ジュリエッタのレビュー・感想・評価
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過去と現在でジュリエッタという人物を形作る
主人公ジュリエッタは奔放で自由な人だ。しかし中身は誰かに支えてもらわないと生きられない弱い人だ。
列車で出会った男性の死に、自分のせいだと罪の意識を感じてしまう過剰な繊細さも持ち合わせている。
列車の男性の死の後、夫と出会い支えてもらい、夫の死の後、娘に支えてもらおうとした。
夫(父)の死に悲しむ気持ちは同じで理解できても、それ以上のことが分らなかった娘は、過度にふさぎ込む母親に耐えかねて家を出ていくこととなる。
列車の男性の死に罪悪感を感じたように、夫の死にはそれ以上の罪悪感を感じたに違いない。
娘がいなくなったあとはおそらくアバに、アバが亡くなってからは新しい恋人であるフランクにそれぞれ支えられてジュリエッタはなんとか生きてきた。
悲しみは癒えても罪の意識は消えない。誰かにそばにいてほしい。本当はそれが娘のアンティアであってほしいのだ。
ジュリエッタの娘には子が3人いるという。一番上の息子は亡くなったらしい。
息子の死の詳しい状況は分からないが、まだ幼い息子を亡くした母親が自分のせいだと感じることはままあるだろう。
このとき、ただ死を悲しむだけではない押し潰されそうな罪悪感をアンティアは知る。
ジュリエッタが娘アンティアに向けて書く手紙という形で過去を振り返っていく構成は中々見事だ。
娘はなぜいなくなったのか、を焦点にジュリエッタという人にフォーカスしていく。
映画はキャラクターの人生に寄り添うものと誰かが言った。
観ている誰にでも当てはまりそうな普遍性もいいが、ジュリエッタとアンティアだけの特別さもまた興味深いのである。
入れ墨は『A/J』を『アンティアとジュリエッタ』?
ギリシアが大事にしたのは『ポントス』つまり、黒海。今も昔も変わらない。
男目線な俯瞰野郎の目線だと断定できる。突っ込みどころが多すぎて、レビューを書きたくなくなる。そんな作品だ。
ショアンはJoanだと理解すれば分かる。また、新興宗教じゃない。カソリックである。また、幼なじみでは無い。L若しくはBであり、この演出家はこの自立した母親と愛を求める幼なじみを否定的に捉えている。つまり、男目線の古い価値観の寓話に過ぎない。
「“罪悪感”は感染する」…一人の母親の行動・見聞・内面だけを描くことで娘の内面も描き出す新境地
①アルモドバル監督にしてはストレートな劇だと思ったらやはり原作ありきだった。②母親が知らなかった娘の言動が顕になるところはあるが、サプライズというほどではなく、殆ど捻りのないストーリーで、これまでのアルモドバル監督の作風とは一線を画している。③ただ、現在の娘は一度も画面には出てこない。しかし、母親の回想、母親の今までの人生を描くなかで徐々に娘の心の軌跡が観るものに伝わってくる。これまで、個性的な人物達の群像劇を描くことを通して何かを表現してきたアルモドバルにとって新しい表現法ではないだろうか。④演出はさらに円熟味を増している。ここで実験した一人の人間の過去・現在にフォーカスを当てる手法に、かつアルモドバル本来のテイストも加えた物語を円熟味をました演出で描くことで「ペイン・アンドロ・グローリー」という傑作が生まれたのではないだろうか。⑤しかし、演出の手法・方法は違っても、途中の展開が予想不可でも、全てのアルモドバル作品は最後に何らかの救いがある点では一貫しているとは思う。⑥蛇足:過去のジュリエッタを演じる女優、現在のジュリエッタを演じる女優、どちらも美しく魅力的なのが大変宜しい。
共感力
子供を産んだことがないのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。
娘に会いに行くシーンに、どうしてこんなに胸が詰まるのだろう。
子供を失っても、子供を亡くしても、子供が居なくても、子供が居る居ないに関わらず、全ての女性に備わる「共感」という感情。
感情を露わにする女達。感情で生きていることを表現する女達。アルモドバルの持つ共感力が、フィルムに乗り移り、私の魂を揺さぶりにかかる。
だからこそ、アルモドバルはこれほどまでに沢山の女性から支持されるのだと、改めて思う。
アルモドバル映画あんまり見たことない人には十分
映画批評には結構賛否両論だが、
アルモドバル好きな人の期待過ぎじゃないかなと。
確かにコメントの通り時間を置いて再考する必要があるかも!
中年のジュリエッタ役はその心弱さを演じ切ったとも言えるだろう。娘アンティアが髪の毛を拭いてくれるシーンは衝撃的だった。
親子関係について繊細な描写で色々考えさせられる。まず親に対する子の執拗。娘に「捨てられる」女主人公は悲惨な三年を過ごしたが、彼女もまた自分の父をも責めている。妻は病気で眠ってる男と結婚したのに、父の再婚は許せないと。
一方で、親はどんなことあっても子のことを思っている。ジュリエッタは三年間娘の誕生日を祝う。特にここでケーキを食べずに捨て、娘の痕跡のないところに引っ越すなど、母としての心理感情を丸ごとに出した。また、再婚した父はジュリエッタにも電話する。
そして、罪悪感も一つの糸となる。女三人とも罪悪感を持っている。特に列車で一人の男が自殺したことも、全体的にはどんな役かよく分からないが、一種の解釈はあの時にもジュリエッタには罪悪感も生じた。人が死んだのは自分のせいだとー
心細いところが見える。
娘の気持ちもよくわかる。一回家に帰って真相を知ったむすめは相変わらずジュリエッタの世話を見続ける。それは自分にも罪悪感を感じる娘は鬱病のある母への最後の親孝行だろう。自分をも母をも許せない娘もずっと我慢していた。それで修行に行って信仰を見つけて母から離れたのだ。
でもこの映画で彼女は娘の家出で立て直せなくなったのが最も悲劇的だろうが、これもまた彼女は自分の父と違って全ての希望を娘に託した原因だろう。最後に自分の幸福を見つけた時点で、不幸から抜き出したのだろう。
ここで考えたいのは娘が母になるとようやく母の気持ちがわかるようになったが、結局ジュリエッタはじぶんに自分の父の再婚を理解できたのだろう。
最後はいいエンディングになってると思うけど....
見終わったら少し重い思いをさせられたのは確実。
親心、子心。
久しぶりに観たアルモドバルの新作は、長らく観てきた者には
確かに物足りなさが残るけれど母親の情念は深く描かれている。
親の心子知らず。だし、子の心親知らず。なのだ、しょせんは。
それは本作のヒロイン、ジュリエッタのせいではなく自然現象
ともいえる行い(自立を含めて)に近いような気がする。反抗心
を抱いた子供は親の感知する行動などとらない。理解しがたい
うえに突拍子もない選択をする。あー思えば自分だってそうだ
ったじゃないか。と振り返る日々がジュリエッタを成長させる。
若くして結婚、伴侶を失ったうえ、深い悲しみから精神を病み
いまやっと理解できるパートナーと巡り逢い幸せをつかもうと
しているジュリエッタだが、やはり娘のことが気がかりで仕方
ないのも親の役目。逢いたい、抱きしめたい、話を聞きたいと
思うのは当然。そして自身のために家を出たのであろう娘も今
母となってその深い愛を知る。いい親子で普通じゃんと思うが、
困難に見舞われている状態では自分の居場所が見えないものだ。
ジュリエッタもアンティアも頑張ったのだから幸せになってよ。
(常連ロッシ・デ・パルマの家政婦役が最高。やや老けメイク?)
考えさせられた
母と娘、夫婦、友人、恋人、、いろいろな関係について考えさせられた映画でした。
映像もきれいだったし、とても良かったです。
最後の終わり方も、あれはあれで良かったですが、再会したところ観たかったかも。
フリエタ
え、ここで終わり!!?という。
ストーリーのテンポもスペイン語の会話のテンポもめっちゃ良い。けどその分展開の速さについてけない場面多々。
なんかボルベール観たときと同じような感想。良い話っぽいねんけど、初見だけでは核心がぼんやりとしかわからんかった。
バッドエデュケーションとか私が生きる肌とか、もっとエキセントリックな話のときのアルモドバルは好み。
おとなしめのアルモドバルも何回か観たら、それか子供産んで母親になったら良さがわかるかも。
尻切れとんぼな娘への懺悔。
まだ続くと思っていたところで終わったことにびっくりします。せめてアンティアに会うところまでは続くと思っていたよ。
ジュリエッタ(スペイン語の発音とは違うけど)は、何を恐れていたのかね。電車のおじさんが死んだのはジュリエッタには全く罪のないことです。
ショアンがアバと肉体関係があったとして、それが結婚後ならまだしも、それ以前だと咎める権利もないし、そのことで口論したからって、悪天候を読めなかったショアンが死んだ事もジュリエッタのせいでもない。
それを自分の罪として抱えて、娘の少女時代を台無しにしたことはよくないけど、どうにもできなかったことだし。
いろんなことがあるけど、誰も悪くないし、たとえ罪があったとしても十分苦しんだからってことなんでしょうか。
でもジュリエッタが母だったら辛いわ。
アンティアの気持ちは意図的に描かれなかったのでしょう。
ジュリエッタの告解の物語だから。
独りよがりで時々、ん?てなるけど、嫌いじゃない語り口ではあります。
海が美しく、壁紙がエキセントリックだった。
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