ゲアトルーズのレビュー・感想・評価
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愛について悩む女性
恋に恋するような愛を愛するような女性が、恋人について愛について悩んでいる話です。 暗い顔して深刻に真剣に考えこんで話すので、暗い暗い暗い(笑) とにかく、暗いイメージです(笑) そして、あい変わらず、やっぱり、しっかり、眠い(笑) 僕はダメです、この監督(笑)
妙にアントニオーニの様な間合いの作品で時代の先読み感としても凄まじ...
妙にアントニオーニの様な間合いの作品で時代の先読み感としても凄まじいし、「太陽はひとりぼっち」のファーストシーン(密室)が延々と続くよう。ドライヤーは女性を表現の中心に据えることが多く、絶大な信頼を寄せている。
今のところ、いちばん好み
ゲアトルーズをめぐる数々の展開。 彼女の夫、愛人、そして過去の男。 どの人物にも重ねて観ることができる。 そして、彼女は愛した者にしか視線を投げない。 こういうのが分かりやすくていいですね。 あと、人物たちが自分の心情を 正直に屈託なく話すから、観ていて気持ちいい。 奇跡とかより、好きだなーと思っていたら なんと彼の遺作だったのか。 「愛と死」 作品のテーマ、人生のテーマだったのだろう。
心のすれ違いと孤独
愛の不毛さと孤独と死を描いていて、これは日本の小説家福永武彦が好んだテーマではないかと思いだした。もう、四十年前に読んだ彼の「死の島」がこれだった。 傑作「奇跡」を鑑賞した後の上映だったので、残念ながら作品の質は落ちている。しかし、この映画作家に関心を持った方なら、一度は観ておくべきだろう。合格点は与えてもいい内容だ。 男女の愛情のすれ違いを描き、愛することが一番大事だと結論づける。愛の成就は関係ない。浮かび上がるのは、孤独と死である。まさに福永武彦の小説だ。福永武彦は主人公に芸術家をよく選んだ。ゲアトルーズも声楽家だ。 恋愛を描くなら、本来男女が向き合って対話すべきなのに、独白が多い。もう、終わった恋だからだろうか。
文章で説明できる範囲など遥かに超えている
こ、これは… メチャクチャいい… オープニングのピアノ曲からして、先ず良いが、この音楽をバックにタイトル・クレジットが流れている時点で、すでに傑作の予感しかしない。 完璧な構図と完璧なライティングによる完璧なカメラワーク。室内劇のセットの完璧な美術設定。時おり挿入される音楽の素晴らしさ。そして舞台劇をベースにした役者たちの完璧な芝居。そういったことは勿論なのだが、そんなことを遥かに飛び越えて行ってしまうような映画的な豊かさがある。 ストーリー自体は特に珍しくもないメロドラマだし、主人公の女優も特別な魅力があった訳でもないのに、何故あんなにまで引き込まれてしまったのか? 文章で説明できる範囲など遥かに超えている。この作品には、そんな深さや複雑さといったものがある。 こんな映画体験は生まれて初めてだ。 ドライヤーは、映画館で観なければ絶対ダメだと、ずっと思っていたが、初見がDVDなどでなく本当に良かった。 観終わった瞬間、直ぐまた観たい!と思ってしまった。
究極フォルムの映画だった。
実はゲアトルーズは初めて見る。こりゃあぁ、「絶対映画」だ。ある映画監督の究極のフォルムを用いて描かれた人の生のお話。そして遺作にぴったりの題材。ちょっと神がかった題材をいくつかみている側からするとすごく庶民的な話からスタートするけど途中から哲学的になり、まあ結局は人生の終盤の姿を見せつけられる。 なんとなく、というか意外に「偶然と想像」を思い出した。しかし、人の思いが徹底的にズレていくのにカメラはカットバックしない。ものすごい葛藤を延々と話してるにもかかわらず同一フレームで各々明後日の方向みて話してる。距離は近いのに交わらない。ぶつかりあってるのでなくて食い違って更に各々の思弁の世界を吐き出して、、という演劇的アプローチ。主要4人のキャラクターはだいたい同一舞台入れ替わりでだいたい2人になる。最後の最後までその繰り返し。時代が飛んだラストでも更にその姿が映し出されてある意味ゾッとした。「愛」がテーマだったと思う。モノクロを活かした背景、舞台装置も象徴的。だから「愛」を巡るやっかいな生が具体的でなく漂う感じになっていて、ああ、もう愛なんて掴めないんだよ、というのがドッと襲ってきました。
「フレーミング」と「視線」で男女の交わらない断絶を視覚化する、実験的な恋愛禅問答映画。
正月2日に、『奇跡』と立て続けに視聴。 これまた、見ごたえのある重量級の映画体験だった。 内容自体は、いささかメロドラマじみている。 浮気女が、寝取られ夫と、若い愛人と、かつての愛人と、パリの岩清水弘を相手に、自らの恋愛観をねちっこく語り合うだけのことを、2時間もやって延々やっている。 ただ、それをこれだけ濃厚に、(しかも映画なのに敢えて)徹底的なまでの密室内会話劇の形式でやり抜かれると、どこかアバンギャルドというか、実験映画でも観ているような気になってくる。 この、社会的地位をもった支配的・父性的な夫を傍目に、美しい妻が若い愛人と不倫し、女のほうが居直って自己の正当性を声高に主張するというストーリー構造は、まんま『怒りの日』とおんなじであり、「魔女狩り」という社会的制裁の枠組みがないだけの、いわば「姉妹作」のようなものだ。 ドライヤーは、母親がかなり不幸な人生を送ったひとで、抑圧され社会に圧殺される女性に対するシンパシーが人一倍強かったときくが、彼にとって「不倫」は、僕らが考える以上に重大で、突き詰めるべきテーマだったのだろう。 ただ、個人的に登場人物たちに感情移入できるかというと、それはかなり難しい。 とくに、ヒロインである、妻のゲアトルーズ。 自分の高邁な「愛」の基準を満たさないという理由で、仕事を優先する元愛人や現夫を比較的容赦なく切り捨てるいっぽうで、束縛を嫌う今の愛人が自分に従わないとみるや、自ら別れを切り出してパリに逐電してしまう。留学先で頼った男はどうやら彼女にほの字だったようだが、彼女がそれに応えることはない。 彼女は結局のところ、若い愛人が評したとおり、「高慢」な女なんだと思う。 高慢とは、突き詰めれば、相手に合わせないということだ。 相手との妥協点を探さず、相手の弁明もきかず、勝手に結論を出して、これは自分の理想とする愛の形ではなかったと断罪する。女との愛より、仕事や地位や名声を優先したという理由で、一方的に別れを告げる。ぶっちゃけ傍迷惑きわまりないし、それで「私は孤独だ」とか言われても自業自得もいいとこで、しょうじき知ったことかと思う。そもそもいろいろ御託を並べてるけど、若い愛人に衝動的な恋愛感情を抱かなければ、べつだん別れ話にも至っていないわけだし、単純に惚れっぽくて醒めやすい自分勝手な女が、賢しらに理論武装してエラそうに講釈を垂れているようにしか思えない。 じゃあ男連中がどうかというと、パリの友人を除けば、どいつもこいつも相応に人でなしで、ゲアトルーズに捨てられたからといって、別段可哀想でもなんでもないいっぽうで、少なくともゲアトルーズよりは可愛げがある気もする。 弁護士でこれから入閣する敏腕政治家でもある夫は、妻に対しての感度が低く、抱えている不満や鬱屈に眼を向けることなく、「よき妻」という既成概念にゲアトルーズを閉じ込めている。要するに、妻を「過小評価」している。ただ、彼なりに妻を愛しているようだし、浮気をしているわけでもない。男が本懐である仕事に邁進して、何が悪いというのか? とは率直に思う。 ゲアトルーズの愛人である作曲家は、典型的なジゴロ体質で、複数の女性と関係をもっている。娼館で、いま付き合っている年上の女(ゲアトルーズ)の悪口を言って回るようなろくでなしだが、彼はおそらくなら最初から「遊び」のスタンスを崩していないし、隠してもいない。一方的にお熱をあげているのはゲアトルーズのほうで、しかもその「真実の愛」にしても、夫に別れを切り出すほどに熱く燃えあがってはいても、「相手は自分ほど真剣に愛してくれていない」となったらプライドのほうが優先される程度のものだ。 イタリアで成功して凱旋した詩人の元愛人は、大昔にゲアトルーズに捨てられたことで、いまもめそめそしている。実は心残りを晴らすべく、彼女を連れ帰る目的もあって帰還したというが、本当に彼はゲアトルーズが忘れられないのか、それとも「ゲアトルーズに捨てられた」ことが忘れられないだけなのか。彼は、彼女が激しく傷つくことを承知のうえで、話を前日のパーティの話題へと誘導し、そこ(娼館)でゲアトルーズの今の愛人が彼女を笑いものにしていた事実をわざわざご注進に及ぶ。およそやることが女々しいうえに、気持ち悪い。とはいえ、結局再びゲアトルーズににべなく袖にされて、臆面もなくおいおい泣き出すシーンを観ると、さすがにちょっと可哀想にもなる。なにせ、ここは長い映画のなかで、ゲアトルーズがわざわざ相手の顔に視線を戻してまじまじと見つめる、ほぼ「唯一」のシーンなのだ。 そう、この映画は、内容としては正直、まあまあ共感しがたいところがある。 でも、観ていて、全く退屈しない。 それどころか、ある種の実験映画として観客の頭脳を強く刺激してくる。 なぜかといえば、それは本作が徹頭徹尾、「フレーミング」と「視線の交錯/非交錯」の「型」を試し続けるような、特異な会話劇として成立しているからだ。 本作の構図感覚は、基本的に前作にあたる『奇跡』を踏襲している。 密室空間で、二人の人物が横並び、もしくは斜めに配されて、会話をする。 ただ、やたら後ろの狭い空間に人を配置していた『奇跡』と比べると、二人に後背に広がる空間は、多少ゆとりが生じて、息苦しさは減じられている。 いっぽうで、 ①二人の視線を決してかみ合わせることなく、「十字形」に交錯させる ②二人のあいだに、扉の縁や壺、壁の境などで、「区切り線」を入れる このふたつのルールは、比較的厳格に適応され、別の意味でたいへん息苦しい画面構成となっている。 要するにドライヤーは、フレーミングと視線の演出によって、男女の「ディスコミュニケーション」を徹底的に視覚化しているのだ。 男女が、みずからの恋愛観を滔々と述べ続ける、愛の禅問答。 しかし、両者の主張は常に一方的で、噛みあわない。 女の求めている愛と、男の求めている愛はちがう。 女が求めている夫像と、男の求めている妻像もちがう。 その絶望的で救いがたい「断絶」は、二人のあいだに挟まれた空間に生じた「断絶」と、決して交わらない視線の「断絶」によって、視覚的に追認され、念押しされつづける。 しかも、その「座り方」と「視線」の組み合わせは、全編を通じて千変万化する。 断絶の度合いによって、あいだに入る物の挟まり方や、お互いが今どこを観ているかが、常に調整され、あらゆるパターンと効果が試されつづけるのだ。 この「会話の内容」と「今見えている二人」のシンクロ度合いが、驚くほどに考え抜かれていて、練り上げられているからこそ、この辛気臭い「いい年こいた大人の、青臭い恋愛の主張合戦」は、観ていて飽きがこない。 この事実を、映画評論家は総じて「映画作家」としてのドライヤーの力量――、要するに「演出」の技法上の問題として扱いたがるわけだが、僕は同時に、ドライヤーは「ボディ・ランゲージ」の大家だったのだろうと思っている。 「気の合わない者同士は姿勢が一致しない」「気の合う者同士は同じ姿勢をとる」というシンプルな真実を僕に初めて教えてくれたのは、デスモンド・モリスの『マン・ウォッチング』だったか。それ以降、いろいろな媒体を通じて伝えられてきた、ボディ・ランゲージ、コールド・リーディング、しぐさの心理学といった「身体と心の連動」に関する心理学的知識。それらをドライヤーは、長年の監督経験からくる体感的なものか、それとも理詰めのものかは知らないが、完全に我が物としており、『ゲアトルーズ』では、それが武器として総動員されている。 その他。 『奇跡』では、登場人物の後背を締め切る壁が取り払われることは結局なかったが(一応次男が窓から脱出するシーンで風穴は空く)、本作では、ついに閉ざされていた背後の両開きの扉がどーんと開く瞬間が出てくる。ただし、開けられるとそこにはピアノがあって、ゲアトルーズは愛人の伴奏で昔の男たちの前で歌を歌わされるはめになり、ついには失神してしまう。なんだか意地悪で、逆説的で、羞恥プレイめいていて、とても面白いシーンだ。 ちなみに、この「開く」扉が、ラストの「閉じる」扉と呼応して、ヒロインであるゲアトルーズの心の解放と孤独への回帰の視覚的メタファーとなっているのは自明だろう。 鏡にゲアトルーズが映り込む有名な演出は、ベラスケスの「ラス・メニーナス」や、ヤン・ファン・アイク、フェルメールといった画家の絵画作品からの影響も論じられるべきかも。『裁かるるジャンヌ』にとくに顕著だが、ドライヤーの美術史的な知識と、それらを援用する手つきはおよそ半端ではないので。 音楽は、レオンカヴァルロの『道化師』のアリアと、シューマンの『詩人の恋』が効果的に用いられていた(ていうか、そのまんまの使用すぎてちょっと笑った)が、作中の愛人が作曲した体で流れるピアノ曲や歌曲がなかなか良い。なんというか、ブラームスの旋律を用いて、後期ロマン派と無調の中間的な作曲家がリメイクしたみたいな曲(時代感でいうとシマノフスキとか)で、ちゃんと全曲を聴いてみたくなった。 ーーーー 思えばドライヤーは、作品を重ねるごとに、アクションや演出を「そぎ落としていった」監督だった。 むしろサイレント時代の作品の演出のほうがトーキーに近く、トーキーに入ってからのほうがサイレントの様式を引きずっている印象がある。 『ゲアトルーズ』では、まさかの中間字幕が入り、60年代にもなってサイレントの結構に先祖返りを起こしている。 ただ、そうやって「やることを削ぎ落していく」なかで、ドライヤーは「表情」「しぐさ」「姿勢」「配置」「視線」「構図」の演出をとことん深化させ、煮詰め、突き詰めていったのだった。 『ゲアトルーズ』はまさに、その集大成ともいえる実験作である。
なんとも言えない悩ましい作品
監督のカール・テオドラ・ドライヤーを知らなかった。1889年生まれで、映画が誕生した頃だから、映画の歴史とともに生きてきた人物であるといっていい。本作品は1964年の発表だから、ドライヤーが75歳のときである。その年齢で製作したにしては、随分と艶っぽい物語だ。 タイトルの「ゲアトルーズ」はヒロインの名前だが、何度聞いても「ゲアトルー」としか聞こえない。自由奔放なゲアトルーは、肉欲と愛と孤独に悩む。それにしてもこの女優さんは上手い。相手を見るでもなくカメラ目線でもなく、どこか上の方を見ながら愛や孤独を語るが、頭の中で想像しているのが生々しいセックスであることが強く伝わってくる。 どうして夫とは駄目で、若い愛人とだったら満足するのか。大きさ?硬さ?持続力?回数?それともテクニック?などと、よからぬ想像がどこまでも膨らむ。しかしゲアトルーが話している言葉は、もう愛していないとか、愛していると言ってとか、要するに身体も心も満たされなければ幸せじゃないと主張する。 自由なゲアトルーを取り巻く、情けない男たち。社会的な地位や才能があっても、ベッドや言葉で満足させないと、容赦なく捨てられてしまう。しかし男たちはゲアトルーに執着する。ゲアトルーはよほどの床上手だったのだろうか。夫はセックスレスでいいから、愛人を作ってもいいから、そばにいてくれと懇願する。ゲアトルーがそれほど床上手ではなかったということなのか、それとも妻に逃げられた大臣はシャレにならないという世間体か。 ゲアトルーの男性遍歴は、その性欲の強さだけが理由ではない。生きた時代である。女が自立して生きていけるようになったからこそ、男性遍歴ができる。そうでなければ大人しく夫の言うことを聞くしかない。本作品は愛と孤独についての台詞が殆どを占める会話劇だが、その背景には女の自立と女の欲望という、発表当時にしては相当にセンセーショナルであっただろうテーマが隠されている。ドライヤー監督の遺作にして集大成という謳い文句も、あながち間違いではない。 映画としては退屈で面白みには欠けると思う。作品を理解するだけなら原作を読めばこと足りるが、美人なんだかどうだかよくわからない主演女優の、全編を通じた上の空のような演技と、そこはかとない妖艶さを楽しむには、映画を見るほかない。なんとも言えない悩ましい作品である。
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