淵に立つのレビュー・感想・評価
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告白と秘密
深田晃司監督作品。何たる傑作。なぜ今までみてなかったのか。
夫と妻と娘のどこにでもいるような家族。夫と妻の仲が冷え切っているのもよくあることだが、それなりにうまくはやっている。ピアノの旋律のように。しかし夫の昔ながらの友人らしき八坂がきてから一転、美しい旋律にノイズが混じるように、崩れる。その崩れ方がどんどん嫌な方向にいってしまうのがつらい。でも間違いなく傑作だ。
物語の構造が完璧で美しい。
本作は「どのように罪を赦せるか」がひとつのテーマになっている。このようなキリスト教的テーマがあることは、作中の母娘の信仰の描写からも窺える。さらにこのテーマを語る上で、「告白」は重要な要素だろう。そしてその対になる「秘密」の概念を夫妻の対置で語っているのだ。
妻の章江は「告白」の人だ。彼女に対峙する人は告白を余儀なくされる。八坂は章江に自らの過去である殺人を犯して収監されたことを告白するし、八坂の息子の孝司もまた父との関係を告白する。この告白は、八坂の場合、不倫に転じて後に娘への暴力へと発展してしまうし、孝司の場合は、罪のフラッシュバックと関係性の破綻に繋がってしまう。告白は赦しにはならないのだ。
かといって夫に属する「秘密」もまた罪なのだ。夫は八坂との関係を妻に秘密にする。孝治の出自についても秘密にしようとする。しかしその秘密は告白によって、秘密のままではなくなり、誰かを救うことにはならない。
このように「告白」も「秘密」も赦しにはならない。夫と妻が対峙し、本音を語るとき、双方が秘密を告白しようとも離婚という破綻につながってしまうのだから悲壮だ。
八坂に暴力を振るわれ、障害をもって生き延びてしまった娘、という名の皆の原罪。彼らは罪から解放されることなく、背負って生きなければならないのがあまりに悲痛だ。
八坂は物語で二度と現れない。関係なく罰を受けた娘の障害が治ることもされない。夫婦関係も良好にならない。孝司も赦せない。あるのは母娘の投身自殺だけであり、横たわることしかできない。
4人が横たわるとき、かつての家族の写真とリフレインされている。あの写真は家族であることを告白すると共に〈声〉を消され秘密を抱えたイメージだ。
彼らがこれからも家族であるために、それには告白と秘密の調律が必要だろう。そして4人が美しい旋律を奏でることを祈ることしかできない。そこに赦しがなくても。
食卓の風景がこの作品の象徴か?
微妙な関係は冒頭の食卓風景のアンバランスで始まる。新聞を見ながら勝手に食べ始めている父親と、祈りをすませて食べ始める母と娘の光景は違和感と緊張感が漂う。家族間の視線は交差しないが、それでいて均衡は保っている。そこに、ある日突然の訪問者が加わり、に均衡が崩れる。ホームドラマの和気あいあいの食事風景と全く違う。家族とか食卓で象徴されるうわべの円満さを否定するような監督の思惑を感じるシーン。後半、テレビカメラで娘の様子をチェックするシーンでは、家族の食卓の崩壊を象徴する。
全編通して、冷徹で緊張感を隠さないカメラワークと、通じる会話や視線の少ない演出。後味が悪いので、みんな息を吹き返してくれと祈りたいエンディングだった。
秘密と告白。意外に簡単に長年の秘密が告白される。墓までもっていかないのかと拍子抜けする自分がいた。
出演者はいずれも適役で名演だった。なかでも筒井さんの前後半の違い、特に後半のだぶついた腰回りだけで年月と苦労が滲み出る演技で、彼女の役者魂を感じた。ふとシャーリーズ・セロンの出演作を思い出した。
贖い
とても宗教的な内容だと思った。食前の祈り、日曜の教会礼拝、など具体的な場面もある。右の頬を自ら打つのも、関係ありそう。右の頬を打たれたら左の頬を差し出せってやつ、聖書の言葉をなんとなく覚えているが、どんな意味だっけ? よくわからないので、ちょっと検索してみた。右頬を打たれるということは、打つ方は左手で打つか、右手の甲で打つわけだが、当時のユダヤでは手の甲で打たれるのは大変な侮辱だったそうだ。そうすると、人前で侮辱されてもやり返さず、左頬を差し出すなんて、今もできることではないが、当時でも考えられないことだろう。前段として、ユダヤの立法で被害を受けた際の報復について、「目には目を、歯には歯を…」があり、これは受けた分と同じだけ返すべき、と過剰な仕返しを戒めているものだ。人はおおよそ、やられたらやり返したくなるもので、恨みや憎しみをそうそう水に流せない。キリストはそれを流せと言うわけだ。そして、自分が実践し、磔刑を黙って受け入れた。映画では自分で頬を打つから、もしかしたら違う意味があるのかもしれないが、憎しみや怒りを相手ではなく、自身に向けている行為に見えた。なので、やはり宗教的な行為に思える。
八坂は刑務所に入ったが、利雄は罪から逃れ、自分の行いについて反省もなく、何も痛みがない。妻の章江に自分が共犯と告白するのも、娘が自分の犠牲になったように言うのも、章江への配慮が欠けている。八坂も冷たいものがあるが、利雄の方がもっとずるくて冷たいんじゃないだろうか。罪を償っていない利雄は、大事なもので贖わなければならない。目には目をもって。ラストシーンの利雄の顔のアップは、奪われる瞬間を表しているのかもしれない。
白いシャツをピシッと着て、丁寧な口調の八坂は、穏やかで聖職者のように見える。オルガンもさらっと演奏できちゃうし、信仰のタイプを猿と猫に例えるところなど、知的でまるで教会の説教を聞いてるみたい。これが地なのか、それとも装っているだけなのか。結局、最後まで真の姿はわからず、蛍の事故に関与しているかも不明である。彼は、利雄に報復したかったのか。章江と蛍を彼から取り上げたかったのか。私は、八坂は人の意向を読み、望まれるように反応する、カメレオンのような人間のように思う。八坂に関わった人が、自分のイメージを彼に投影するだけで、八坂自身は空っぽ、そんな気がする。
浅野忠信、筒井真理子、古舘寛治の演技は素晴らしい。仲野太賀も良かった。そして、誰よりもすごかったのは、動きが制限された中で表現した、8年後の蛍役の真広佳奈ちゃん! その後、俳優の活動をしてないようだけど、彼女の演技をもっと観たい!
BS松竹東急の放送を録画で鑑賞。
映る家族
家族を描く日本映画は沢山ある
この映画は前半と後半で全く同じだが、全く違う家族が描かれる。
前半で映る写真を撮る3人の家族と1人の男は、ラストで全く違うものにみえる。
淵に立つ崖っぷちの家族はこれからも変わり続けるのである。
映画を見終わった後も話は続いていく、映る物の面白さや怖さ、それが自分の人生にも関連しているように感じさせる映画だと感じた。
シーツのシーンはどのホラー映画よりも怖さが残る。
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自宅(CS放送)にて鑑賞。後を引くビターな物語で、オルガンの音色がオープニングとエンディングで用いられている。あくまで写実的で現実のみを写した前半と対照的に八年後となる中盤~(特に)後半にかけて、幻想的なショットが増え出し、やや間延びした感がある。特に水中からのショット以降は微妙。起承転結で云えば、いきなり八年後に舞台が飛ぶ「転」がピークを成し、展開を含めやや尻すぼみな印象で残念な思いが残る。唐突に迎えるラストに限らず、詳細を意図的に省略したと思われる作りをどう捉えるかで評価が分かれる。65/100点。
・突き放した様な遠景が多く、その分表情が読めるアップが意味有り気に映える。食事時に交わされる犠牲と罪を説く蜘蛛のエピソード、しがみ付く猿と銜え運ばれる猫と暗喩的に宗教論がちりばめられており、深読みが出来る内容となっている。
・浅野忠信演じる“八坂草太郎”をメインに書くと態度を一変させる際、露呈させるアンダーシャツと幻想に登場するシャツの色、篠川桃音の“鈴岡蛍”を初めて見掛けた際に後ろ姿で揺れるランドセルと発表会用のドレス、“鈴岡章江”の筒井真理子と赤い花の下での初めてのキスシーン等、赤色が先に起こる不吉な暗示であり、不気味な記号として用いられている。
・潔癖症に陥った八年と云う歳月を10数キロと云う体格変化で表現した“鈴岡章江”の筒井真理子、“八坂草太郎”の不気味な微笑みと存在感、どこにいても所在無げでありつつ含みのある古舘寛治の“鈴岡利雄”、一見礼儀正しく誠実乍ら本心が見えない父親の一面を彷彿させる太賀の“山上孝司”と作り込まれたキャラクター設定とそれに応える演者達により本作は成り立っている。
・鑑賞日:2018年2月24日(土)
古館寛治
鈴岡利雄(古館寛治)とクリスチャンの晃江(筒井)の夫婦には小学生の娘・蛍(篠川桃音)がいる。八坂(浅野)が突然訪問し、突然の雇い入れ。誰にでも敬語を使い、親子にも溶け込めた感じの八坂。蛍にもオルガンを教えたりする。過去に犯した罪や収監されていたことも正直に話す八坂に対し、晃江は次第に好感を抱き口づけを交わす仲に・・・蛍が友達のところへ行くと言って外へ出てから事件が起きた。蛍が高架下で血を流して倒れていて、近くに八坂が呆然と立っていたのだ。
8年後、蛍は障がい者となっていて、工場も若い山上孝司(太賀)を雇っていた。仕事中、孝司が突然、「八坂は父親です」と告白する。折しも、鈴岡夫妻は8年前に何が起こったのか知りたいがために、あの日以来行方不明となっていた八坂のことを興信所に探してもらっていたのだ。
利雄は晃江に「八坂の共犯者は俺だ」と告白する。蛍が障がい者となったのも、不倫してた晃江と共犯者である自分に対する罰だったんじゃないかと語る。そんな時、興信所から八坂らしき男を発見したと報告があり、どうでもいいと思いかけてた鈴岡だったが、孝司を連れて彼を探しにドライブに出かけるのだった。晃江は「孝司くんを連れてきたのは、八坂の目の前であなたを殺すつもりだったから」などとうそぶく。しかし、見つけたそれらしき男は八坂とは全くの別人。晃江は蛍を起き上がらせて一緒に橋の上から飛び降り自殺。孝司とともに利雄は2人を救助するが手遅れ・・・
蛍を負傷させたのは八坂だったのかどうなのかも不明瞭のままだし、最後に利雄は人工呼吸をするものの、蛍、孝司は助からなかったのかどうなのか?晃江は息を吹き返していたのはわかるのだが・・・
無表情な浅野が適役!!
初っ端から危うい雰囲気がプンプンしていますが、浅野の無表情な感じが役にぴったり合っていました。妻がモーションをかけすぎて、「ウォーキング・デッド」の思わせぶりな妻を思い出しました。後半は仕切り直して盛り上がるという事もなく、息子が来たのは無理がありますが、それをやるなら奥さんに言い寄るまでがセットだと思います。ラストはシュールなギャグかと思いました。全員が一行で説明できるくらい、キャラクター描写が薄いです。
悪魔的な八坂が魅力
この映画の見どころは個人的には八坂が出てくる前半である。
清潔な白いシャツを第1ボタンまでキッチリかけて、すらりと姿勢が良く敬語を使う。
それでいて不穏な空気をまとってミステリアスな正体不明の男。
本性をなかなか見せない八坂だが突然、遊びに行った川辺で利雄にドスの効いたオドシをして露呈していく。
偽りの白いシャツは薄汚れていき、ついには「原罪」のように真っ赤なシャツを露わにするシーンは本当にシビレます。視覚的効果バツグン!
魅力的な八坂に比べて、周辺の夫婦二人は冴えない。
悪魔のように魅力的な八坂にヨロヨロする奥さん、教会に通う敬虔なプロテスタントのわりにちょっとチョロすぎじゃないですか?
いつも長い髪をおろして、旦那とも上手くいってない感じで欲求不満だったのかな。
簡単に八坂に唇を許してイチャイチャ。それなのにいざとなると小娘のような拒絶。
旦那の利雄にいたっては、八坂じゃないけど「本当に小せえ男」で、娘がああなったのも自分たちの贖罪のような言い草。
妻に向かって「八坂とできていただろう」とか
娘の事件があってから本当の家族になったとか言う、娘の介護は妻任せの手前勝手な小せえ男。
なかなか本心を見せない八坂だが、奥さんに打ち明けた八坂ルールの罪の話し。川辺で利雄にぶつけた不満は真実だろう。
罪深いのは八坂だけでなく、殺人の刑に服することもなく身勝手な言葉を吐く、利雄も同等だと思う。
八坂を探しても意味がない。利雄は初めから殺人(幇助)の罪を償わなければ終わらないからだ。
その罪の償いは二人の子供たちの犠牲で終わったのだ。
(八坂の息子もホタルも死んだのではないかと解釈している)
純粋無垢
人が大きな不幸に見舞われた時に思う罪と罰。あの時に罪を犯したから、罰となって返ってきたのではないか。もしかするとバチがあたったのではないか。
約束を守ることを命や法律よりも大切にしていたという八坂は、ある意味「純粋無垢」の象徴なのかと思いました。真白な出で立ちで現れたのも「純粋無垢」を表しているのかと。
鈴岡が無意識下で感じていた「純粋無垢」な存在に対する「罪」の意識が、八坂という姿になって「罰」として現れ、蛍という「純粋無垢」な存在を傷つける。戒めが薄れた現代社会に対する寓話の様な作品でした。
面白くなかった
不気味さ、筒井真理子さんをはじめ、俳優陣の秀逸な演技は素晴らしかった。
だけどなぁ…監督が男性だからなのか?
非現実的なんだよ設定が。
年頃に差し掛かるお嬢さんがいる家庭で、父親自らが無防備に住み込みで仕事なんてさせるか?とか、そのお嬢さんが完全に年頃になり、ましてや自分の意思を伝えられず身体にも障害があるのに、部屋で同じく年頃の男と2人きりにするか?とか、自宅で仕事する夫がいて、家の中で浮気するかよ、とかね。
あの夫婦の思慮が足らずアホすぎるせいで、ストーリーがリアリティに欠けていて、恐怖より圧倒的な不快感と苛立ちに支配されてしまった。
罪の無い子供たちに救いの手を、罪深い親たちに赦しを
昨年公開された邦画の中でも特に高い評価を得た一作。
難解で見る者に考えも感じ方も委ね、決して万人受けする作品ではない。
結構覚悟して見たが、全てを理解出来たかとは別に、なかなかにじっくりと見応えがあった。
深田晃司監督の作品は恥ずかしながら本作が初めての鑑賞になるが、その深淵な語り口は見事だ。
小さな町工場を営む鈴岡家。幸せな家庭とは程遠いが、平淡で穏やかな生活。
ある日、父・利雄の旧友という八坂が住み込みで働く事になる。
突然の事に妻・章江と娘・蛍は困惑…。
八坂役の浅野忠信が登場しただけで何処か危険な雰囲気を感じる。
真っ白なシャツ。
腰低く、丁寧な言葉遣い。
実は八坂は前科者。
それを告白し、今は更正して誠実に生きる八坂に、蛍はオルガンを教えてくれる優しいおじさんと慕い、章江は親しみ以上の感情を抱く。
が…
皆で行った川遊びで、本心か冗談か、利雄に言い放った暴言。
別のあるシーンで、脱いだ作業着の下の真っ赤なシャツ。
八坂の中の何かの箍が外れた。
忌まわしい事件を起こして、八坂は姿を消す…。
いきなりだがここで、ドン引くくらいの自分なりの解釈を。
公式サイトやWikipediaなどでもそう説明されてるので、これは絶対間違ってる解釈だが、
八坂は本当にこの家族を破滅させたのか…?
内に秘めた欲と狂気でこの家族に一生消えない暗い傷痕を残した事はまず確か。
だが、しかし…、解せなかった点が二つ。
お互い邪な感情を抱いた章江と八坂。が、土壇場になって章江は八坂を拒絶。
この時章江はかなり強く突き放したのにも関わらず、八坂は「このクソアマ!」なんて言って(幼稚な発想でスマン…)殴るなどしなかった。
その抑えきれない衝動を蛍に向けた事になっているが…
蛍を怪我させたのは八坂だったのだろうか。
状況やその時の彼の感情から見ればまず間違いない。
が、ひょっとしたら怪我した蛍の傍にただ佇んでいただけかもしれない。
八坂が蛍に乱暴したというシーンは描かれない。それを思わせる“後の”シーンがあっただけで、勝手に忌まわしい何かがあったと思い込んでるだけかもしれない。
一方的に八坂を拒絶し、憎み、自分たちで勝手に苦しみと悲しみの泥沼へ…。
…と、まあ、これは本当に愚かで馬鹿な自分の解釈なので、ご勘弁を。
8年後。
蛍は事件の後遺症で車椅子の障害者に。
章江は蛍の介護に追われ、異常な潔癖症に。
利雄は探偵を雇い八坂を探していたが、何の手掛かりも掴めず。
もはや家族とは呼べないこの家族に、従業員として働く青年・孝司の存在が、静かな荒波を立てる…。
孝司はあの忌まわしい八坂の息子。
が、生まれて一度も父に会った事は無く、父に愛情と呼べる感情は抱いていないが、今ここで働いているのは、ちょっと父を知りたいという興味本意から。
彼は潔白だ。
彼の告白を機に、利雄と章江の心の闇があぶり出される…。
八坂とは共犯者であった事を告白、妻が八坂とデキていた事も知っていた利雄。今の蛍は自分と妻への罰だと言う。
昔聖母の如く迷える八坂に救いの手を差し伸ばしたのに、罪深い八坂に触れたせいで穢れ、その穢れた手の汚れを落とそうと必死の章江。終盤八坂と思われる男の居場所が分かり、孝司を同行させたのは、八坂の目の前で孝司を殺す為…。
二人共人の親なのに、何故こんな事が言える?
八坂は忌まわしいが、この二人こそ罪深い。
「俺、殺されてもいいッスよ」
子供に親の罪は無い。
子供にこんな事を言わせるな。
章江は蛍と共に終わらせようとする。
子供を道添にするな。
“人違い”は滑稽な迷走。
迷い、疲れ果て、行き着き足ったのは、絶望の淵。
最後の最後、罪深い親に一筋の赦しが。
どうか、子供に救いを…。
親の罰
色の中では、僕は白色が一番嫌いである。
白色というのはとかくキレイ過ぎる。
自身を真っ白く着飾るのは、私は清廉潔白ですよと
殊更にアピールしているようで嘘臭くて信用ならないし、
でなくても「汚れる余地がある」という不安感を覚える。
(まあ学生時代の約2年間、真っ白な服を着て
真っ白な部屋にカンヅメで、早朝から深夜まで
独り黙々作業し続けたのが若干トラウマなのも大きい)
なので、浅野忠信演じる八坂には、登場時から
不穏な空気を感じずにはいられなかった。
綺麗過ぎる白シャツと作業着、綺麗過ぎる言動。
主人公やその妻子に優しく丁寧に接する姿を
見ても、どこか底が知れず不気味なのである。
その白々しいほど整った身なりが変化し始めるのは、
川の淵で主人公・利雄に侮蔑の言葉を吐いてから。
あそこから彼の言動は少しずつ助長し始める。
それに合わせるかのように作業着には汚れが
目立ち始め、終いには彼はその作業着を脱ぎ、
強い衝動を連想させる赤色のシャツをあらわにする。
* * *
いや、僕は彼が最初から赤い本性を隠していたとは思わない。
最初の彼は本気で更生しようとしていたんだろうと思う。
けれどきっと、利雄の妻子と親しくなるにつれ、自分が
(あんな小さな男の為に)犠牲にした年月の重さを
思い知らされ、怒りを蓄積させていったのだと思う。
そして、もう決して手に入れられないもの、
他人に取られてしまったものを叩き壊したい
という衝動に突然駆られたのだと思う。
* * *
まあ、そんな行為を正当化できる訳もない。
僕に言わせれば親の罰はあくまで親の罰で、
その罰を子どもが背負うなんてのは間違ってる。
利雄はテメエ可愛さで妻子を八坂へ差し出したようなものだ。
おまけに娘の不幸は自身が招いた事態だと自覚していながら、
「事件のお陰でやっと家族になれた」だと宣うなど、
もはや愚劣ですらある。どうしてお前が罰を負わず
妻子が苦しむのかと横っ面を張り倒したくなる。
一方で八坂が罪を犯したばかりに、その息子は
復讐の為にお前を殺すと脅される。
「いいっすよ、自分、死んでも。それで気が済むんなら。」
そんな台詞を息子に吐かせる立場に追い込んじゃ駄目だよ。
映画の最後に、利雄は全てのツケを支払う羽目になった。
だが、それよりもっと大きなツケを支払ったのは周囲の人々だ。
娘が泳ぎ去る幻は、彼女がようやく自由になれた
姿だったのだろうか。それが唯一の救いだろうか。
中盤の4人で寝そべる姿がそのまま写真黎明期の
遺体記念写真のようになってしまうカットは、
悲劇と言うべきか皮肉と言うべきか。
* * *
映画のタイトルにある淵とは何だったのだろう。
自制を失い衝動的に罪を犯すその境界?
平穏な日常からドン底へと落ちるその境界?
気付かない内に人は淵のスレスレを歩いているの
かもしれないし、あるいは思いもよらぬ誰かから
手を引かれて、淵に引きずり込まれるのかも。
八坂はきっと映画の初めからそういう淵に立っていて、
そして最後、同じ淵に立ったあの妻を嗤ったのだろう。
* * *
相当に救いの無い物語なので万人にオススメは
できないが、静かで不気味な緊張感が充満する
サスペンス作として見応えがあった。
ただ、現代的であれ全時代的であれ、何かしらの
テーマが心に残る作品というよりは、人間心理を
主軸としたミニマムなサスペンス作に終始した
印象が拭えず、その点が不満点といえば不満点かな。
雰囲気が似て感じた『葛城事件』と比較して
そこでやや落とすが、観て損ナシの3.5判定で。
<2016.11.19鑑賞>
家族
この映画の主題は、
ある人の罪を、その家族が背負わなきゃならないのか、って事なんじゃないかと思った。
母グモは、子供のために犠牲になることを美しいと言う。
子供は、母グモを犠牲にしてまで生きたくないと言う。
父グモはどうなのか?
父グモである利雄は、殺人事件の共犯者でありながら、自分だけ罰を受けなかったのみでなく、妻と娘に囲まれて客観的には幸せに暮らしていたが、彼なりには罪の意識に苦しんできた。
だから、母グモが共犯者と不倫をするように仕向けることで、自分の罪の意識を軽くした。
そのせいで、共犯者は子供を暴行し、子供が重度障害者になってしまった。
父グモは、母グモと子供が不幸になることを、犯罪者である自分に対する罰だと言い、
自分のせいで娘が重度障害者になってしまったことを「安心した」とまで言う。
罪の報いを受けることで、自分の罪が軽くなった気になるのはわからなくもないけど、
それは、本来なら無関係なはずの家族が背負わなければならないのか?
始終、他人事のように飄々としている利雄に、胸糞悪くなる。
しかし、最終的に母親は子供の命を奪おうとし、
子供は、母親を犠牲にしても生きようとする。
父親は、どこまでも傍観者…
罪と購い
2016年最後の鑑賞作品を飾るには余りにも深い内容であった。まるで明治時代の私小説のような文学性が高いストーリーである。
夫の結婚前の殺人共犯の罪。男を愛してしまう妻。しかし、すんでのところで交わりを断られた男は、あろうことかその夫婦の年端もいかない小さい娘に暴行を加え、死ぬ手前の身体的麻痺に追い込んでしまう。そう、総てはすんでの『淵』の所で家族はしがみつく人生を男に背負わされてしまうのだ。後半出てくる男の息子も又、そのすんでの家族と共に父親の罪の意識に苛まれる。こうしてまた男のせいで『淵』に立たされる人間を産んでしまう。生と死の淵を弄ぶかの様に男の亡霊が家族を追い詰め、淵から踏み外す妻。娘を道連れに心中を図ろうと淵から堕ちた母娘は、しかし一歩で又助かってしまう。しかし娘はその死からこちらに戻るのかそれとも堕ちていってしまうのか、父親の必死の救助と共にエンディングを迎え、その顛末を見据えることは観客はできず、淵を漂い続ける。そんな重厚な作品だ。
浅野忠信の切れている演技もさることながら、やはり古館寛治の煮え切らない演技は大変秀逸であり、注目していた役者としてとても満足する演出である。
哲学的なメッセージも含めた本作品の深遠な闇が、まるでコールタールの様に纏わり付き、引き摺られるようなそんな気持ちを深いため息と共に映画館を後にした内容であった。
こわかった。
筒井真理子がよかったです。
8年前の隠し切れない色香と、
8年後の罪悪感と介護疲れが前面に出た容貌とのギャップたるや。
すでに50代半ばで、どんだけ色っぽいねん、震えるわと思いました。
河原でヤサカと連れ立って、夫と子供が見えない場所へ行くわけですが、
絶対なんかあるやろという妖しい予感が漂っており、
ヤサカの腕がアキエに伸びた瞬間、ほらみたことかーと心の中で叫びましたよ。
怖い映画です。
ヤサカと共犯者のトシオがどういういきさつで誰を殺したのかがわからないですが、
まあ、それは主題からそれるわけですから、なくてもいいのですが、
ヤサカの真意が全く見えないことが怖くて怖くて、震えます。
もしかするとヤサカは本当のことしか言っていないかもしれません。
もしかするとトシオへの復讐に来たのかもしれません。
蛍は何をされたのでしょう。
もしかするとヤサカではないかもしれません。
でも状況からして十中八九、ヤサカが手をかけた考えるのが自然でしょう。
ヤサカの息子であるコウジくんがトシオの工場に働きに来るっていうのは、
やりすぎちゃうんかいと思いました。
わたしは、家族とか夫婦とか親子とかに存在するといわれる愛ってものは、
おおよそハリボテだろうと思っています。
なので、いまさらいわれなくても知ってるよ、という気持ちで見ていました。
冒頭からトシオとアキエと蛍の食卓は、すでに心が離れているな、
と思ってみていたのですが、どうやらあれは幸せだった家族の1コマと
捉える方が多いとか。
そっか、私には娘出産後はセックスレスになり、既に関係が終わっている夫婦に
見えていたのだけど、見たいものに近づけて解釈しているのですね。
それはさておき、夫とは没交渉であり、自然とあった信仰をアイデンティティの
柱として自認しており、それ以外の汚い欲望などはあまり見つめないようにして
普通に妻で母であることに納まっていたが、ヤサカに気を許し、秘めていた欲望が
もれ出てくるわけです。でも、一線は越えなかった。
アキエの中途半端な欲望の発露と拒絶が、ヤサカの欲望を蛍への暴力(?)へと
転嫁させる一因になったかもしれない。一人娘の前途が大きくゆがめられたことの
悔恨で、アキエは病的に潔癖症になる(男が汚いと思っている?)。
トシオはヤサカが蛍に何かしたから、はっきりと彼を憎めてちょっと喜んでいるようにも見えました。
自分の罪を隠してもらっている罪悪感の方がより居心地が悪そうでした。わかるかもと思いました。
隠したい気持ちがあるからこうじくんをどう捉えるかも違う訳で。
いろんな解釈ができて、重層的と言いましょうか。
とにかく不穏に震えつつも見入ったのでした。
ラストは蛍とこうじくんだけが死んで終わっている夫婦だけが生き残ったのだとすれば、ちょっと酷すぎよと思います。どっちかわからなかったのですがね。
淵レベルじゃない
妻にそっけない夫と寄り添おうとする妻。
旧友が住み込みで働く事すら相談しない夫に腹を立てる妻。
子供が旧友と仲良くなり、妻は旧友と会話を重ねると共に、家庭内の空気も明るくなる。
重苦しい空気が軽くなる。
理想の家族の形に見えてくる。
そして事件が起こると空気はもちろん変わる。
そして最初と真逆になる。
明るい夫と笑顔も見せずやつれる妻。
この真逆になる流れがとてもリアルだった。
家族の空気なんて簡単に変えられる。
何かがきっかけで簡単に変わる。
大きな事件はなくとも新しい風を入れることで家庭内の環境は変わる。
そう感じさせられる作品だった。
家庭の絆の脆さとどこか危険な香り。
そしてあの曲が頭から離れない。
この期に及んで
深田監督『歓待』『さようなら』も面白かったけど、本作、肚を据えた感じがして、すんごく面白かったです。
家族とか、友情とか、そういう共同体を一切信じてない感じが振り切ってて良かったです。
一切信じてないというより、信じてないのに共同体が成立しているように振る舞う気持ち悪さ…例えば古舘寛治さんのセリフ「おれたちは本当の家族になれた」…などを描いているのが面白かったなあと。
古舘寛治さんホントに気持ち悪かったですが、家族のかすかな絆を探る太賀さんは気持ち悪くなかったです。彼は本気で探しているわけだから。そういう強弱が良かったです。
妻役の筒井真理子さんが走り出すシーンが印象的で。あそこは、子どものためでも夫のためでも信仰のためでもなく、ただ単に好きな男が見つかったかも…と走り出す。恋のせいでどん底に落とされているのに。
この期に及んで、恋かよ。と思いました。
その筒井真理子さんが美しかったです。アンナ・カレーニナとか、『浮き雲』のゆき子とか、そういう古典を彷彿とさせるような美しさでした。
心に響かなかった・・・
「寅さん」が出演者全て「善い人」なら本作は全て「悪い人」か。(蛍は別)
それがテーマかも知れぬが・・・救われない後味、特にラスト。
心に響かなかった理由
(1)予測不可の展開もあったが先が読めるシーンが所々あり残念
(ミエミエの伏線布石はあざとい)
・序盤蛍の後ろ姿をジッと見る八坂・・・この娘に何かやる
・必要以上に八坂に近づく章江・・・この二人に何か起こる
・孝司が描く蛍の画の妙な色使い・・・蛍に何かやる
(2)共感=「あるある」「わかるわかる」だがそれが無い
・いくら夫の旧友とはいえ現れた日から同居させる?
・いかにも「ムショ帰り」の所作(歩き方、礼、食べ方)は不自然
・八坂似の写真、鮮明なのに後姿だけ?せめて横顔くらい撮れるハズ
あげく追跡しピアノを教える姿までソックリの演出はやり過ぎ
(3)そもそも八坂(と利雄)の前科内容は?それによって二人の見方がかなり違ってくる。(利雄の「足を押さえていただけだ」など無意味なセリフ)
※8年後の蛍役の女優に障害者だけ演じさせず章江の空想シーンで健常な姿を映したのは監督の気配り? などと余計な気を回させる演出不要
※観賞後書店で原作を見かけたのでラストの4,5ページサッと目を通したが
映画とは全く異なる展開にビックリ!
この通りのほうがまだ良かったのに、と感じたがもちろん作者は了承したのでしょうね・・・
絶望の淵。
一見平凡で平和に暮らしていたはずの家族が、ある男の出現
によって徐々に破壊されていく。冒頭から居心地の悪さだけ
強調された不穏な描写が続くが、男の素性が明らかになった
瞬間に見せる浅野の表情がエラく怖い。夫が事情を明かさぬ
まま勝手に居候させることに異を唱える妻も娘も、やがて男
の礼儀正しく親切な術中に嵌り、その後の不幸を呼びよせる
ことになるのがやるせない。もし自分が妻の立場だったなら
どうしただろう…と後悔先に立たずの精神疲労と老いぶりが
見事な筒井の化け姿に背筋が凍る。これは耐性ホラー映画だ。
男の目的は最初からそういうことだったのだろうか、或いは
元々の潜在的要素なのだろうか、様々な思いが脳裏を巡って
どうかこれ以上…と思う後半も意外で容赦のない展開が続く。
観客まで絶望の淵に立たされてしまう不条理を味わえる作品。
(夫の過去、妻の秘密、何をどうすれば良かったんでしょうか)
筒井真理子を観る映画。
重い。
しかも観終わった後、
消化するのに
かなり時間がかかるくらいに
重い。
誰も救われないエンディング。
間違っても気軽に
観に行ける映画ではない。
「怒り」のレビューにも書いたが
「怒り」は
「観て欲しい」とは思えない映画だったが
「観てよかった」と思える映画だった。
「淵に立つ」はどうだろう。
正直、どちらでもない。
でも心の中の
奥の方をぎゅっと
握りしめられる
そんな映画だった
オープンングの
オルガンの音と
メトロノームの音。
その音に合わせての
タイトル表示。
オルガンは
その音色と主に
鍵盤を押す打鍵音まで
聞こえてくる。
そこが妙に生々しかった。
浅野忠信。
この人の演技って
上手いんだろうか?
下手ウマっていうか。
感情を殺したような演技。
抑揚もあまりなく
棒読みに近い。
でもそれが
八坂を表しているのか?
白と赤の対比。
言わんとしてることは
わかるのだが。
ちょっと露骨過ぎないだろうか?
古舘寛治。
この人の声がすごく好き。
台詞回しも好き。
リーガルハイでの
頼りないコメディっぽい演技しか
知らなかったから
驚きつつ楽しめた。
太賀。
この人の演技もすごく好き。
だけど、どうしても
「ゆとりですが何か?」
のうざい後輩役がチラついて(^^;
最後まで良い奴で安心した。
もし、八坂から送り込まれた
第二の刺客だったらどうしようと
最後までハラハラした。
利雄ににいきなり
平手を食らうシーン。
監督の真意に関係なく
思いっきり爆笑してしまった。
多分演出の真意とは
違うんだろうけど。
観客4人全員爆笑してた(^^;
そして何と言っても
筒井真理子。
この映画はこの女優さんに尽きる。
かなり以前から
ドラマやCMでお見かけしていては
「綺麗な人だなぁ」と思ってた人。
この人が出てなかったら
この作品はあと
星2つくらい少なかった。
妖艶な魅力はさることながら
カメレオンばりの役作りには驚いた。
3週間で体重を13キロ増やしての
時間経過の表現。凄い。
「あれから8年後・・・」
なんてテロップは全く必要なかった。
家族みんなで行った川辺。
八坂と二人っきりになった
森の奥でのキスシーンは
今までの映画のキスシーンの中で
トップ3に入るくらい
リアルで綺麗で、猥褻だった。
後ろから八坂が
躊躇いながら近づく。
一瞬ビクッとなるが
瞬間的に八坂を受け入れる章江。
このシーンがひどく生々しくて
今も脳裏に焼き付いて離れない。
映画は最近見始めた私。
基本はテレビ大好きの私。
そんな私にとって
いつもテレビに出てた
気なる俳優さんを
スクリーンで発見できる。
そんな喜びを再確認できた
映画でした。
浅野忠信ではなく
筒井真理子を観る映画です。
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