ウィッチのレビュー・感想・評価
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雰囲気がのっけから壊れてる。
アニヤ・テイラーかわいい!
美しい!髪を解いたところたまらん!
さぁ、それだけでお腹いっぱいです。満たされます。と言いたいところだけど彼女の美しさを丸呑みにしてなおもドス黒い恐怖を凝縮させたような救いようのない映画。
当時のイングランドの信仰の強さとそれ故に起こる排他的な宗教活動。何かを強く信じれば信じるほど、それが揺らいだ時に生まれるほころびも大きいというものか。
序盤から、絶対にハッピーエンドは迎えないだろうと完璧に思わせる演出に息を飲む。家と森とヤギの小屋だけが舞台で、家族がいかに閉鎖的な空間でひたすら祈りを頼りに生きているかが見てとれた。超こえー。
エンディングの集団魔女がいらなかった気がするけど、そこ差し置いても超コエー。でした。
疑心暗鬼の魔女
よくある低予算ホラーかと思ったら、ジワジワ口コミヒット、批評面でも絶賛。
アメリカ公開時から気になってた一本。
魔女伝説、信仰心など容易く理解出来る題材ではないが、高い完成度に唸らされ、衝撃の展開に戦慄させられた。
終始漂う不穏なムード。
ダークな映像美、人里離れた森の中のロケーションが殊更素晴らしい。
この異様な作品世界に一気に引き込む。
赤子の謎の失踪から始まる、一家を襲う奇怪な現象。
何かしらの事件性で説明付くとタカをくくっていた。
自分の常識や想像力は覆され、通用しない。
ラストシーンなど現実か否か。一体自分は何を見せられているのか。
ラスト近くの“ある者”の登場は『哭声 コクソン』と通じるものを感じた。
不気味な音楽。
長男が森の中で出会った美しくも妖しい女。
時折挿入される意味深なシーン。
主を称えながら発狂しながら息絶える長男。
神経を逆撫でさせる二女と二男。
ヒステリックな母親。
強い信仰心がかえって横暴である父親。
不穏さ、不条理さが幾重にも交錯し、もはや恐ろしい。
最も恐ろしいのは、心の闇。
魔女と疑われた長女。
家族である筈なのに、娘の言う事を信用出来ず、一度疑ったらその疑いに囚われる。
疑心暗鬼。苦悩。狂気。転落。崩壊。
魔女は居た。
心の闇の中に。
この恐ろしく残酷な作品の中で唯一、アニヤ・テイラー=ジョイに魅せられる。
アニャ・テイラー=ジョイが見たかったのです
えーっと、かなり久々のレビューになってしまいましたが、ここらへんで観た映画をババっとまとめてレビューしておこうと。ただ、まとめてなので、簡素に、簡素に。
まずは、こちら、『ウィッチ』ですね。
多くの方がそうなのだと思いますけど、シャマラン監督の『スプリット』を見てですね、「わー、この女優さん、綺麗だなぁ」なんてなりまして、その女優さんが注目されたきっかけになった本作を観たかったわけであります。
で、アニャ・テイラー=ジョイは、やっぱり無茶苦茶、可愛かったですね。それだけでも観てよかった。
内容的には、アニャ・テイラー=ジョイがメイキングで話していたように、確かに魔女をめぐっての家族の崩壊ものなのだと思うのですが、それであれば、私的にはラストのシーンはいらなかったかな、と。なんかこの主題の微妙な定まらなさが、私の評価をちょっと下げてしまいました、はい、すいません・・・
なんだよこりゃ…
僕と追放されて一緒に自給自足の生活をしてよ。
そしてあわれな一家は頭パラッパーな親父と貧乏生活を強いられました。
主人公が可愛くない。
時代がわからない。
国も地域もわからん。
火縄銃使ってるからかなりむかし
それでイギリスか?
これはホラーなのか?まるで怖くないけど
色彩が地味、終始画面が暗い。
なにやってんだこいつら?バカなの死ぬの?
と思ってたら主人公の女の子以外みんな死にやがった
僕は悪魔さ。僕と契約して魔女になってよ。
で森のたき火でドンジャラホイ?
わけわかんないです。なんでこんなの評価高いの?
あまりのつまらなさにイライラして見終わったあと柱に頭ぶつけそうになってしまった、くらくらしてまって。
キリスト教信者ならおもうところあるのかな、とにかく何も感じ入るところなし。
そういえば名作「エクソシスト」もかなり宗教的側面からの場面が多いがちゃんと娯楽性を考えてるし、いまみても何度みても恐いし面白い。
これのスタッフ、みる側のこと考えてるのかいな。
しっかし。
日本には神道という、いつから始まったのかもはっきりしない、なんとも説明しずらい
それでいて非常に興味深いネタがあるんだが、だれも題材として作品にしようとせんな。なかなか、難しいのかもしれんが。
西洋に普及してる宗教の題材なんてさあ。本音を言えば興味ない。
キリスト教が日本にあまり浸透しなかったのは、多神教の神道と相性が悪かったというのもあるよな。
悪いとこは真似したけどな、性に関して厳しいとことか。
いいとこは広まらなかった隣人を愛せ
みたいな慈愛の精神は広まらなかった。
ああ〜それにしても面白い映画がみてえよ〜勘弁してくれ〜
テーマは魔女。17世紀のアメリカに住む農民一家を襲う恐怖を描く……...
テーマは魔女。17世紀のアメリカに住む農民一家を襲う恐怖を描く……のだが、派手さや真新しさは皆無。意地悪く言えば極めて地味な作風だ。それでも魂の根源に訴えかけるような恐怖感、ある意味オカルトのような不気味さはジワジワと観る者の心を蝕んでくるようだ。キリスト教信者だったら、もっと怖いのだろうと思う。
新進気鋭のアニヤ・テイラー=ジョイの存在感が良い。個性的な顔立ちと目の表情が印象的なことから、本作の魔女に始まり『モーガン』の人工生命体など人間ではない存在を演じるイメージが強いが、『スプリット』の時のような普通っぽいキャラクターを演じるアニヤをもっと見たい。
怖すぎる
1630年、ニューイングランド。ウィリアムとキャサリンの夫婦は、敬けんなキリスト教生活を送るために5人の子どもたちと森の近くにある荒地へとやって来た。しかし、赤ん坊のサムが何者かに連れ去られ、行方不明となってしまう。家族が悲しみに沈む中、父ウィリアムは、娘のトマシンが魔女ではないかとの疑いを抱き、疑心暗鬼となった家族は、狂気の淵へと転がり落ちていく。トマシンの弟ケイレブはトマシンと森に行って行方不明の末に戻ると狂気に囚われ死んでしまう。ウィリアムは双子とトマシンを納屋に閉じ込めるが、一夜明けると納屋が壊され、やぎに突き殺されてしまう。トマシンを悪魔と決めつけた母キャサリンはトマシンを絞め殺そうとするが、トマシンは彼女を殴り殺してしまう。一人になってしまったトマシンは山羊に話しかけると悪魔の声が聞こえそれに従い服を脱いで本にサインを扠せられる。最後はトマシンが焚き火を囲む謎の人物たちに会い歓喜の叫びのようなものを叫んでジ・エンド。
本作は民話などに着想を得て作られている。一つの寓話と言える。
キリスト教徒ではないのでピンとこない
ホラー映画は苦手だが、予告が面白そうだったのと魔女ものという題材にも興味があったので観ることにした。
主演の長女トマシンを演じたアニヤ・テイラー=ジョイはアルゼンチン育ちで母語は本来スペイン語らしい。
今年は彼女の出演作品である『スプリット』を先に観ているが、元々は『ウィッチ』が公開されて監督のナイト・シャマランが彼女を気に入って同作に起用したようなので、日本での公開は順番が逆である。
確かに『スプリット』の時よりも本作の方が幼い顔をしている。
(『スプリット』の展開は正直読めた。またブルース・ウィリスが登場した時点で次作で『アンブレイカブル』とコラボすることは容易に察しがついたが、ついにシャマランも自作のユニバース化をし始めたのかといささかうんざりしている。ハリウッドはなんでもかんでもユニバース化するつもりなのか?)
さて本作だが、登場人物が1家族だけで森の中という限られた空間の中で展開されるので、少人数の密室劇に近い印象を受けた。
また筆者がキリスト教徒ではないからなのか、魔女の恐ろしさにもピンと来なければ、森に神聖さは感じこそすれ極度の恐れは感じないのでやはりこちらにも思い至るものがない。
そのため何か起きると自然と犯人探しをしてしまう。前提はホラー映画なのだが、まるでオチのないミステリーを観ているようであった。
見方によっては虐げられたトマシンの心が一連の事件を起こしたと見ることもできるので、犯人はトマシンと言えるかもしれない。
弟のケイレブが何か叫んで死んだシーンでは、そんな急に叫ばれて死なれても…と思ってしまったし、父ちゃんが黒山羊に殺されるシーンでも、唐突に殺された間抜けな親父にしか見えなかったので、怖いというより若干おかしかった。
そもそも黒山羊を恐いと思わないので、山羊がしゃべるシーンも日本で相当売れたと思われる馬の頭の被り物を着けた人間が何か言っているのと同じように見えてしまって、怯えるトマシンにむしろ違和感を感じてしまった。
愛犬が腹を割かれて死んでいるシーンなどもあったが、全体的に視覚に頼り過ぎていて怖さよりも気持ち悪さをより強く感じてしまう。
本作でも描かれているようにキリスト教では女性を明らかに差別していたので、薬草に詳しいなどの自然科学の知識が豊富だったり、科学的知識があったり、そういった女性を醜い男の嫉妬から「魔女」に仕立て上げて処刑していたふしがある。
また密告が奨励されていたので、気に入らない女性も「魔女」の濡れ衣を被せて処刑したようである。
しかも火あぶりの刑は残酷だったらしく、本来は火を焚くと磔にされた人間は上がってくる煙で一酸化炭素中毒を起こして気を失いやがて死ぬところを、生きながら火に焼かれる光景を楽しむためにわざと気を失わないように工夫までするほどだった。
また「魔女」と白状させる拷問も過酷であった。
両の親指を万力で締め上げるのが第一段階、親指の骨が砕けてもみな我慢するらしいが、第二段階は水責めになる。
9リットルもの水を無理矢理飲ませて白状しなければさらに9リットル、それでも白状しなければ全てを吐き出させて同じことを繰り返す。
この拷問方法はその後、欧米各国で活用され、フランスでは1954年から1962年まで続いたアルジェリア独立戦争で、独立を叫ぶアルジェリア人に使用され、最後はギロチンで首を刎ねている。
アメリカはフィリピンの独立派に対して使用した。まず18リットルの水を飲ませて、白状しなければ尋問官が膨れた腹に飛び降りる。また時には海水も使ったため死亡率が高く、公聴会に160人中134人が死亡したという記録まで出されている。
ここまで残酷ではないが最近も水責めはまだ活かされていてグアンタンモ基地でアルカイダを尋問する際に使用されている。
顔にタオルをおいて水をかけて息をできにくくする拷問だが、『ゼロ・ダーク・サーティ』だっただろうか?筆者が観た映画の中にもそのシーンがあったはずである。
また北米大陸に入植した白人はインディアンを殺しまくっているので、そりゃあ森の神様も魔女に姿を変えて復讐するでしょ!自業自得!とも思ってしまう。
すっかり最近では欧米のマスコミの刷り込みのせいで、イスラム教徒というと野蛮で残虐というイメージになってしまったが、歴史的に見れば一番異教徒を殺しているのはキリスト教徒である。
しかも圧倒的で他の追随を許さない。
南北米大陸、オーストラリア、アジアの原住民をどれだけ殺したことか!
十字軍遠征の際もキリスト教徒はイスラム教徒の町に攻め込んで女子供を含めた全住民を殺すなどざらである。しかも殺し方も残虐だったりする。
十字軍は第1回でイスラム教徒の捕虜を全員処刑しているし、第3回でも身代金の不払いを理由にやはり捕虜全員を処刑している。
一方、対するイスラム教徒は名君サラーフ・アッデイーン(サラディン)の時代だったこともあって身代金不払いの捕虜まで全員解放している。
ただこの寛大さを悪用するルノー・ド・シャティヨンというフランス人もいて、解放されてはイスラム隊商を襲うことを繰り返していたので、さすがに怒ったサラディンに手ずから首を刎ねられている。
そして実は現在も冷静に事実に目を向ければ911テロの報復としてイラク・アフガンでどれだけ人を殺したことか、兵器が近代化されているから実感が湧かないだけで数だけ見ればどちらが残虐かは明らかである。
右の頬を叩かれたら左の頬を差し出すどころか、左右の両頬を叩き返した上に両手両足の骨を折るぐらいまでしているように見える。
全編を通してほぼ暗い色調の映像が占めているので、この一家の直面する生活の厳しさはうまく描写されていたが、時折登場する魔女も含めて恐ろしさは全く伝わって来なかった。
またキリスト教徒の偏狭さをデフォルメ化することには成功していたと思う。
今夏はアメリカで山火事が大規模化、長期化する事例が多く発生したが、インディアンは自然に対する知恵があったので、わざと小規模に火事を起こして大規模な山火事を防いでいたようである。
本作のように森を恐れているようでは自然との共存は難しいだろう。
そのように考えれば、本作の最後でトマシンが森の中に入って真の魔女になるのは自然と一体化したとも見えなくもないから不思議だ。
アメリカ人がこれからもアメリカ大陸で生きる以上、いい加減インディアンの知恵に耳を傾けることに気付くべきではないだろうか。
年間ベスト3に入る映画
何故この映画がメジャー系の映画館で上映されなかったのが不思議でならない。
ミニシアターで限られた人だけが鑑賞できた?のは、残念でならないという気持ちと鑑賞できた幸運に感謝。
この映画の世界観にどっぷり浸かって、また楽しみたい、二度目の鑑賞をすることに決めました。
今年見た映画の中でベスト3に確実に入る映画でした。
これはすごい・・
見て驚いた。だってこれ、5年とかに一本レベルの傑作じゃね?少なくとも年間ベストに入っても全くおかしくない出来。これが長編デビューとは思えない監督の力量に驚く。ほとんど家と森という空間しか使っていないにもかかわらず、緊張感は全く最後まで途切れない。ろうそくの火を使った照明は絵画的でどの画面を切り取っても象徴的な美しい絵になっている。音楽にしろ、呪術的なコーラスと音響の組み合わせで非常に凝ったものだった。
編集も本当に見事。例えば、親父がインディアンと母親の大事な銀のコップを勝手に交換してしまったという話の直後、娘が鶏が産んだばかりの卵を取っているシーンが次に来ることで「盗みの罪」が強調される。。このようによく見ると様々なシーンの切り替わりで、前のシーンとの繋がりがほのめかされるような編集を意図的にしている。
そしてキャスティングも完璧。主役の女の子の存在感はもちろん、神経質で醜い母親が美貌を持つ娘に対する偏見や、双子兄弟の金切り声から感じられる何か普通じゃなさ。。父親の威厳ある風貌と声があるからこそ、彼が狼狽する時に事の異常さがより引き立つ。
キューブリックのシャイニング同様、超自然現象が起こるのはごく一部のシーンだけで、実は恐怖で心理的に病んだ人たちが生み出している幻覚という解釈で見れなくもない。つまり、自然や病気が人間の手に負えない時代だったからこそ、その恐怖に対する想像力が魔女や悪魔といった形となったとも解釈できる(途中までは・・。)そのバランスが物語が絵空事になりすぎないシリアスな空気を作り出していると思う。(ちなみにこの映画実はシャイニングとの共通点が色々あるように思う。先程述べた、双子、隔離された場所にいる家族、魔女の誘惑、インディアンの呪い等々。。)
ホラー映画というジャンルを普段頻繁に見るわけではないけど、これは明らかにレベルが違う。陳腐なシーンが全くない。エクソシストやシャイニングと比較しても勝るとも劣らない高級感。この監督が次に何を撮るのか、非常に気になる。
血生臭くてセクシャルなホラー
同じニューイングランドの魔女裁判を描いた映画に『クルーシブル』があるけど、この映画は『クルーシブル』のように人の疑心暗鬼だけで事件が起きるわけではなく、実際に魔女の存在を描き村から孤立した家族を襲っているホラー映画だった。
悪魔の呪い系のホラーは、悪魔のバックグラウンドが全く見えなくて、下手すると陳腐なホラーに見えてくるからそんなに食い入ることはなかったけど、この映画は魔女の存在も描きつつ家族の対立も描いていたりするので、どことなく食い入ってしまったけど、とにかく気持ちが悪い。
やたらと血生臭かったり、魔女が妖艶に長男を誘惑して生気吸い始めたら急にしわくちゃになったりとか、演出が気持ち悪い。
悪すぎて、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』よりも不気味だった。
他の方もレビューで触れていたけど、原題が『VVITCH』で、冒頭にタイトルが出てきたときはビッチ?と間違えて読んでしまった。(あのビッチはbitchだけど…)
結局悪魔と契約した長女が最後、裸で踊って魔女の一員になってしまうことにかけていたりするのかな?とか色々考えてしまいました( ̄▽ ̄;)
アスペクト比が4:3のスタンダードサイズだったけど、変に画面の狭さを感じさせないで自然を不気味に撮ったやり方は圧巻だった。
なぜテレビでもビスタになっていっているこのご時世でスタンダードで撮ったのか、その理由も気になる。
魔女になる
魔女は何かのメタファーなのかと思っていたが、ほんとに魔女になってしまった。あの時代に女性が自由に生きていくには魔女になるしかなかったのかもしれない。サバトも楽しそうだったし。
少なくともあの家族は辛い。双子がうるさくてさっさと魔女に食べられればいいのにとイライラした。結局どこいったのかな。
真実を突きつける女、性的魅力のある女は魔女なのだろう。
古い英語で話しているようで、英語がわかればまた雰囲気も違いそう。
淡々と怖い
始まって早々にハッピーエンドを微塵も感じさせない雰囲気がすごい。
宗教観の違いから共感しづらいところもありましたが、彼らの中で信仰は生活の一部になっているのだなと思うと納得するところも多々ありました。
アニヤ・テイラーが気になって見た映画でしたが、この夏の〆に不気味な余韻を残してくれてよかったです。
暗い雰囲気が期待をあおります
魔女、どんな魔女か?と期待を込めて・・・・
信仰が厚すぎると悪魔を呼び寄せるのか?
信仰に違いがあっても良いのでは?
勿論、信仰が無くても良い。
そんな世界にはならないな・・・・
結局魔女は居るのですな。
ホラー+宗教=社会派!の秀作。
『ザ・ウィッチ(2015)』
原題 The VVitch: A New-England Folktale
※公開前にアップしようと思ってたのに遅くなってしまいました。
※後半ネタバレあります。
※長文です(笑)
(あらすじ)
1630年、ニューイングランド。宗教上のちょっとした意見の違いから、村を追放された敬虔なクリスチャン一家。その長女トマシン(アニャ・テイラー=ジョイ)は、子守の最中に末っ子の赤ちゃんを誘拐されてしまう。そこから一家は恐怖に支配され、トマシンを魔女だと思い込むようになる。
魔女裁判:セイラム事件で有名なニューイングランドには、多くの魔女伝説が残っています。
本作のサブタイトルにもある ”A New-England Folktale(ニューイングランドの民話)” を読んでみると、魔女が生まれた過程が詳しく書いてありました。
ニューイングランドは「巡礼者の始祖」ピルグリム・ファーザーズを乗せた、”メイフラワー号”が辿り着いた場所です。
つまり信仰の自由を求めた清教徒達が、辿り着いて住み着いた場所なのです。
しかし自由を求めた代償は大きく、彼らは長く厳しい冬と、原住民との戦いに明け暮れるこことなります。
厳しい最初の冬は、彼らの半数を死に追いやったようです。
そんな厳しい生活の中で、彼らは支え合って励まし合って生活したか?
答えはNOです。
本作にも出てくるように、宗教上の意見の違いで追放し、ちょっとでも変わった容姿や、言動をすると、それだけで迫害されました。
他人と違っていることは、この時代は悪だったようです。
彼らは古くからの迷信や前兆、予兆、に"絶対的な”信仰を持っていたので、空を読んだり、見慣れない現象で未来を決めつけました。
でも、その予想があたらず、不運に見舞われた時には、それは誰か……、つまり”魔女”のせいにしました。
魔女は、隣の気に入らないおばさんだったり、近所の綺麗なお姉さんだったり。告発する人の気分次第です。
厳しい生活の中で、いつ不幸に見舞われるか分からない恐怖、不安が、互いに告発しあう閉鎖的な村社会の中で、大きく膨らむ。
多くの魔女裁判は、このような鬱積した生活環境から生まれました。
本作ではこのようなお話が、まるでゴヤの黒い絵のように、禍々しく、美しく、描かれていました。
(以下ネタバレ)
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トマシンは魔女と疑われ、結果的に家族を失い、森へ向かいます。そこしか行き場がないように。そこには、血まみれで狂ったように踊る全裸の女性達がいます。
トマシン。英語表記はThomasinです。
キリスト12使徒の一人、トーマスと、sin(宗教的な意味での罪・原罪)が合わさっています。
このトーマスさん、調べてみると面白いですよ。
「なぜ疑うのか」
映画『哭声/コクソン』でも、ラストでそんな台詞がありましたね。
あ、次は『哭声/コクソン(2016)』の感想書きます!
そして考えるのです。
現代における魔女はなにか?
魔女はきっと作られるのです。
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