジェイミーとの関わりではっきりと変容した瞬間が描かれていたのは母親だけだったように思えた。しかし、エピローグでジュリーは母親と縁を切り、アビーも子どもを授かるなど(結果はさることながら、チャレンジしたのがすごいと思った)、自らを縛るものをブチ切って自分として生きている様子が語られており、エンディングはなかなかグッと来るものがあった。流石パンク映画だ。
母親は大恐慌時代の人とか言われていたけどずいぶんリベラルだし、登場人物たちは基本的に現代的な価値観を持っており、物語自体も普遍的なので、現代に置き換えても問題ない作品だと思う。しかし、1979年という設定は個人的にとても魅力的だった。
パンクがメインストリーム化する前の1979年のアメリカ西海岸のパンクの空気を感じられて良かった。
Black Flag ファンと Talking Heads ファンの対立とか、
(やはりアメリカのパンクはインテリ系元祖NYパンクとDIYアメリカンハードコアという大きな流れがあり、融合したり別れたりしながら進化したのかなぁ、ヘンリー・ロリンズ加入前でも地元西海岸だと Black Flag はすでに大物だったかとか、Ramones の影響は本国アメリカでは、1979年においては小さいのかなぁ、とかいろいろ想像)
アビーがやっぱりNYで洗礼を受けたとことか、ロンドンパンクの大物だと、ロンドン・コーリング前でありながらやはり The Clash が受け入れられていたのかなど、映像で観ると感銘を受ける。
パンク / ニューウェーブの物語なので、クラブに行くシーンも、1979年でありながらディスコじゃないのがいいね!
ニューウェーブ姉ちゃんのアビーがたいへん魅力的でした。思春期にあんなお姉ちゃんと出会っていたら、めちゃくちゃ影響受けるだろうな。
カーターの演説も素晴らしく説得力があり、1979年から現在に向けてのメッセージに思えてならなかったです。
古き佳き、情熱
昔って、便利ではないけど自由だったなー、とシミジミ感じる作品。
生理をみんなで連呼とか、処女喪失時の詳細ブチまけたりとか、クリ◯◯スという単語を親にも言っちゃうとか、ホントみんなして自由ww
残念ながらコンディション調整をミスり、前半ウトウトしてしまったのでDVD出たらもう一回観ようかしら。
めんどくさい20世紀Women
♪携帯無え ネットも無え
wifiも全然飛んで無え
ビデオも無え ゲームも無え・・・♪
そんな1979年、とにかく直接話すしか無え
そう、めんどくさい登場人物によるめんどくさい
作品なのです。
話すしかないという事は、
失言も有る、言葉足らずも有る、
ケンカも有る。
が
炎上は無え、延焼も無え・・・
正面から息子と向き合おうとするドロシア、
じょうずな振る舞いはできないけどマトモなアビー、
大事な相手とはセックスができないジュリー。
21世紀風にいうとめんどくさいと、一刀両断、
20世紀風にいうと、みんなマトモで一生懸命。
マトモが大事で一生懸命が愛おしい、ジェイミーは解ってます。
♪I think of all the education that I've missed
But then my homework was never quite like this!
Ow! Got it bad
Got it bad
Got it bad
I'm hot for teacher!♪
俺ら、家さ出るだ!
この21世紀を巣食っている変な空気を壊してくれ!
チーフよ!
水飲み台を持ちあげてくれ!
oh Jimmy
3人の女性を見ているうちに、少年の心の中が見えてくる。
この映画を監督したマイク・ミルズと言えば思い出されるのはクリストファー・プラマーをオスカーに輝かせた「人生はビギナーズ」で、突然ゲイをカミングアウトした老いた父親というインパクトのある設定の登場人物があれど、その父親を描くことで逆に内向的な息子の心が見え、また息子を見つめていくと父親の愛が見える、という鏡写しみたいな描写を感じる映画で、個人的に興味深かった記憶がある。
そういう意味で、こちらの「20センチュリー・ウーマン」もまた、3人の女性(恐慌時代に生まれ1999年に亡くなる母親、癌と闘いつつパンクをこよなく愛する写真家の女性と、幼馴染の早熟な美少女)に加えて家の改装をしてくれている男性などという周辺の個性的な人々を丹念に描くことで、結果的に映画の中心にいる少年(多感なティーンエイジャー)の心理が繊細に浮かび上がる、ということをやっているようで、やっぱり面白い脚本作り。こういうのって、意味が分からないととことん分からない可能性もあるんだけど、一旦その意図が解せると、登場人物がそれぞれにパズルのピースを持ち寄って、物語を通じて少年の「こころ」を徐々に徐々にくっきりと形作っている様子が感じられてくるから不思議。
ストーリーとしても、アネット・ベニング、グレタ・ガーウィグ、エル・ファニングの3人3世代の女性たちそれぞれが担うそれぞれの世代の「20世紀」がそこにあって、それぞれが見てきた「20世紀」の先にある(映画の時間軸における)現在のアメリカが見えてくるような構成。それぞれの時代の栄枯盛衰を同時に見つめながら、それらが一本の道筋で繋がってすべてが20世紀だった、というのを感じるような。もっと言うと、そこから更に今、この作品を観ている21世紀の現代までの時間の流れをも感じるような、そんな物語だった。
とは言え、やっぱりこの映画は、60年代や70年代のアメリカを体感した人でないと分かりにくいなぁと、日本生まれ日本育ちの私はどうしても思った。きっと本国で生まれ育った(そしてできれば20世紀を生きた実感のある)人には、私には見えない背景や、私以上に感じるものがきっとこの映画にあるのだろうし、そういう意味でこの映画を本当に分かると思える日は来ないのかもしれないなぁと、少し映画を遠く感じながら眺めていた部分もあった。
男性監督が描いた物語のわりに随所で「女性の幻想」を感じないでもないのが気になったところではあるし(物分かりのいい男しか登場しないし)、やっぱり日本人には感覚として掴み切れない部分もあるかな?と思ったけれど、見終わってなんだか爽やかな気持ちになれたのは良かったと思う。
移りゆく時代を生きた母と子のラブストーリー
最近活躍中のエル・ファニング出演で本作を知り、監督の母をモチーフとした映画ということで、そういう心積もりで鑑賞。
1979年という、なんとも文化や世界情勢の乱れた時期の話。冒頭で、ジェイミーはMiles Davisや、『カサブランカ』を観て育ったと語る。女手一つで育てられた彼は、恐慌期に生まれ、助け合いの世界で育った母は心配性だと、そう言う。
母は、今の世界がもはや昔とは変わってしまっていることは知っている。彼女は、ジャズの黄金時代を生きた。そんな彼女が70年代後半から台頭してくるパンクシーンを理解できるはずもない。母親は、この現代の文化や恋愛に対して心を閉じていたのだが、息子を理解するために、自らクラブに赴いたりする。
現代の生き方を知らぬ母は、自分が重い人間では、と苦悩し、ジュリーとアビーに息子に現代の生き方を、「Good Man」の生き方を教えるよう頼む。
この2人の教育方がなんとも笑ってしまうものなのだが...(笑)
私が印象に残ったのは、彼女らがすごく知性に溢れていることである。一見世間に迎合する不良女性に見えるが、読書家で、それぞれ自分の立場をしっかりと確立している。ジェイミーはそれに答えてしっかりとこの広い世界の実際(女性に関してだが)を勉強する。
そんな教育方に母は心配を抱くもーこれは母親は誰もがそうだろうがー、ジュリーと家を飛び出したジェイミーは、「お母さんが居ればそれで大丈夫」と言う。
そこには「Good Man」の姿があった。
そんな彼を育てた、時代の流れに翻弄されながらも、逞しく、大きく生きた母の愛のストーリーであった。
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