「クストリッツァ民話」オン・ザ・ミルキー・ロード shironさんの映画レビュー(感想・評価)
クストリッツァ民話
ファーストシーンはハヤブサからの目線で描かれます。
俯瞰で捉えたシーンを見ると、つい映画好きの悪い癖で“神の視点”を意識してしまいますが…。
いやいや、まだそう早まるでない。
クストリッツァ監督ならではの、ほとばしるパッションとユーモア、自由なイマジネーション!
まるで映画の世界に飲み込まれてしまいそうな感覚に身を委ねて観ていると…
やっぱり、どうにも
口承民話で言うところの“恩返し”的な、
旧約聖書で言うところの“奇蹟” 的な展開が多いところが気になりだします。
いつもにも増して突飛で摩訶不思議な印象だし、土着感や残酷さも増量。
命の軽さも含めて、“民話的”と言うよりむしろ“民話”そのものなのでは??
でも、そう思うと全てがスッキリ!
過去に実際にあったであろう出来事をベースに、様々な人のイマジネーションを介して、豊かに語り継がれていったのが“民話”なら、
クストリッツァは、今語り継ぐべき3つの実話を、民話の語り口とイマジネーションを借りて伝えてくれたのか。 そっかぁ(*゚▽゚*) *:.。. .。.:*・゜゚・*
妄想が止まりません。
主人公には兄弟がいるらしいので、そこはぜひ三男坊の末っ子であってほしいところww
でも、そうなってくると、やはり気になるのはハヤブサの視点。
死と隣り合わせの生活のなか、家族の死を「全ては運命」だと受け入れる村人からも、逆に奇蹟によって生き残った者 = 成すべきことの為に“生き残らされた者” と思えてきます。
全ては運命…
だとすると、花嫁との逃避行は、実は追手から逃げていたのではなく、かの地に導かれていたということ?
様々な奇蹟は、かの地であの奇跡を成す為の道案内だったのか。
もし、全てが運命なのだとしたら、実は死と隣り合わせではなように思える私の生活も、小さな見えない奇蹟の繰り返しで、今日を生かされているのかもしれない。
ほんの些細な偶然の積み重ねとか。
もちろん自ら奇跡を起こすような主役ではくモブキャラだけどww
ハヤブサの視点から見たら、私も見えない力が紡ぐ壮大な民話のワンピースを担っていて、運命の尽きる日が来るまでは勝手に欠けてはいけないに違いないと思える。
彼と彼女の奇蹟の道は、いつしか人々にミルキーロードと呼ばれるようになりましたとさ。
つるかめつるかめ