「邦題に違和感」雨の日は会えない、晴れた日は君を想う 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
邦題に違和感
映画も印象的だったが、邦題が雨の日は会えない、晴れた日は君を想う──となっていたせいで、よく憶えている。
よく知らないのだが、外国映画の邦題は誰が付けるのだろうか。
わたしの想像だが、配給会社の社内で「こんどはきみが付けてみろよ」みたいな感じで振られた職員が「え、いいんですかあ」とか言って、えいやと付けるんじゃなかろうか。
わたしは大昔から無粋な邦題に気をもんできたが、何も変わっていない。どうでもいいと言えばどうでもいい──のかもしれない。
しかしわたしだけでなく、大勢の映画ファンが、長年にわたって、付け焼き刃の邦題を問題視してきたはずである。そのまま表記するか、直訳するか、たんにカタカナにすればいいのである。
人様の映画に、なぜ、名付け親がいるのだろうか。
なぜそんなことが許されてしまうのだろうか。
IMDBには、その映画の、各国の公開時期が載っている。そのJapan欄だけが、各国とは異なるタイトルが、日本語のローマ字表記で書かれているのである。
なんか──すごく恥ずかしい。
邦題を付ける機関は、いったいどんな状況で、映画の題名が発声せらるる──と考えているのだろうか?
「なんていう映画?」→「えっと『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』っていうの」
こんな会話が成り立つと考えているんだろうか?
日本で、外国映画の会話が成り立たない理由に、邦題のいい加減さがある──個人的には本気でそう考えている。
タイトルを聞かれたときに「忘れた」とか「なんだっけ」としか言えない。なぜ言えないのかといえば──こっ恥ずかしいからだ。とてもじゃないが、雨の日は会えない、晴れた日は君を想う、なんてタイトルを発声することはできない。
これを名付けた誰かはデイヴィスの悲しみに寄り添ったつもり──なのは明白だ。
しかし、この映画は、叙情をみるのは人それぞれに任せてあるからこそ「解体」と簡潔に命名されたのではないだろうか。叙情が題に露われてしまうのは下世話で、ばあいによっては改ざんともいえる──と思う。
なぜなら、深淵に追い詰められた彼の闇を『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』でポエムに流してしまっているからだ。
このタイトルは主人公の抱えた複雑な心象を──妻を失って悲しみに打ちひしがれた男──に単純化してしまっている。この映画は、そんなポエティックな話じゃない。
こういった話はAn Officer and a Gentlemanが愛と青春の旅立ちと邦題されてしまった時より前から山のように転がっていた。積もり積もって人々は映画の話を避けて通るようになったのである。どう考えても、日常会話のなかに、愛と青春の旅立ちはそぐわない。
ただし、邦題の方法が改悛されるとは、思わない。企業というものは頑迷なものである。
本題とチルダでつながった副題のある邦題をレビューに転載するときの、あの一抹のこっぱずかしさ。
邦題の名付け親にはぜひそれを大声で連呼してもらいたい。