「さて、あなたはどうする?」わたしは、ダニエル・ブレイク たぴおかたぴおさんの映画レビュー(感想・評価)
さて、あなたはどうする?
いわゆる社会派ドラマのなかで、カンヌ・パルムドールを受賞したこの映画の特異性は何か。
「社会派」のスタイルにはいくつかあって、ひたすら眉を顰めて見ざるを得ない酷薄な現場を写した作品や、ダルデンヌ作品のようにただただドライに事実だけを追跡して観察するタイプのもの、怒りを前面に出した告発調のもの、子供や弱者の視点でピュアな悲しみを誘発させるもの、など。
はたまた戯画調・寓話調で饒舌なユーモアと揶揄をふんだんに使ったクストリッツァ作品もあるし、ドキュメントでは皮肉と自虐的な笑いで鋭く饒舌に追及するマイケル・ムーアもいる。
作品に反映させる「表現」は様々だが、メッセージ性の強い社会派作品を作り出すモチベーションは、やはり「怒り」が発端なのだろう。
その怒りを、登場人物に代弁させる。
この作品の主役ダニエル・ブレイクは物言う男である。
けっこううるさく文句を言い、行動する男だ。
不遇な仲間であるケイティも不満をあらわに声に出した。
これら声高な主役たちだからこそ、弱者を代表して代弁できたのであり、この映画もメッセージを前面に出せたのだ。
しかし、往々にして、弱者は声を上げない。声を出せない。
国の違いもあるのかもしれない。
とくに日本人は声を上げない、あるいは自業自得だと思ってしまう。
もし当事者たちが、この主役たちのように声を上げなかったら?
声なき声が、ただ圧し潰されて泣く泣く社会の片隅に追いやられていくだけだとしたら?
と考えなくてはいけない。
当事者の大半はそうだ。
子どもたちなら尚更だ。
そしてダニエルもケイティもそうだ。
一旦、諦め、力尽きたときの彼らも描かれている。
坂を転げ落ちるのはあっという間だ。
弱者を排除する効率主義によって、格差は拡大している。
それに気付かない人が多いのもまた事実だ。
この映画を見て、僕らは気づかなくてはいけない。
ただ気づいていないだけで、そこら中に社会から弾かれた人が籠っているのだ、と。
格差が大きければ、それだけ下方は見えにくい。英国は階級社会だからそうだ。日本も年々階級化している。対岸の火事ではない。これを鏡として足元を見つめ直さなければいけない。
さて、話を戻そう。
ケン・ローチ監督80歳にして敢えて挑んだこの作品の特異性とは、メッセージの直接性と、弱者の視点に立ったそのまなざしのやさしさではないか。
メッセージを明確・的確に訴えるには、強さとやさしさが必要である。
そのやさしさは、怒りだけでなくユーモアや微笑みにも裏打ちされている。
悲しさ・惨めさによる涙を描いた後に、ちょっとしたやさしさを示すことで、こちらの涙腺をゆるくする。
あるいは、やさしさが通りいっぺんの口先だけではなく心の底からであることを実証するセリフが出てくるとき、僕らは安っぽくない涙を心して味わうことになるのだ。
とくにケイティの娘デイジーが、文無しで引きこもったダニエルを玄関に呼び出すときの言葉、
「ダンはわたしたちのこと、助けた? それなら・・・(略)」
というさりげないセリフには、何度も思い返しては、じんとさせられる。
フードバンクで食物を支給されているとき、ケイティがあまりの空腹のために思わずしてしまったこと、その彼女自身のショックと、ダニエルと女性スタッフのフォロー。
困窮者の惨めな心をさらに切り刻みすり潰す役所のシステム。
ダニエルは公的扶助を辞退して去り、役所の外壁に大きくメッセージを落書きする。
その力強さと、周りの人々の応援、その一体感には救われる思いがする。
そしてラスト、本人のいないところでケイティによって読み上げられるダニエルの力強い抗議文は、何度も反復したい。
主演のデイブ・ジョーンズというコメディアンの功績も大きい。
どれも涙なしでは見られないシーンだが、さて、観終わった僕らは感動して立ち去って済むのだろうか。
希望の光は、弱者同士のかすかなやさしさだけであって、弱者切り捨てシステムに関しては何も変わらず、ダニエルはああいうことになり、ケイティも相変わらず「あれ」を続けるのだろう。
映画では、何一つ解決していない。
現実の世界も変わらない。
イギリスの社会システムもひどいが、日本もほぼ似たようなものである。
(失業手当支給の条件を満たさないと「罰則」があり、支給がストップするというのは驚きだが。)
変わったはずなのは、観た人自身だ。
自分たちの足元が、例外なく脅かされていることを知ること。
今は安泰でも、これから少しずつ、かつてない老人漂流時代に墜ちてゆく。
一部の富裕層以外は避けられないことなのだ。
さて、どうする。