「痛みが再生につながる。」雨の日は会えない、晴れた日は君を想う kazuyaさんの映画レビュー(感想・評価)
痛みが再生につながる。
この物語が喪失と再生の物語であるならば、あらゆる機械を分解するシーンは、明らかに彼自身の心の喪失(破壊)のメタファーなのでしょう。
不調の原因を探ろうと思うなら、まず分解し、もう一度組み立てること。
彼は心の異常にとらわれ、分解と破壊という行為に昇華している。しかしそれらを組み立て直すことができない。というか組み立てることを放棄している。
デイヴィスの人生の中で、カレンとクリスの存在はどのように見ることができるだろう。カレンは恋人との関係に不満はないものの、その生活に幸せを見つけられないでいることをデイヴィスに告白している。だからこそ、カレンは夜中の2時にデイヴィスに最初のコンタクトを取るという暴挙に出たりしています。デイヴィスとカレンの関係はかなり曖昧。互いが強く求める存在でもなく、しかしいつの間にかお互いが自分のテリトリーの中に招き入れてしまう。カレンにとってデイヴィスは、恋人が与えてくれない何をあたえてくれる存在であったのか、また彼にとっては。
デイヴィスの視点で見るならば、カレンを追えば追うほど、破壊衝動は強まっているようです。それがそのまま冷蔵庫の雨漏りが増えたことのように、心の状態が悪くなっていくことの比喩であるならば、表面では安らぎを得られる場所であったとしてもそこに完全な癒しを見つけることができないのは、カレンが女性であり、妻の存在と相いれないものだからではないでしょうか。つまり、デイヴィスが確かに妻を愛していた。
クリスは学校になじめない子供。そして自分のセクシャリティに悩む子供です。その描写は突如として描かれていますが、最後のパーティで暴行されたのも、デイヴィスに送った手紙の内容から察するにそれが原因のようです。クリスは学校の決まりごとや他人と同調することに興味が持てない少年ですが、興味のあることについては驚くほどの表現力を見せます。偏った興味を持つクリスは、デイヴィスが自身で認める無関心という性質において、共通点があるのでしょう。
奨学金設立のパーティの夜が、決定的な破壊と喪失を3人に与えます。
デイヴィスにとっては、妻の妊娠と不貞の発覚。カレンはクリスの怪我と恋人との生活の崩壊、クリスは暴行を受けたことによる、自身への強い否定。
しかしデイヴィスはその後にメリーゴーラウンドを立て直すアイデアを義父に告げています。彼は妻の不貞の事実によって、初めて生の実感を得たのではないでしょうか。映画の中では少なくともその不貞を咎めることばは出てこない。確かにそれまで感情に上がってこなかった妻の死が、その事実を知ったことによって涙になるのです。のらりくらりと生きて来た彼の人生の中で、憎しみという感情によって初めて妻と向き合うことになる。
カレンはそれまでの恋人への不義と、息子クリスの存在と向き合います。
薬物中毒であることも息子に知られていたカレンはやはり後ろめたい気持ちがあった。彼氏への不義も息子に知られているし、決して健全な家庭ではない。そのすべての事実が彼女に突きつけられます。
クリスは自身の体を持って、喪失を経験します。セクシャリティの否定はほとんどが自己の存在の否定につながるものでしょう。
つまり、彼らは事実を突きつけられて痛みを知り、傷つく存在です。
彼が唯一、組み立て直したものが、メリーゴーラウンドです。傷ついた彼ですが、しかしその傷こそが再生への端緒となることを象徴的に表しているのだと思います。最後のシーンでは、対岸のビルが次々に爆破解体されるシーンが登場します。爆破に完成を上げる物見遊山の人々。そこにはこの物語で綴られる破壊という行為のポジティブな明るさが表されているのではないでしょうか。
この中で、カレンとクリスが担う役割とはなんなのでしょう。破壊と再生というテーマを強めること以上に、デイヴィスとの関わりの中に意義を問いたいですが、思いつかないのでこれは他の人の意見を見てみたいと思います。