「脚本と演出がシニカルに結託した傑作カルト映画」ハードコア 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
脚本と演出がシニカルに結託した傑作カルト映画
「全編一人称視点!」というセンセーショナリズム一辺倒の他愛ないアクション映画かと思いきや、脚本と演出がシニカルに結託した傑作カルト映画だった。ホントに感動した。
まずそこいらのB級とは格が違うのだと宣戦布告するようにオープニングクレジット画面を埋め尽くすグロ映像。それが何かもわからないまま本編が始まる。
病室のような場所で目覚めた主人公。彼には記憶がなかった。もっといえば口をきくこともできなかった。彼は改造人間だった。要するにこの主人公は我々観客そのものだ。「映画は"観る"から"シンクロ"する時代へ」というキャッチコピーが示す通り、我々は出自と口を持たない彼にアイデンティティを重ね合わせながら、襲い来る数多のスリルを生々しく体感していく。
映画は全編にわたってGoProで撮影されているのだが、動作主体がおそらくパルクールに精通した役者であることはほぼ確実だ。ビルの壁面をひょいひょい登っていったり、橋の上を命綱もつけないで疾走したり、恐怖中枢マヒしてんじゃねえの?と不安になる。そういえば本作は米露共同制作だったな…(ロシア人は他民族に比べて恐怖を感じにくいという俗説がある)
さて、主人公はあるミッションを課されていた。それはロン毛のサイコキネシスト(書いてて笑ってしまう)から自分の妻を助け出すこと。彼はある男たちの力を借りながら敵組織の核心へと近づいていく…んだけど、この「ある男たち」の正体がすごい。
あるところに一人の科学者がいた。彼はサイコキネシストに背骨を折られ、身体が不自由になってしまった。そこで彼は、空洞の肉体に意識を飛ばして操作する科学技術を開発した。そしてサイコキネシストから自分の妻を奪還しようとする一人のサイボーグ人間を陰からサポートすることにした。そう、主人公を先導する「ある男たち」とは、実は一人の身体の不自由な科学者だったのだ。なんだか湯浅政明『カイバ』みたいな話だ…
冒頭のグロ映像もそうだが、本作は説明の欲求を限界まで抑制している。それにより万物が主人公の視界によって局限されているという一人称性がさらに強調される。確かに、わけわからん事態に巻き込まれたときって実際こういう感じだよな…すごい後にならないと全体が見えてこない。
なんだかんだでついに敵組織の懐中に潜り込んだ主人公だったが、そこで驚愕の事実を告げられる。実はサイコキネシストと妻は結託していて、彼はその壮大などんでん返し劇に欺かれていたのだ。彼は妻の夫などではなく、他にいくらでも代替可能なロボットに過ぎなかった。この代替可能性はメタ次元においても同様のことがいえる。つまり我々受け手一人一人のアイデンティティを容易に、無尽蔵に受け入れることができるというのは、彼がどこまでも自意識の希薄な容れ物に過ぎないことの証左だ。
自らの代替可能性に絶望した主人公はひどく落胆する。そのとき彼は不意にガラス片に映り込んだ自分自身の顔を目撃する。それはもちろん彼自身の、彼しか持ちえない顔だ。他のロボットの顔でもなければ、我々のような画面外の闖入者たちの顔でもない。ここではじめて彼は自我を獲得し、眼前のできごとを自分ごととして再認する。本作は「全編一人称視点」と銘打たれているものの、厳密にいえばここで我々は彼の身体から放逐されている。
そこから先は暴力の応酬といった感じで、主人公はようやく捕らえたサイコキネシストを惨殺。それからヘリコプターに飛び乗り、必死の命乞いをする妻(笑)をドアから蹴り出す。指だけでヘリコプターの縁にぶら下がる妻を見下しながら情け容赦なくドアを閉める。終わり。あまりにも気持ちよすぎる…
一人称視点だからなんだっていうんだよ…という身も蓋もない疑念がここまで綺麗に晴らされるとは思わなかった。「映像は新奇だったけど脚本はゴミ」みたいなレビューが散見されるけど、「お前らはいったい何を見てたんだよ!」と柄にもなく説教したくなってしまう。