「棄教する弱きものこそ」沈黙 サイレンス おぎりんさんの映画レビュー(感想・評価)
棄教する弱きものこそ
西欧のエリートが異文化の辺境で使命を捨て変貌したという知らせに若者が真相を探る探求の旅に出る。コッポラの「地獄の黙示録」その原作ジョーゼフ・コンラッドの「闇の奥」を思い出す。
では「沈黙」はスコセッシ版「地獄の黙示録」なのかというと「沈黙」の元になったのは1700年代の実話なのだからそれは違う。
「地獄の黙示録」のカーツ大佐、原作「闇の奥」のクルツは辺境で神と崇められるが、フェレイラは信仰を棄て日本人になったと言うのだから全く正反対。
west meets east。西欧人が異文化に接してアイデンティティが崩壊したのは日本でもアフリカでも起きていた事だ。
信仰=個人のアイデンティティという「沈黙」の時代と「闇の奥」「地獄の黙示録」の時代とは、全く異なる。
「闇の奥」で西欧人が直面したのは未開のアフリカ文化、「地獄の黙示録」でカーツが直面したのは欧米人に予防接種されたベトナム人の子どもの腕を切断したアジア人の西欧への不信と敵対心。
しかし「地獄の黙示録」はベトナム人に取材していない。アメリカ側の混乱の再現だからアメリカ人が考えた「理解不能なアジア人」という定型に陥っている事を割り引かなければならない。
それに比べれば「沈黙」は日本人をよく描けていると思う。一揆を防ぐ為の切支丹抑圧。ある時は仲間に犠牲を強いる隠れ切支丹の身勝手さすらリアリティを持って描かれている。そして映画では触れられていないが宣教師たちに棄教を迫るイノウエと通辞は二人とも元キリスト教徒なのだった。日本の宗教とキリスト教の神の違いを知り尽くした彼等に宣教師たちは手も足も出ない。
「日本は一神教が根付かない沼なのだ。あなた達の神は何をしてくれた?沈黙しているだけではないか?
逆さ吊りにあっているあの信徒達の苦しみを救うことができるのは、ロドリゴ師。あなただけだ。あなたが転べば、彼等は救われる。あなたが信仰を貫けば彼等は苦しみ抜いて死ぬ。あなたの信仰は誰も救うことが出来ない。簡単な事だ。形だけのことだ。少し脚を乗せるだけのことだ」老獪なイッセー尾形、にこやかな言葉と裏腹な浅野忠信が恐ろしい。
好むと好まざると関わらず「西欧文明の尖兵」という役割を持っていたキリスト教を徹底的に弾圧した事で、日本は植民地化されなかったが科学文明に接する機会も失った。
だがそれは後世の後知恵。今の基準で「欧米拒否した日本素晴らしい」なんて称揚するのも短絡的。
世界の果てで相容れない文化に敗北したキリスト教。しかし神は信仰をたやすく捨てる弱き者にこそ寄り添う伴奏者として顕現する。
その微かな小さな声に、感動してしまう自分がいる。この弱いものに寄り添う神は旧約聖書の厳しい神ではなく、マグダラのマリアを守るキリストだ。
イスカリオテのユダを思わせるキチジローと言う、弱い弱い人物が出てくる。生き延びる為、裏切り、ロドリゴを売り渡し、何度も踏み絵を踏む。後悔しては懺悔をするの繰り返し。
ユダや、キチジローをも許す神、弱い者と共に苦しむ神。信仰を棄てた者こそ救われなければならない者ではないかという逆説。
原作が発表された当時、カトリックからは猛烈な批判があった。信仰を棄てたものは神の敵とみなす様な批判。
いかにも西欧諸国のキリスト教の批判だ。自己を、きびしく律する事こそ神への道、そしてその自己規律から生まれた資本主義精神は弱きをくじき強くあらねばならぬと奮い立つのだ。
監督マーティン・スコセッシはカトリックの司教から原作を紹介されたそうだ。カトリックも今は遠藤周作さんの「弱き者に寄り添うイエス」を認めているのだろう。
さて、この映画の時代から600年。異文化を拒絶するアメリカ大統領、ヘジャブを禁ずるフランス、難民を拒む日本。異文化を拒む偏狭さは何も変わらない。
600年でなく、400年ですよね?
親戚に受験生がいるもので、捨て置けなくて‥‥。揚げ足をとるようなつもりは全くありませんのでお気を悪くなさらないでくださいね。