「夏の擬人化」グッバイ、サマー 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
夏の擬人化
思春期のこんがらがった自意識に対して、夏という季節はある種の特効薬として機能する。事実、巷には夏を背景としたビルドゥングス・ロマンがごまんと溢れている。
『グッバイ、サマー』というかなり安直な邦題からも推察できる通り、ミシェル・ゴンドリーもまた夏を下地にした少年の成長譚を描き出そうとするのだが、ここでの夏は単なる背景ではない。
ちょっと前にネットでサボローというキャラクターが流行った。これは明光義塾のキャラクターで、「花火しようぜ」とか「近くでお祭りやってるらしいぜ」とかいって受験生たちをあの手この手で誘惑する。明光義塾としてはサボローを反面教師に夏期学習を促そうと目論んでいたのだと思うが、Twitterでは「サボローめっちゃいい奴じゃん」といった肯定意見が沸き起こった。
ダニエルにとってのテオはまさしく受験生にとってのサボローだ。内へ内へと自閉していたダニエルを、転校生のテオは問答無用で外の世界へ引っ張り出そうとする。テオは面倒臭いことは何も言わない。「俺たちで車作ってどっか行こうぜ!」それだけ。だからこそ破壊力がある。こんなの断れるわけねーじゃん!という。
ダニエルはテオと共に見知らぬ街を「小屋カー」で爆走する。時には警察に絡まれそうになったり、歯科医のオッサンに追いかけ回されたり、散髪屋と間違えて風俗店に入ったり、散々な目に遭いながら。
終盤、ラガーマンの軍団からボールを奪って逃走するシーンはとりわけ印象深い。ラガーマンはマッチョ的な「強さ」の表象であり、彼らからボールを奪うことは、ダニエルが自分の意志でそういった「強さ」を否定することに他ならない。テオと過ごしたひと夏の成果が感じられる素晴らしいシーンだ。
しかしラガーマンからの逃走の最中に小屋カーは大破してしまう。そこには旅の終わりの、あるいは夏の終わりの予感が兆していた。
車も金も失ったダニエルとテオだったが、麓の町で開催されていた子供イラストコンテストで2位を獲り、賞品としてパリまでの往路切符を得る。
ここでダニエルは不思議な光景を目の当たりにする。飛行機に乗っているはずなのに、景色が前へ前へ流れていく。つまり、機体が後ろに戻っている。ダニエルはそのことをテオに伝えるが信じてもらえない。
季節は春から夏から秋から冬へと絶え間なく移り変わっていくが、人はそう簡単には変わらない。たとえ物理的精神的に何らかの成長を遂げていたとしてもそれは微々たるもので、真緑の森が黄色と橙色を経て白一色へと変化する季節のダイナミズムには遠く及ばない。
私はテオが夏そのものなんじゃないかと思う。少年を奮い立たせ、成長をもたらし、そして最後には去っていく夏。
ダニエルはテオと時間を共有するなかで、自分だけが置いていかれてしまうイメージを肥大化させていく。テオは絶えず進み続ける季節である一方、ダニエルは一人のか弱い人間だからだ。
したがって飛行機に関する二人の認識の差異は、そのまま彼らの存在形態の差異だということができるんじゃないか。
ダニエルとテオは家に戻るが、テオの母親は既に死んでいた。怒り狂ったテオの父親はダニエルを遠くの街へと追い出すことを決める。二人の仲は夏とともに終わりを告げた。
新学期初日、ダニエルは学内ヒエラルキー上位の男子生徒にテオのことをおちょくられる。彼は他ならぬテオのために腹を立て、耳打ちをするフリをして男子生徒をグーで殴りつける。もちろん自分の意志で。暴力的な手段に打って出るのはあんまりよくないとは思うけど、自分の意志でそうできた、というのが一番の力点だと思う。
私も学生時代にもっと周囲のサボローたちに流されまくっておけばよかったな、と改めて少し後悔した。