「ささやかな功績と、大きな勝利」アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
ささやかな功績と、大きな勝利
原題は「Der staat gegen Fritz Bauer(国家対フリッツ・バウアー)」である。ドイツ語らしい剛健な響きと、バウアー検事長の揺るぎない信念が呼応する素晴らしいタイトルだ。
この物語は、現代になるまで秘匿されるしかなかった男たちの物語である。
アデナウアー政権下の戦後ドイツで、ユダヤ人への差別は「違法」となった。ユダヤ人が受けてきた迫害は、一応危機を脱したと言える。
その一方で、ナチスが撲滅しようとしたもう一つの人種「同性愛者」は、未だ「違法」とされていたのである。
「ナチス残党VSバウアー」という構図はユダヤ人迫害の清算ではなく、現在進行形で迫害され続けている「ゲイ」への差別との闘いなのだ。ドイツは「戦後」などではない。今まさに「同性愛差別」との戦争は続いているのである。
バウアーのアイヒマンへの執着は、「ユダヤの復讐」という私怨に変換され貶められ、「過去の問題」として葬られる寸前だったと思える。
しかしながら今を生きるドイツ人民にとって、ナチスが残した「負の遺産」はしぶとく生き続けているのだ。
自分と違う生き方をする他者の自由を奪う思想。それこそがバウアーが真に闘わなければならない「宿敵」だったのである。
ちなみに当時の同性愛に対する法律「刑法典175条」では男性同士の同性愛は禁固刑である。
法律自体の発令は古いが、罰則が厳罰化したのはナチス統治時代だ。
劇中でもバウアー検事長の部下・アンガーマンが禁固刑に対して言及するシーンがあるが、バウアー自身は「ナチスが作ったわけではない」というような意味の事を述べている。
国家や歴史、伝統といった強大な敵に対し、バウアーだって一人では闘えない。彼が味方を欲していたことは、葉巻を勧めるシーンで象徴的に描かれている。
部下に勧めた時は、誰も応じなかった。ドイツ国内の、彼の部下ですら「仲間」とは言えないことが暗に表現されている。
対してモサド本部やユダヤ人が組織する委員会には、彼の葉巻は受け入れられる。
誰がバウアーの味方で、誰がバウアーの敵なのかを、小道具一つで演出する無駄のなさも、この映画の見所の一つと言える。
「ユダヤ人だから」という偏見がバウアーを孤立させ、「ゲイである」ことをネタに脅かされる。これが「平和」だろうか?
バウアーにとって、国家は足枷でしかなく、「不倶戴天の敵」アイヒマンを捕らえる為に頼るべきは政府ではなくモサド、というのは哀し過ぎる事実だ。
国家反逆罪に問われる危険を冒してでもアイヒマンを拘束することに拘ったのは、過ちを正さなければドイツに未来はない、という「信念」だ。
「ユダヤ人」だから強制収容所に送られ、「ゲイ」だから強制収容所に送られた時代。
片方は世界的にも表立って迫害されない「解放」を手に入れたが、もう片方は発覚すれば禁固刑という罰則が待っている。
「ユダヤ人であること」「ゲイであること」を自分の事としてとらえられる、それがバウアーの信念を支える方に寄与し、痛みと共にもがく彼の姿に大きな説得力を与えている。
陽の目を見るヒーローではなかったかもしれない。彼の他にも影のヒーローがいたことは示唆されている。そんな彼らが「信念」の為に体を張ったからこそ、今の世界は少しずつ「多様性」を受け入れようともがいている。
バウアーが国家すら敵にまわして闘った意義は、この映画が制作されたという結果が雄弁に物語っている。
最終的に同性愛に関する刑法が完全に撤廃されたのは、東西ドイツ統一後の1994年である。
バウアーやアンガーマンの闘いは、20世紀の終わりまで続いていたのである。