「視点の違いが「時間」を生む」ダンケルク f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
視点の違いが「時間」を生む
2020年8月2日追記
★現在形の視点が目撃した客体が、別の視点の主体であるという気づきが発生することで、「時間」の考え方がうまれる。それは「同時性」や「事象の前後関係(発生順序)」だ。
すべてを現在形として語りながら、視点の違いに気づかせることで、回想という形式を用いずに時間の前後関係を整理させようとした。
出来るだけ人間の原(現)体験をそのまま映像にしながら、時間の経過を観客の中に生み出そうとした
オモテ(表面的なこと=映像)
裏(私たちの中で起こること)
オモテの楽しみ方→アクション、現在起こっている危機に対処すること
裏の楽しみ方→現在形で提示された映像を整序すること
★他人事(と自分ごと)
過去のことを回想としてではなく現在形で語る
視点の違いに登場する時、「過去」という着想が生まれる
現在形で提示された事ごとのあいだに前後関係を見出し、過去と現在の関係を正しく見出すこと
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ダンケルクという映画を構成するのは、「陸」「海」「空」の3つの主観だ。
「陸」「海」「空」それぞれの視点の持ち主である主人公どうしは、基本的にはそれぞれ異なる場所にいるけれども、しばし同じ場所・時間を共有し、助けたり、助けられたりという相互作用(この「相互作用」が命のやり取りに限定されている点が、「単に生存すること」をテーマに、余分なものを切り詰めて『ダンケルク』が作られたことを分からせてくれる。)を及ぼしあう。
ここで大事なのは、命の相互作用をし合う人々は、赤の他人どうしのまま映画が終わるということ。そして、「主人公たちが同じ時間・同じ場所を共有している」という我々の判断は、あくまで主人公たちの主観を通して行われるのであり、俯瞰的な映像を通してではない、ということだ。
娯楽映画に対して観客が期待するのは、様々にすぐれた能力を持った人間が、知り合い、仲間意識を持って共闘することだ。顔を合わせ、言葉を交わし、自己紹介をし会った登場人物たちは、共闘を深めるにつれて互いを知り合い、話題はしばしば彼らの過去に及ぶ。
そこには登場人物の過去という設定があり、設定に従って、登場人物たちの行動が帰結する。これは過去のノーラン作品の全てのストーリー作りのやり方である。
特に『インセプション』『インターステラー』において、「帰りたい」「我が子に会いたい」という動機からシンプルに「だからミッションを達成する」という登場人物の動機を単純に帰結するというやり方が明確になった。
『ダンケルク』にはそれがない。誰もが生存したいと願う。生存したいと願えば、みなやることは同じだ。だから登場人物には、過去の設定の必要がない。みな無個性に捨象されている。ダンケルクは、『プライベート・ライアン』のような、能力と過去によって兵士たちがキャラ付けされた部隊のロードムービーではない。
わずかに「ムーンストーン号」の船長には、「戦争で息子を亡くした」「だから若者を助けるんだ」という動機があると示唆される程度だ。
「過去を設定するかどうか」を変えることで、登場人物の知り合い・共闘の有無が変わる。これはノーランが『インセプション』で我々に見せたのとは異なる。3つのミッションがありそれぞれに主人公がいる点は共通している。それぞれ平等に上映時間が割り当てられているけれど、「実際」の時間の長さは異なるという点も、共通している。けれど3つのミッションがより大きな1つの目的の達成のもとで統合されるかどうかは異なっている。ダンケルクにおいては、3つのミッションを統合するより大きな目的はなく、それぞれがそれぞれの目的に向かい、個人で動いている。
この「統合の不在」が、観客の期待にそぐうものではないという場合もありえる。特に映画に娯楽を、派手さ、豪快さを求める観客にとっては。しかし戦争というのはそういうものだ。現実の経験というのはそういうものだ。人々は互いの過去を深く知り合うことがないし、少人数の戦闘力で反撃に出て大逆転が起こることもない。『イングロリアス・バスターズ』のような少数精鋭部隊による戦局の大転換は存在しない。サッカーの試合のテレビ中継の視界を、芝生に立つ当のプレイヤーたちが持つことはない。
我々は「陸」「海」「空」の各主人公が、どのような順序でイベントを経験し、どのイベントにおいて他の主人公と同じ場所・時間を共有したか,1つのt-xグラフに表すことができる。しかしそのような俯瞰的な図は、映画の中で示されるものではない。
映画の中で示されるのは、あくまで主観のみである。 劇中で主観が提示される順序は、そのような主観が実際に体験されたであろう順序-ニュートン力学的絶対時間における順序-とは異なる。したがって観客は、このような俯瞰図を作成するにあたって、まず異なる複数の主観による複数の報告が実は共通の同じ事象についての報告であると確認する「同定」作業を行わなければいけないし、また実際とは異なる順序で提示される複数の事象を、発生順に並べ替える「整序」作業を行わなければならない。
これまでのノーラン作品の中でも特に『プレステージ』は、整序作業が観客に要求される映画だった。『バットマン・ビギンズ』も、前半部は過去と現在を交互に行き来する作品だった。だが同定作業は要求されなかったように思う。新たに同定作業(同定作業にかんしては、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の得意であるように思う。『灼熱の魂』に始まり、『プリズナーズ』『複製された男』『メッセージ』『ブレードランナー2049』のいずれもが、同定に関する映画であった。)を要求した点が、『ダンケルク』の持つ新規性ではないか。
これらの主観は、いわばある事件の目撃証言である。観客はいわば事件を捜査する刑事であり、刑事の仕事は、複数の目撃証言から、事件を、1つの無矛盾な物語として語ることだ。この点において、ダンケルクは戦争映画でありながらじゅうぶんにミステリ映画でもある。
普通のミステリであれば、この作業を行うのは劇中の登場人物である刑事、探偵、教授、医者であったりするのだが、ノーランはこの作業を観客に行わせる。この映画は物語というよりも、物語を作る素材なのだ。
このような同定-整序作業を、巻き戻しの効かない映画館の上映中にやらせるというのは観客は認知能力を試されるし、観客をテストするような作品の製作-上映の承諾を映画会社から取り付けてくるところにはノーラン監督の持つ知名度、宣伝効果が見込まれているのだろう。
俯瞰的映像を減らし、視界の狭い主観的映像を多用したのには別の効果もある。それは閉塞感の表現であり、また戦争において兵士が大局観を得ることのできないことの強調だ。
前者を利用した映画としてはネメシュ・ラースロー監督『サウルの息子』を挙げたい。