「これは介護の映画ではない」まなざし ariさんの映画レビュー(感想・評価)
これは介護の映画ではない
この映画で描かれているのは宣伝されている様な、「介護の現実」でも、「現代の高齢化社会とその家族」のような社会問題ではありません。
作品を通して一貫して描かれるのは、
家族に憎しみを抱えた一人の人間が「赦し」へ向かうプロセスです。
どんな家族にでも起こりえる普遍性と、
きわめて特殊な条件が出そろった奇抜性が双極する
現代の寓話という印象を受けました。
娘の元にある日、父親が刑務所から数十年ぶりに戻ってきます。
父親は過去に他人を殺していて、娘の家族を崩壊させています。
娘は青春や結婚を奪われ、父に対し憎しみと怨念を抱え生きてきました。
しかし戻って来た父は老いぼれ、動くことも、話すことも意思疎通がまったく出来ない。
そんな異常な制約条件の中でどうやって物語が進んでいくのか?
台詞も、音楽もない演出。
長回しの定点観測のようなカメラ。
キャラクターの前情報はほとんど描かれてはいませんが、
特異な演出に、観客は自然と父と娘の人生に想像を巡らせ、内面の心理に触れ、感情を揺さぶられます。
娘は義務感や少女時代の郷愁から父を世話していたものの、次第に過去の憎しみから逃れることが出来なくなり、父への虐待を始め、父も自ら人生の幕を閉じようと決意します。
最終的破局が訪れる寸前で娘は思い止まり、わずかな光が二人の間に射しこみます。
しかしそこにあるのはハッピーエンドでも、家族の絆を取り戻したとか、そのような劇性の高いドラマティックなものではありません。
光の正体は何なのか?
それには人により様々な解釈がありますし、答えはありません。
その解釈の多様性こそがこの作品の作り手達の狙いなのでしょう。
私はその光の中に「赦し」のようなものを見つけました。
しかしそれは形ある明瞭な「概念」でなく、二人の間に芽生えた、吹けば直ぐに吹き飛んで消えてしまう、微かな希望のカケラような何かでした。
それを文字にすることは憚られます。
その感覚を映画館で共有することこそが映画体験だと思うからです。
この映画を見終わって、「介護の現実を知った」などのレビューは筋違いかと思います。(もちろん取材を徹底したであろうことは明白で、介護技術のリアリズムを追求した映画としてはこれを超えるものはないでしょう。)
例えるならこの映画における「介護」とは、会話の出来ない二人のコミュニケーションツールであり、物語を進行させていゆく潤滑油のようなものというところ。
「介護」はこの映画の全てでもあり、本質ではないのです。