「三者がそれぞれに立つ罪の「淵」」淵に立つ talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
三者がそれぞれに立つ罪の「淵」
〈映画のことば〉
8年前に、蛍が事故に遭って、ようやく俺たちは夫婦になれた。
八坂と利雄との間には、殺人事件の主犯・共犯となるべきどんな過去があったのか、本作は明示的には描いていなかったようでですけれども。
そして、蛍が車イス生活を余儀なくされた原因の事故について、八坂がどんな関係に立つのも明らかにされないまま、八坂が鈴岡一家の前から忽然と姿を消してしまいます。
それが、利雄に対する復讐(彼が鈴岡家を訪ねた本懐)を無事に遂げたからなのか、利雄に対する蛍を手にかけてしまったことの罪の自責なのか、蛍を偶然の不幸な事故に遭わせてしまったことの責任感・贖罪の気持ちからなのか。あるいは、単なる第一発見者に過ぎないのかー。
いずれにしても、蛍が遭った(遭わされた?)「事故」は、鈴岡一家の中に、やがて大きく芽を吹くことになる不幸の「落し種」になったことだけは、間違いがなさそうです。
結局のところ、殺人を行い、被害者の遺族には贖罪の手紙を書き続けている八坂にしろ、八坂の犯行時に、(どんな理由からかは本作の描くところではなかったと思いますけれども)お世辞にも軽いとは言えない加功行為で八坂の犯行に与(くみ)したことを秘めて章江との結婚生活を営み、蛍との生活を送ってきた利雄にしろ、人妻でありながら八坂に不倫の感情を抱いた章江にしろ、主要な登場人物のそれぞれが、それぞれに立っていたのは、それぞれの罪の「淵」ったことは、間違いのないことのようです。
そして、少なくとも敏雄、章江について、かつて自分が蒔(ま)いたタネを自分で刈り取る結果になったという点では、巡る因果の重さ、恐ろしさを描いて、余りがあったというべきではないでしょうか。
そう考えてみると、本作は、充分な佳作だったと言えると思います。
(追記)
〈映画のことば〉
おめえは、本当に小せえ野郎だな。
そんなに俺が怖いか。
俺がクソみてえなところで、クソみてえな奴らの相手をしているときに、おめえは女を作って、ガキまで作ってよ、どうなってるんだ。
その立場が、何でおめえで、俺じゃあないんだ?
…って、冗談だよ。冗談。
幼少の蛍に、手際よくオルガンを指導することで章江の信頼を得るなど、まるで染み込むように、静かに鈴岡一家の中に入り込んで行く八坂のその姿―。
八坂は、どこでオルガンの腕を磨いたのでしょうか。
(服役中でないことだけは、間違いがないかとは思います。刑務所は、矯正教育の一環として職業教育をすることはあっても、精神面での安定を目的として、音楽教育などの情操教育をしているということは、ないだろうと思いますので。)
普段は清楚な服装に身を包み、丁寧な言葉づかいで人当たりは悪くはないのですけれども。
しかし、その上着を一枚脱いでしまうと…。
そして、そもそも、八坂が鈴岡一家に現れた理由すら、判然としない。
その得体の知れない八坂の不気味さを、浅野忠信が好演し、なんとも言えない不気味な雰囲気を醸(かも)し出していた一本でもあったと思います。本作は。
いずれにしても「もんのすんごい映画を観ちゃった」ということは、間違いがなかったようです。