「わかりあえない幸せ」20センチュリー・ウーマン 小二郎さんの映画レビュー(感想・評価)
わかりあえない幸せ
1979年という時代設定のせいだろうか?
登場する女性たちがよく喋る。自己主張する。近所の少女も、下宿人も、母親も。
好き勝手話しまくっているにもかかわらず、母親は、主人公の少年に、のたまう。
「あなたは、私のことがわかってない」と。
うわー、めんどくさい女だなあー、勘弁してーと思うが。
確かに映画を見てると、二人がホントに共鳴しあってるシーンは、1シーン(車とスケボーのところ)しかないのではないか。あとは、ずーっとわかりあえないままだ。
家族だからといって、何でもかんでも、わかりあえる訳ではない。世代も違うし聞いている音楽も違う。感じ方が同じである筈がない。
母親を、もしくは息子を、家族という役割から一旦外して一人の人間として向き合った時に、理解できない部分も知らない一面も当然出てくる。どんなに言葉を尽くしても埋められない部分もある。
そのことを受け入れる謙虚さが、この映画にはある。
「わかったつもり」の傲慢さを、「わかりあえる筈、同じな筈」という同調圧力を、排除した映画なんだと思う。
「わからない」という自覚は、決してネガティブなことではなく、相手への謙虚さであり、畏怖である。
「わからない」ものを受け入れる度量の深さが、愛である。
20世紀の女性たちは、マイク・ミルズにとって、「わからない」存在だけれども、だからこそ深く知りたいと思うし、尊重したいし、愛おしい。そんな賛歌だったのではないか。
「わかりあえない幸せ」に満ちた映画だったなあと思う。
—
この映画でもう一つ気になったのが、「ロールモデルの消失」。
映画に出てくる成人男性(ビリー・クラダップ…むちゃくちゃカッコいい!さすがDr.マンハッタン)がポンコツすぎて。少年の父親には絶対なれないキャラ。
なので母親は、二人の女性に息子の父親がわりになってほしいと頼む。
どういう父親像が正しいのか?いや、そもそも「正しい父親像」とは何なのか?「父親像」は必要なのか?
「ロールモデルの消失」というよりも、「憧れるべき対象(父親)の喪失」と言い換えた方が良いのかもしれない。
マイク・ミルズと同世代のポール・トーマス・アンダーソンやウェス・アンダーソンといった監督たちは、何度も繰り返し「憧れの喪失」をテーマにしてきた。単に家族内のというだけではなく、指針を見失った20世紀のアメリカ像と重ねて描いてきた。
ポール・トーマス・アンダーソン(『ザ・マスター』『インヒアレント・ヴァイス』など)の描く「憧れの喪失」=20世紀のアメリカ像は、どこか苦く切ないものだった。
ウェス・アンダーソン(『ダージリン急行』『ファンタスティック Mr.FOX』など)は、「喪失」後の再生までを描いている。
では、マイク・ミルズの「憧れの喪失」=20世紀のアメリカ像はどうか。
苦くもなければ、再生もしていない。
不完全で面倒くさい20世紀の女性たち(母・下宿人・近所の少女)を「わからない」ままに愛したように、マイク・ミルズは、不完全で面倒くさい20世紀という時代を「わからない」と畏怖しながらも受け入れているように思える。
だからこそ、ラスト、母親(「憧れ」を持ちつつづけた世代)の飛行シーンが、素晴らしいのではないか。
—
追記:
監督マイク・ミルズの配偶者ミランダ・ジュライ(代表作『廊下』)が、すごく好き。サブカル女子(子って歳でもないか)の面倒くささを煮詰めたような人。この映画、お母さんだけではなくミランダ・ジュライの要素もかなり入っていると思う。