「ポルノ映画の意味」ジムノペディに乱れる いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
ポルノ映画の意味
それこそ未だホームヴィデオというものが存在していなかった時代に、本や絵ではなく、動いている被写体を鑑賞するという手段は映画でしかない。そしてその表現を尤も端的に熱望されたのが男女の情事である。各映画会社はそれぞれ独自の指向でその類の作品を作ったが、日活がその中で最も有名な会社として記憶に残る。しかし現在、その座はヴィデオからDVDそしてネットへと明け渡されてゆく。勿論、その利用内容も、単に鑑賞するというものから男性の性欲解消へと変化していくのだが、あの時代の社会の希望と不安、混沌と不条理、理不尽がエロティシズムとのマリアージュにより、人間の業を強く現わす“ポルノ映画”というコンテンツをこれ又現在の名のある商業監督により復活させるという趣旨が今回のリブートである。
その第一弾が、「世界の中心で、愛をさけぶ」の行定監督制作である。
約10分に1回のSEXシーンを挟むというルール以外は自由にテーマを設定できるという制作側からしたら願ってもない約束であり、監督自身の力量も否応なしに試されるということでもある。
はたして、本作品のテーマは、『ある男の不器用な愛』ということなのだろうか。それ程の強烈なインパクトの内容ではなく、主人公の映画監督の男の約一週間の出来事を追い、その男を慕う女達がそれぞれの理由で監督との関係を持ってゆくというプロセスである。その描写毎にバックにサティのジムノペディが流れ、官能的なシーンが演出されるというプロットだが、しかしどこか乾いた空気をも醸し出していて虚しさも又漂い続ける。結局どの女と交わってみても一時の性欲を満たすだけのつまらない行為であり、交通事故の後遺症なのか、イくこともまま成らぬので尚更萎えていく。そのジムノペディは同じ交通事故により植物人間と化した女が良く弾いていた楽曲であるからだ。その関係を持った女達の1人の映画講義での教え子が、偶然弾いた曲がそのジムノペディ。しかし急にピアノを止め、窓から男の妻と思しき人影をみたと訴えたところで、男は妻の死期を悟り、急いで後遺症の足を引き摺るように病院へと急ぐ所でfin。
まるで、今流行りの珪藻土足拭きマットの如く、湿気が乾いてゆくような表現や演出である。主役の板尾創路自体にそのイメージがあるのも手伝って、女も又どんどん乾き、枯れていくような感じが見受ける。迸るパッションとかとは真逆の、冷たく怠惰な空気がそこには流れ、悲哀とアイロニーが前面に押し出されている作品なのだ。決して悪くはない。まさに日活ロマンポルノの一つのテーマなのだろう。それは嘗てのATGを思い起こす感想だ。