「恋とは「想い出」かな」ナラタージュ R41さんの映画レビュー(感想・評価)
恋とは「想い出」かな
タイトルの意味はフランス語で「主人公に回想を語らせる映画技法」
そして懐中時計の文字盤の裏にポルトガル語で刻まれた「幸せであるように」
それは、懐中時計を購入した葉山の父へのお礼のメッセージであり、父が葉山を想う言葉であり、葉山がイズミを想う言葉であり、作品が視聴者に向けたメッセージ。
夜遅く会社から電話で友人と話す主人公工藤イズミ。
出産と送付した写真の話に激しい雨が重なり、思わず取り出した懐中時計から「ナラタージュ」が始まる。
イズミが大学時代に経験した恋
ただ、それだけの話
たくさんの人が体験する恋という物語
たくさんの人が気づく「嘘」がつけない場所。
途中で間違っていることに気づくこともあるし、途中で気が変わってしまうこともある。
それは決して叶わぬこともあるけど、決して自分に嘘はつけないと初めて感じる不思議なもの。
恋に関する嘘はとにかく自分を苦しめる。
どうしようもないほど苦しむ。
そしてどんどん傷口は大きくなってゆく。誰かを傷つける。
それでも「嘘」という痛みは消えない。
叶わぬ恋でも勝負しなければ、それは苦しみとなる。大きな後悔となる。
体裁や聞き分けを良くしても、心から湧き上がる想いは消すことはできない。
自分でもどうしていいかわからないこの苦しみは、誰にでも起きる。
動いても動かなくても、本気であればとことん傷つく。
何をもってしても埋めることなどできないほど傷つく。
でも、本気であればその傷はやがて温かさに変わる。
さて、
イズミが高校生の時に転校していった親友
寂しさと孤独
制服のままプールに飛び込んだのも、屋上で自殺を考えたのもそれが原因。
彼女は言う「あの時私はなぜ生きることを選んだのか? 居場所のなかった私を救ってくれたのが、先生だった」
この動機の薄さ。作家は似たような経験があるのだろうが、映像にすると弱すぎる。
逆に言えばその弱さこそ、主人公そのものを表現しているのだろう。
そうであれば、あくまで個人的意見だが、イズミ役をもっと儚く幼く見える役者にした方がよかった。杉咲花ちゃんくらいがしっくりくる。有村架純ちゃんはそのままいるだけで華がありすぎる。魅力的過ぎてその動機と対照にならない。
葉山先生は異動先の高校で、妻を守ることができなかった思いを、イズミに頼られることで自分の自信を取り戻したと言っている。それが本心なのはわかるが、葉山にとってイズミは結局のところ、自分の心の隙間を埋めてくれた禁断の浮気相手で間違いないだろう。
妻ミユキは、葉山の母との同居を拒んだと言っていたが、子供ができなかったことを責められていたのではないかと想像する。日本でよくある話だ。
葉山は基本的に普通以上に分別のある教師だと思われるが、毎日お昼時間にやってくる女子生徒とその気持ちを察すると、男であれば仕方ないと思ってしまう。
男には、誰にでも優しいタイプと好きな人にしかしない優しさを持つ男がいるとすれば、葉山は誰にでも優しいタイプで、それがこの物語の原動力となっている。
卒業式に葉山にキスまでされたのにもかかわらず、その後2年間も音信不通。そして突然の招集。イズミは期待しないわけにはいかない。
小野は付き合うことになったイズミが「小野くん」と呼ぶのを嫌う。イズミの心に燻り続けている葉山のことも、彼女は「先生」と呼ぶ。
出会った時の呼び方を変えることができない女性は結構いるように思う。イズミにとって小野は「小野くん」であり、葉山先生もあくまで「先生」でしかないのだろう。動いているようで動けないままのイズミが見えるが、そのイズミはやはり架純ちゃんではないと思う。
作品のこのあたりが少女から女性への変化の時期を表し、それらが思い出になったとき、いつの間にかイズミは成長しているのだろう。
もしかしたら、会社で徹夜した時間に見た回想によって、イズミのほろ苦い経験がきちんとした「想い出」に変わったのかもしれない。
また、
映像だから仕方ないのかもしれないが、ユズコのレイプ事件は物語上重要な部分だが、割愛してしまうことで取って付けた感が否めなくなったのは残念な点だった。
しかしながら、恋について考えるのは青春時代に必ず起きること。
その表現の仕方は時代とともに変わるのだろうが、この作品のように「新鮮さ」はマストだろうと思った。
ユズコが手紙に書いた「苦しみ 恐怖 絶望 葛藤」という言葉は、すべてこの恋にも当てはまるように思った。