わたしは、ダニエル・ブレイクのレビュー・感想・評価
全149件中、121~140件目を表示
制度
人を救済するために作られたシステムは結局人が作った決め事によって意味をなさなくなる。
僕もその象徴のような業界で働いていますけど、劇中の職員のように誰にも利益をもたらさない対応を生き甲斐のようにしている人物ってマジでいるんですよ。
不備を探すことを仕事にしてるやつ。
いや、もちろんそれも大事な仕事なんですけど、本質はそこじゃないだろうと。
誰のために働いているのかと。
せめて、自分自身でもいいから、どこかに対して利益を生むことをやれよと。
そんなことで給料貰っていいのかと。
ただの愚痴になったのでやめますが、その愚痴を発信できるのがこういう映画のいい点だと思う。
身につまされた。
48
明日が見えない。
評価の難しい映画です。ケン・ローチの作品は10本以上見ているけど、これほど希望の見えない映画は作ってこなかった気がします。生きることの全否定、弱いものは黙って朽ちていくしかないのでしょうか。あるのは現実の厳しさだけです。それを伝えたいがために、再びメガホンを握ったとも思えないのですが。
誰が悪い訳でもなく、淡々と仕事をこなした結果の地獄、穿ち過ぎな見方かもしれませんが、有料観覧者からいくらかずつ取って、30年間の基金にするとのこと。そのプロモーションのために作られたとしたら、完璧な出来です。きっとメッセージは、この30年間に誰か革命起こせよ、といったところでしょうか。
不思議な余韻を是非体験して欲しい。
見終わって30分ほど経つが
まだ頭の中がジンジンと熱い。
驚くほどエンドロールが短かったので
劇場の暗闇の中で余韻に浸る時間もなかった。
込み上げてくる感情はあるが
感動した?訳ではない。
涙もこぼれたが、感涙の涙でもなかった。
ここ最近観た映画の中では
独特な余韻が長く続いている。
けれど、とにかく見てよかった。
劇場が少ないので
電車で1時間かけて観に来た。
その甲斐があった。
人を選ぶ映画だった。
観るタイミングも
一緒に観る人も
選ぶ映画だと思う。
おそらく、観ていて
辛い「100分」になるだろう。
でも、是非観て欲しい。
ほとんどBGMなし。
残酷なまでに淡々と進むその様は
深夜のドキュメンタリー番組を見てるかのよう。
ささやきのようなセリフや
路面を踏みしめる音。
全ての日常の音がくっきりと聞こえて来た。
だからこそBGMなんて、いらなかったのか。
正直、序盤は
ダニエルにも、シングルマザーにも
感情移入できなかった。
そこまで怒ること?
自業自得じゃないの?
そう感じていた。
「役人目線」で物語を見ていた。
だが、物語が進むにつれ
気がつくとダニエル側から
景色を見ている自分がいた。
フードバンクでのシーンでは
ダニエルと一緒に
ケイティを慰めている自分がいた。
ダニエルの落書きのシーンでは
通りすがりのおっちゃんと一緒に
大喝采を送った。
自分の隣にもし
「ダニエル」がいたら?
私自身、家電量販店に勤務している。
パソコンを担当している私は
毎日のように、ITに不慣れな
いろんな「ダニエル」に出会う。
自分のスキルがあれば
彼らを助けられる。
でも業務外になってしまう。
役所で女上司に叱られていた
アンの気持ちが痛いほどわかる。
明日ぐらいは
業務逸脱してみようかな(^^;;
まだ余韻冷めやらぬ今のうちに
上司への言い訳を考えておくか(^-^)v
語り口は静かだが、強い怒り
役所というところには、法の執行者であることが権力を持つことだと、大きな勘違いをしている者がときどき見受けられる。自分が血税に雇われた身であり、法で定められたことを誠実に実行することが自分の仕事であって、そこには自分の恣意など一切介在させてはならないという、民主国家では自明のことを忘れているものがいる。
映画の冒頭には「医療専門家」なる女性による質問と脅しにもとれる言葉が出てくる。しかも、この「医療専門家」が国から委託された民間企業の人間だというのだから噴飯ものである。
主人公のダンは求職手当と支援手当(日本でいえば雇用保険と生活保護にあたるのだろう)のどちらの支給要件からも漏れてしまっている。おまけにこうした福祉を受けるための手続きに必要なPCを扱う経験もなく、書類の作成もままならない。
働いているときは真面目に納税してきた彼を、病気で働けなくなったときに救い上げることのない福祉制度の矛盾は、議会が解決するかも知れない。しかし、この矛盾を矛盾とも思わない人々は、そう簡単にはこの社会から消えていなくなることはない。
特にハッとするようなカメラワークや編集のテクニックがあるわけではない。しかし、全編を通じてふつふつと湧きあがる憤りが心を揺さぶり続ける。
「マッチ売りの少女」あるいは「一杯のかけそば」、貧困と闘う尊厳の在り方を問う
"パルムドールを受賞したから、いい作品。"という方程式はないが、"やっぱりね、パルムドールを受賞してるんだね。"という会話は成り立つ。そんな映画だ。じんわり泣けてくる。
心臓病で医者から仕事を止められているダニエルは、自身を犠牲にしながらもシングルマザーのケイティと2人の子供の家族を助ける。しかし、そんなダニエルの正義感をよそに、厳しい現実に追い詰められていく。
貧困と社会を描く、この手のタイプは、アンデルセンの「マッチ売りの少女」や「フランダースの犬」、あるいは栗良平の「一杯のかけそば」のような描き方もある。しかしケン・ローチ監督は社会制度そのものに怒りを燃やし、問題提起している。そして人間の尊厳・プライドを主張する社会派ドラマに仕立てた。
おそらく私小説的なアカデミー作品賞の「ムーンライト」より、素直に心を寄せることができるに違いない。
(2017/3/24 /ヒューマントラストシネマ有楽町/シネスコ/字幕:石田泰子)
貧しさを教わる。
貧しさからはじまる自分の暮らしが、自分の心が壊されていくこと。
福祉やセーフティーネットはそこを回避するためにこそあるのだろうが、制度でしかなく、硬直化している。
現代社会で福祉に携わる者として考えなきゃいけないことがたくさんあると感じたとともに、一人の労働者として、働くこと、誇り、尊厳、そして不安な未来を考えた。
政府は福祉が困窮者に行き渡らないように画策している
去年、川崎市市民ミュージアムで観た、昔の作品の『キャシー・カム・ホーム』と確かに似ている。50年も前の作品なのにお役所の姿勢はは何も変わっていないようですね。 キャシー~は都会を夢見て無計画に田舎から出てきた娘が、都会で知り合った男と所帯を持つが失業し、政府の保護を受けることの困難さを描いていたけど、こんどは心臓発作で仕事を医者に止められている老人が失業給付を申請する話。
今回は主役がお年寄りになったことと、役所での申請がパソコン必須になりつつある事の弊害も加わってます。お年寄りはパソコンが苦手ですからね。電話の対応は機械音声、求職手当の申請に、働けないのに面接の実績と証拠が必要ときた。 この主人公は心臓の病気で医者に仕事を止められているのにですよ。 これは機械が苦手なお年寄りじゃなくてもイライラすると思います。
イギリスでは数年前の福祉改革により、最貧困層にある家庭200万世帯の状況がさらに悪化しているそうです。改革とは名ばかりですね。生活保護などが削減され生活困窮者がさらに困窮しているとの事。またこの映画の中で悪態を突かれていた、使っていない寝室に税金を課すという寝室税は
初めて知りました。福祉の名の下、貧しい人がより貧しくなるのは何故なんでしょうか?なんかおかしいですよね?
それから二人の子供を抱えたシングルマザーも登場します。彼女はお金を稼ぐために禁断の方法に手を染めてしまうのですが、そのきっかけは貧困が原因の子供のイジメなんですね。しかし、その禁断の方法はより子供が差別を受けやすくなるというのに、やもえず落ちていく感じが切なかったですね。
登場人物が不器用すぎる感はありますが、格差社会が急速に進む昨今、この映画を観て多くの人に理不尽さを感じてほしい。
厳しすぎる。
貧困者の人々の現実がひしひしと伝わってきます。抜け出せるわけがない。本人達も役所の人々も警察の人々も、みなそれぞれに正しい事をしているだけ。それなのにこんな不平等な関係が形成されてしまうなんて。情勢に立ち向かうなんて簡単な事じゃないし。
映画の収益金の一部が困窮された方達に少しでも届くだけでも救われる事はあるかも。
愛の欠落と他人事ではない無責任
他所の国の話ではない。今の日本の姿でもある。国民の、市民の在り方が問われる。腐った制度とロクデモナイ行政機関が出来上がる前に、それを正す機会が何度かある。要は政治である。一人一人の曖昧且つ責任感の無さが破滅的な公共サービスを生み出してしまう。他人事ではない事実を肝に銘じる映像だ。
観るのに覚悟が要ります
感情の行き場を失い、鑑賞後は気持ちの整理のつかない映画だった。中でもフードバンクのシーンは本当に強烈で、何がダニエルたちをあんなにも追い込んでいるのか混乱した..制度?社会?権力?上映後、異様な静けさが満席の劇場に広まっていた。
よそ事ではない・・
セリフが英語なだけで、日本の俳優が全く同じ脚本、同じ監督で
作られたとしても、ほとんど同じ感動を覚えると思いました。
おそらく、世界共通のある意味「差別」を描いた映画です。
他の方の書いてらっしゃいますが、役所並びに(日本では)警察の
理不尽さが淡々と描かれます。
隣の女性が泣いていらっしゃいましたが、泣く映画ではなく むしろ
どうしようもない怒りを感じた映画でした。
Working Class Hero
同じ街に生きる人間の温度差を描いた作品。
無駄な音響効果が全く無く、役者の表現も完璧な等身大で描かれている。
しかし起伏に富んだ物語では無い。
また場面転換の際、カメラに工夫が見られなかった。
苦しみを背負い、誇り高く生きる彼等の生き様には普遍性を感じる。
しかしこの普遍性は、これから先も現状は変わらないのではという静かな絶望でもある。
残念だが、幾人もの正直者が路頭に迷う様を冷徹に見送る彼等に、本作は大した薬にはならないだろう。
人が人として人らしく生きる権利
素晴らしい映画だった。
イギリスの貧困を告発する作品。
法律や税金は、本来なら弱者を助けるべきものなのに
むしろ逆で、貧困にあえぐ人たちを苦しめていることを訴える
観ている間に何度も泣いて、何度も腹を立てたこの作品。
人が人として人らしく生きる社会とはどうあるべきか
そんな社会を目指すために私たちがすべきことは何かを考えさせられた作品だった。
私が観た回は、たまたま弁護士の宇都宮健児さんのトークショー付きで
宇都宮さんが言うには、日本でも、このダニエル・ブレイクのような事例が増えているのだとか
これは対岸の火事ではない。
役所ってトコは〜〜
主役のおじさんが、江戸落語家の何方かに似てる気がして、
なんかひと昔前の下町にこんな江戸っ子親父がいたよなあ〜と
思ってしまう。
とにかく、国や政治のシステムが全く弱者の立場になっていない!
と言う親父の怒り、つまりは監督、ケン・ローチの怒りは
100%理解出来るが、
ダニエルおじさんは、給付金申請の窓口で
「自分で帽子をかぶれる程度に手を挙げられますか?」
と訊かれて
「心臓が悪いと書いてあるだろう!」とちょっと声を荒げる。
言いたい事は解るがそこで切れて「もうイイ!」と
椅子を蹴って帰ってしまうのもどうかと思うし、
心臓病で医者に仕事を止められてると言いながら、
知り合ったケイティ一達の家をちょこちょこ直してやったり
偽就活のために街を歩き回ったりしていて、
そこを観ちゃうと、高いところに登ったりは無理でも
心臓に負担をかけない小さな仕事なら
できるんじゃないかと思っちゃうのも真実。
そういう事は枝葉の事で本筋ではないんだけど
ちょっとダニエルおじさんに完全に同情し切れなくなってしまった。
この監督の前作「天使の分け前」でもちょっと力技が過ぎて
そこは無いわ〜というところがあった。
お涙頂戴にしない、容赦無いのがこの監督なんだろうけど
観客としては主人公がそれやっちゃったら
完全に主人公の味方になり切れない。
みたいな事が多すぎる気がする。
そう、立川談志師匠みたな映画だわ!
師匠の言いたいことは解るがそこまで頑固で
誰の意見も受け入れないのはどうよ!!みたいな〜〜
とにかく、この映画の言わんとする国の福祉制度の冷たさは
人ごとではなくて、日本も同じだと思う。
老後がますます心配になってきた。
さて、あなたはどうする?
いわゆる社会派ドラマのなかで、カンヌ・パルムドールを受賞したこの映画の特異性は何か。
「社会派」のスタイルにはいくつかあって、ひたすら眉を顰めて見ざるを得ない酷薄な現場を写した作品や、ダルデンヌ作品のようにただただドライに事実だけを追跡して観察するタイプのもの、怒りを前面に出した告発調のもの、子供や弱者の視点でピュアな悲しみを誘発させるもの、など。
はたまた戯画調・寓話調で饒舌なユーモアと揶揄をふんだんに使ったクストリッツァ作品もあるし、ドキュメントでは皮肉と自虐的な笑いで鋭く饒舌に追及するマイケル・ムーアもいる。
作品に反映させる「表現」は様々だが、メッセージ性の強い社会派作品を作り出すモチベーションは、やはり「怒り」が発端なのだろう。
その怒りを、登場人物に代弁させる。
この作品の主役ダニエル・ブレイクは物言う男である。
けっこううるさく文句を言い、行動する男だ。
不遇な仲間であるケイティも不満をあらわに声に出した。
これら声高な主役たちだからこそ、弱者を代表して代弁できたのであり、この映画もメッセージを前面に出せたのだ。
しかし、往々にして、弱者は声を上げない。声を出せない。
国の違いもあるのかもしれない。
とくに日本人は声を上げない、あるいは自業自得だと思ってしまう。
もし当事者たちが、この主役たちのように声を上げなかったら?
声なき声が、ただ圧し潰されて泣く泣く社会の片隅に追いやられていくだけだとしたら?
と考えなくてはいけない。
当事者の大半はそうだ。
子どもたちなら尚更だ。
そしてダニエルもケイティもそうだ。
一旦、諦め、力尽きたときの彼らも描かれている。
坂を転げ落ちるのはあっという間だ。
弱者を排除する効率主義によって、格差は拡大している。
それに気付かない人が多いのもまた事実だ。
この映画を見て、僕らは気づかなくてはいけない。
ただ気づいていないだけで、そこら中に社会から弾かれた人が籠っているのだ、と。
格差が大きければ、それだけ下方は見えにくい。英国は階級社会だからそうだ。日本も年々階級化している。対岸の火事ではない。これを鏡として足元を見つめ直さなければいけない。
さて、話を戻そう。
ケン・ローチ監督80歳にして敢えて挑んだこの作品の特異性とは、メッセージの直接性と、弱者の視点に立ったそのまなざしのやさしさではないか。
メッセージを明確・的確に訴えるには、強さとやさしさが必要である。
そのやさしさは、怒りだけでなくユーモアや微笑みにも裏打ちされている。
悲しさ・惨めさによる涙を描いた後に、ちょっとしたやさしさを示すことで、こちらの涙腺をゆるくする。
あるいは、やさしさが通りいっぺんの口先だけではなく心の底からであることを実証するセリフが出てくるとき、僕らは安っぽくない涙を心して味わうことになるのだ。
とくにケイティの娘デイジーが、文無しで引きこもったダニエルを玄関に呼び出すときの言葉、
「ダンはわたしたちのこと、助けた? それなら・・・(略)」
というさりげないセリフには、何度も思い返しては、じんとさせられる。
フードバンクで食物を支給されているとき、ケイティがあまりの空腹のために思わずしてしまったこと、その彼女自身のショックと、ダニエルと女性スタッフのフォロー。
困窮者の惨めな心をさらに切り刻みすり潰す役所のシステム。
ダニエルは公的扶助を辞退して去り、役所の外壁に大きくメッセージを落書きする。
その力強さと、周りの人々の応援、その一体感には救われる思いがする。
そしてラスト、本人のいないところでケイティによって読み上げられるダニエルの力強い抗議文は、何度も反復したい。
主演のデイブ・ジョーンズというコメディアンの功績も大きい。
どれも涙なしでは見られないシーンだが、さて、観終わった僕らは感動して立ち去って済むのだろうか。
希望の光は、弱者同士のかすかなやさしさだけであって、弱者切り捨てシステムに関しては何も変わらず、ダニエルはああいうことになり、ケイティも相変わらず「あれ」を続けるのだろう。
映画では、何一つ解決していない。
現実の世界も変わらない。
イギリスの社会システムもひどいが、日本もほぼ似たようなものである。
(失業手当支給の条件を満たさないと「罰則」があり、支給がストップするというのは驚きだが。)
変わったはずなのは、観た人自身だ。
自分たちの足元が、例外なく脅かされていることを知ること。
今は安泰でも、これから少しずつ、かつてない老人漂流時代に墜ちてゆく。
一部の富裕層以外は避けられないことなのだ。
さて、どうする。
ケン・ローチの現代劇は──
難しいところも多いし、つらいところも多い、しかもイギリス社会の深層をついたものがほとんど──それがケン・ローチの現代社会を描いた映画。
英国のことは深く知らないし行ったこともない、けれど、なぜか無条件に受け入れることが出来る。それは駄作でも受け入れるということではなく、彼の作品への信頼がそういった妄信を生んでいると勝手に分析している。
ケン・ローチの映画を見ると、まず怒りという感情が先立つ。この映画もその例に漏れず、かなりの憤怒を持って画面を凝視していた。往々にして怒るだけ怒って最後は全く泣けも笑えもしないという結末が多いケン・ローチ作品…しかし、この作品は珍しいくらいに涙が溢れ出てしまった。
固すぎるし、最後の演出はやや過剰かなとも思ったけれど、それ故の涙だったような気がするし、何よりも今までにないくらいの直接的な主張を感じた。だから分かりやすく、より身近な問題としてこの作品を捉えることが出来る気がする。
蛇足だが、制作やスポンサーなどの扉が少ない始まりと、非常にコンパクトだったエンドロールなどにも好感を持った。上映前の予告なども一切無かったし──。何気にこういったところにも作家の意志を感じるところである。
よかった
WBCの日本戦があったのだが、ネットで席を確保していたため後ろ髪を引かれる思いで新宿武蔵野館へ…
サービスデイということもあり年配の方中心にほぼ満席。
地味な話を最初から最後まで飽きさせず観せる監督の力量が素晴らしい。
ケン・ローチ監督の作品は初めて観たが過去作もぜひ観てみたい。
日本負けたの。
小久保じゃ、ねぇ…
全149件中、121~140件目を表示