長江 愛の詩(うた)のレビュー・感想・評価
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自分が大河の一滴であることを痛感させられる、あまりに巨大な流れ
全てが長い旅路であり、あるいは、ほんの一瞬の夢でもあるかのよう。それほどまでに長江の雄大な流れは、時間感覚を忘れさせ、物語として受け止めるには己があまりに微細であることを痛感させられる。序盤、本作を正確につかまえようと、正しく解釈しようと努めることは正直辛かった。だが、いつしか、そういう映画ではないことに気づいた。正しさや間違いなど、そんな些細な物差しは通用しない。すべてを飲み込み、幻想さえも奏でながら、流れる。それが長江。途中からは理解することをやめ、大河の一滴になることを受け入れた。そうやって流れにただ身をまかせることで、ようやく楽になれたような気がする。果たして近年、これほど映像に呆然とさせられ、その一部であり続けたいと感じた映画があっただろうか。ある人はタルコフスキーを、またある人はアンゲロプロスの作品さえも彷彿とするかもしれない。スクリーンで見るべき、まさに人生観を変える映画だ。
揚子江
2024年11月2日
映画 #長江 #愛の詩 (2016年)鑑賞
亡き父が遺した詩集に導かれオンボロ船で長江を遡る旅に出た男がミステリアスな女性と恋に落ちて
長江は大きい。そのことがよくわかった映画です
長江クルーズとか行ってみたくなりました
【長江の幻想的な風景を背景に、過去と現在を行き来しつつ謳われる幻想的な物語。】
ー 叙事詩的であり、幻想的なラブストーリーである。ー
・船上、岸辺から映される悠久なる長江の風景が美しい。
・静かな映画ながら、観ていて飽くことが無い。
・良作であると思う。
■雨の日に、心静かに観たい映画である。
<2018年5月24日 劇場にて鑑賞>
哀しい物語
始まりから意味深なシーンが続きますが、時間を遡ってアンルー(安陸)と主人公の父との恋物語を長江を遡りながら詩で表現されてます。また詩に合わせた映像も素晴らしい。
ただ、貧困地域や国家ダム建設の明暗など近代中国の暗い部分を見た感じがします。
以下は勝ってに深読みしてみました。
長江の上流(チベット族?)に暮らしていたアンルーが、ガオ父と初めて会ったのが重慶の上流(宜宾)、チベットは貧困地域だからお母さんが死んで街に出て来てたのでしょう。重慶の下流で彼等は恋に落ちます。
親戚の家にお世話になっていましたが、山峡ダムが出来て彼女の生活が一変。ガオ父とは別の結婚を親戚から迫られ観音閣へ逃げ出し仏門に入れられます。しかし、彼が忘れられず修行を抜けだしガオ父に会おうとします。
しかしガオ父は彼女を迎えることを決意出来ず、彼女は仕方なく勧めらた結婚を受け入れます。住居の村は山峡ダムの下流で、洪水被害の多いところで厳しい生活が続き夫婦仲は良くなかったのでしょう。ガオ父と逢い引きしているのが夫にバレます。夫は生活苦と妻の不忠により自害してしまいます。
彼女は村に居られなくなり、下流の街へ流れていきます。途中、南京上流の萩港で寺の導師にどう生きるべきか尋ねますが答えを出せません。南京で生きる気力を失い入水自殺を図りますが、助かります。
ガオ父は南京下流の港でアンルーが娼婦になっている事を聞き逢いに行きます。一夜を共に過ごしますが、ルーは昔のルーでは無くなっていました。ガオ父は彼女の「沢山の恋をした」という言葉を聞いて嫉妬してしまいます。
上海の港で、ガオ父が彼女見たのは小舟で客引きをしているのが最後でした。彼女はガオ父を追って、上海まで来ていたのですが、何も出来なかったガオ父は後悔します。ガオ父は息子の身体を借りアンルーに逢いに彼女が眠る?長江上流チベット族の安家(アンルーの母)の墓に行くのでした。
ガオチェンが彼女の息子だとしたら、ガオ父と彼女が1989年冬に初めて会い上海まで流れて来た彼女と結婚してから生まれ子だとすると、ガオチェンは20代前半と考えられるので、ガオ父は彼女が上海にくる前に結婚していたと思えます。迎えに行けなかった頃結婚したのでしょうか。
後悔の詩
この映画の主人公は長江と詩である。
河口から源流までの長江の映像が素晴らしい。
上海を出発するシーンなど、むせかえるような潮の香りと、船の油の匂いが鼻腔をついたかのような錯覚に陥った。
道路と鉄道の二重構造の巨大な橋によって南京への到着が知らされると、今度はその橋の下に広がる葦原が映し出される。昔、この街を訪れたときにここを散歩して、若い男女の睦事を目撃した記憶が甦る。
三峡ダムを通過するための閘門で扉が開くシーンでは、チン・ハオが涙を流すが、あの巨大さに圧倒されれば誰もが泣けてくるのではないか。
ロウ・イエ監督作品ではおなじみのチン・ハオ演じる青年が、父親の遺した船で長江を遡り、これまた遺された詩集を読む。
映画で詠まれる詩の内容は、今一つはっきりと理解できないものの、厭世的で、そして自分の人生を悔いている雰囲気が伝わってくる。
映画は、父親の後悔を辿り、自分も後悔と出会い、そして長江を生活の糧にしていた人々の後悔を巡っているように思えた。
一人の女性を愛しきることができなかった後悔。河とともに生きることの出来なかったことへの後悔。長江の恵みを放棄した沿岸の生活者たちの後悔。
人は後悔をしたときに、果たしてどこまで遡ればこの後悔をせずにすむ選択をできたのかについて思いを馳せる。
本当にこれで良かったのだろうか。どこからやり直せば、いま後悔をしていることから解き放たれることができるのだろうか。
何百、何千万人もの流域に暮らす人々の後悔を押し流す大河を描いた「長江図」である。
美しい風景に見惚れるだけで良しとするか、解釈を思い巡らして自分のストーリーを作り上げるか。
映像を讃える記事をよくみかけて誘われた。
意地悪く言えば、ストーリーはよくわからないが、映像はいいということか。
死んだ父の仕事を受け継ぎ、運搬船の船長になった主人公ガオ。行く先々で毎度出会う、不思議な女性アン・ルー。
船内で偶然見つけた詩集は「長江図」、長江のいくつかの港を詠んだもの。次第に、アン・ルーとの関わりに気付くガオ。
・・まあ、ここまでは伝わるが、アン・ルーの正体も、その時々にまるで別人のようになって現われてくる理由も一切の説明がない。
つまり、観たそれぞれが解釈してくれということになる。
で、解釈するに、現実的にいえば、かつて父が出会った何人もの女性を少しきれいな昔ばなしに書き残したのが詩集で、その幻を追体験している話。
幽玄的なことを思えば、長江の水の精に誘われ、迷い戸惑い、源流まで誘い込まれた話。
自然に抗う旅
上映前のトークショーで、ヤン監督の通訳をした方のお話が聞けたのですが、
古くから中国には『長江図』という絵のお題があって、多くの画家が自分自分の『長江図』を残しているそうです。
この映画の中国語タイトルも『長江図』なので、映画を通して監督独自の『長江図』が描かれている訳ですが、絵画を見るのと同じで観た人が思い思いに解釈して欲しいとのことでした。
確かに長江が中国の歴史そのものを表しているとも取れますし、ミステリアスな女性は長江の水の化身のようにも取れました。
上流は清らかな姿で、下流に行くにつれて汚され濁っていくけれど、全てのものを受け入れる美しさは変わらない。
なかでも興味深く感じたのは、長江の下流から上流へと遡って旅をしていくところ。
時間を遡る旅でもあり、自分達のルーツを遡る旅でもあるのですが
でもそれは同時に、自然に抗う旅なのだと感じました。
時間も川の水も止まることなく一方方向に流れている。
そんな自然の流れに抗うに為にはパワーが必要。
オンボロ船が発する鉄の軋む音は、恐ろしくも力強い。ダムもまたしかり。
そんな逆流パワーに感化されてか、船員達も抗うようになる。
若者は現状に抗い、年寄りは悪業に抗う。
たとえ後悔する結果になったとしても、抗うことこそが、良くも悪くも人間らしさのような気がしてきました。
雄大な長江はただ見守るのみ。
川とともに流れてきた時間
映画の上映前に、監督にインタビューをしたという翻訳家のサミュエル周さんのトークイベントがあって
その中で
「これはストーリーを追うという映画ではなく、観て感じるタイプの作品です」とおっしゃっていた
実際に観てみると、なるほど、まさにそのままの映画だった
主人公は、一冊の詩集「長江図」を手に、上海から長江をさかのぼる船乗りの青年
彼は行く先々で、アン・ルーという美女と恋に落ちる
映像には、そんな彼が見た景色と共に詩が流れる
観客は、その映像を見ながら、その時々の長江を感じる
そんな作品だった
これは、全体を通して「長江」にまつわる詩集になっている
だから、これといったストーリーはないけれど
私がそこから感じたのは、川の流れは時間の流れを表しているということ
川をさかのぼる旅というのは、時間をさかのぼる旅であり、青年は川をさかのぼると共に古い記憶が読みがえってくる
その時間の流れの中で、長江には巨大な三峡ダムができ、経済的には発展したけれど
それと同時に
古くから詩に描かれてきたような素晴らしい景観を失うことになってしまった
詩を愛する主人公はそのことに身を切られような悲しみを感じていて、その切なさが伝わってくる作品だった
「映画はストーリーありき」という人は苦手な作品かもしれないけど、詩集、画集、写真集をぼんやり眺めるのが好きという人にはオススメの作品
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