ジュリエッタのレビュー・感想・評価
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普通をのひとを普通に描く新境地
スペインきっての変態監督だったのが、いつの間にか女性映画の巨匠扱いされるようになったアルモドバル。確かに文芸路線、キレキレの珍作、その折衷的作品とどっちの側にも足をかけて活動しているが、女性の生き様を描くにしてもどこか飛び道具のような展開や描写をブッ込んでくるのが通例だった。
ところが今回、軽く新興宗教めいた自己啓発セミナーが絡んできたりはするが、あくまでも普通の女性の半生を、突拍子もない要素に頼ることなく描いている。なんなら近所を歩いていてもすれ違っていそうな女性の物語だと思う。
物足りないという人もいる気がしつつ、アルモドバルらしいちょっとねじれた表現はあちこちに散りばめられているし、本人らしさを失わずに新境地にたどり着いた普遍的なメロドラマではなかろうか。
【一人の若き孤独だった女性の罪と大いなる報いを、切ないトーンで、アルモドバル監督が色鮮やかに描き出した作品。】
ー スペインのマドリードでひとりで暮らす55歳のジュリエッタ。ある日、古い知人の女性から、一人娘のアンティアをスイスで見かけたと聞き、ジュリエッタの心は大きく揺れ動く。
アンティアは12年前に何も言わずに家を出ていったまま、音信不通となっていて…。ー
■若きジュリエッタの罪
・列車で一緒になった意識不明の奥さんがいる漁師ショアンとの弾みでの情事。
・更に、ショアンの奥さんの葬儀の翌日に彼と情交を交わす。一夜限りの関係だった筈なのに。
・ショアンとの間に出来た娘、アンティアに夫との関係をキチンと話していなかった事。
・嵐の日に、海に出たショアンは帰らぬ人になり‥。それについても、真実をアンティアに話していなかったジュリエッタ。
・そして、突然いなくなったアンティア。12年間も音信不通だった彼女からの手紙に記載されていた事。何とも、ほろ苦い物語である。
<若きジュリエッタをアドリアーナ・ウガルテが。中年になったジュリエッタをスペインの国民的女優、エマ・スアレスが演じる。
アルモドバル監督が上記の内容を、抑制したトーンで淡々と描いた作品。
ロッシ・デ・パルマは、容姿が余り変わらないなあ・・。>
相変わらずの圧倒される母子愛の物語
アルモドバル
中年となっていたジュリエッタ。12年間娘と離れて行方知れず。すぐにでも会いたいと娘アンティアへの想いを綴る。
アンティアの父親となるショアン(グラオ)と出会ったのは列車の中。その直前に席が一緒になった目つきの悪い男が自殺したことで、罪悪の念と寂しさから2人は結ばれた。ショアンは漁師で既婚者だったが、妻は5年間意識不明のまま。やがて妻が死んだときにジュリエッタを呼んだのだった。娘アンティアが産まれすくすくと育ち、9歳になったときに湖畔へキャンプへと向かったのだが、その間、嵐の中を漁に出たショアンが死んでしまう。ショアンが嵐に出たのはジュリエッタと喧嘩したときだったとアンティアは知り、母との距離をおくようになったのだ。
どことなく淡々と描かれるジュリエッタの過去。それでも惹きつけられるのはアルモドバルの腕なのだろう。
人生を考える
アゲハチョウ
マドリードで暮らすジュリエッタは恋人とポルトガルへ引っ越す準備に追...
巨匠、女性を描く
題名は『ジュリエッタ』。あくまでひとりのジュリエッタの物語である。
誰かの娘であり妻であり母である女。女の性(さが)は複数にまたがっている。
生と死、愛と性を軸にして物語は進む。
誰かの死に直面したとき、生きている自分を責めることは、よくあることだ。誰のせいでもない出来事は自分の罪ではない。
実は、失望、悲哀、落胆の状態こそ、一種の罪の状態で錯綜なのである。
女の愛は男の愛と異なって、快楽のための媒介を必要としない。他者はすでに女の内にある。女は他者を所有し支配する必要はない。
しかしジュリエッタは失望のあまり錯綜した。娘に執着した。他者としての娘を理解することを怠った。
私はそんなジュリエッタが愛しい。
色彩設計の見事さ。
古典教師の一面は知性の色、青。
おしゃれでセクシーな一面は引力の色、黄色。
情熱も悲しみも全てを含む女の生命力の色、赤。
そして、まるで会話の一部分のような重要なモチーフ。ルシアンフロイドの絵画、雄鹿の疾走、男性のオブジェ、キッチンから見える海。不完全な人間の美を感じた。
これぞ映画の醍醐味である。
必然的な娘への言及不足
久しぶりのアルモドバルの新作。
前回観たのはボルベールだったか。
赤を中心にカラーコントロールされた画面に、アルモドバル調の健在を喜ぶ。
列車で二人の男に出会った主人公が、死ではなく生に惹かれることは、その若さや美しさから当たり前のようにも思える。
だが、この選択は紙一重のものであった。
ラストシーンにおいて彼女の鞄の中に娘からの手紙が入っていたことが、列車に飛び込んだ男が残した鞄の中身が空だったことの謎の答えとして提示された観客は、そのことに気付くだろう。
鞄に入っていた娘からの手紙は、母親との和解を求めており、これにより、主人公は人生を絶望させてきたわだまりから解放される。そんな感動のラストなのだが、残念なことに、氷解により溢れ出すものが観客の期待する程度ではなかった。
そうならざるを得ない理由は明白でもあるのだが。
母娘のすれ違いをラストで提示するには、娘のことがほとんど描かれていない。だから、観客はこの娘の子供時代からの苦しみを知らないし、現在の心境にも思いを馳せることができない。
しかし、これはある意味当然である。
映画は初めから、娘のことがつかみきれない母親の姿を描く。娘のことは、その母の視点から見たものを描くので、必然的に娘のイメージが断片的、一面的なものに過ぎなくなるのだ。
だからこそ、娘が出奔した事実にも増して、その理由が分からない謎が、主人公を追い詰めていくし、観客もまた、彼女の苦しみへの感情移入ならば存分に果たすことが可能なのだ。
介護、移民労働者、カルト集団といった、現代社会特有の問題によって家族が変化する。しかし、バラバラになってしまったかのような家族を繋ぎ止めているものは、結局のところ親子の情である。
子供を産み、そしてその子を喪う経験から、自分の母親の苦しみを理解すること。大切な伴侶を亡くした悲しみを、新たなパートナーとの人生をスタートさせることによって乗り越える父を赦すこと。
二つの和解の糸口だけを示して映画は終わる。
平凡な男たちが登場するアルモドバル流女性映画
スペイン・マドリードで暮らすジュリエッタ(エマ・スアレス)。
恋人ロレンソとポルトガル移住を明日に控えたある日、街角で娘の幼友だちと出逢う。
娘のアンティアは、十数年前に出奔したきり。
その幼友だちはアンティアをコモ湖畔で見かけたという・・・
というところから始まる物語は、そのジュリエッタが、かつて娘と暮らしたアパートへ引っ越し、過去を回想するという展開になる。
現在と過去、大過去と時間軸を移しながらの語り口は、アルモドバル監督だけあってさすがに上手い。
ジュリエッタの心の深奥を示す、赤を基調とした鮮烈な画面も強烈だ。
けれども、意外とつまらない。
つまらない、というと語弊があるかもしれないが、なんだか物語の表面を撫でただけの映画みたいな感じ。
たぶん、ジュリエッタにからむ男たちが平凡だからだろう。
『ボルベール <帰郷> 』あたりに登場した男どもは、男の目からみてもダメな奴って感じの、唾棄すべき男どもだったけれど、本作ではそんなことはない。
ただ、登場して突然死んでしまうということを繰り返して、ジュリエッタに暗い過去を残すだけ。
アルモドバル映画で、平凡な男を観ることになろうとは思わなかった。
そこに尽きる。
ジュリエッタと娘アンティアの確執も微妙だし、若き日をアドリアーナ・ウガルテが演じるジュリエッタの二人一役効果も微妙。
アルモドバル監督作品としては、中程度の出来かしらん。
え?これで終わり?みたいな…
絵力が凄い
「トーク・トゥ・ハー」よりも感情移入
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