「日本語タイトルが指すところ」雨の日は会えない、晴れた日は君を想う りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
日本語タイトルが指すところ
原題は「DEMOLITION」(解体、分解)。
これが何故、こんな日本タイトルになったのかしらん、と訝しく思うことしきりなのですが、それは観てみて、よくよく考えるとわかる。
金融会社のエグゼクティブを務めるデイヴィス(ジェイク・ギレンホール)。
彼がいまの地位にいるのは、妻のお陰。
妻の父フィル(クリス・クーパー)が会社の社長で、結婚を機にいまの地位を得た。
しかし、エグゼクティブとして多忙な日々は、妻との生活を遠ざけてしまっていた。
そんな中、デイヴィスは妻が運転する自動車に同乗していて事故に遭う。
そして、こともあろうか、妻は死に、自分は生き残ってしまう。
妻が不在の日々・・・
けれど、デイヴィスには悲しみの気持ちが湧いてこない・・・
というところから始まる物語で、デイヴィスの悲しみさえ湧いてこない空虚な心を抉(えぐ)り出すような映画である。
この後、デイヴィスは二つの行動をとる。
ひとつは、妻が亡くなった日、病院の集中治療病棟で利用したスナック菓子の自動販売機が不調で商品が出ず、そのことについてクレーム状を自販機会社に送ること。
その際、妻が亡くなった日であること、それをきっかけにして、妻と自分の過去を思い出し、クレーム状に綴っていく。
これは、その後、自販機会社の顧客担当カレン(ナオミ・ワッツ)とその息子との何やかやの事件へと発展する。
もうひとつは、事故に遭う直前に妻から頼まれた水漏れ冷蔵庫の修理。
「修理の前には分解することが必要」という義父の言葉を妻から思い出し、分解する。
ただし、分解ではなく、解体・破壊といったような状況。
その後、この解体衝動がデイヴィスにつきまとう。
解体したかったのは、さまざまなモノではなく、自分の心だということに気づいているのかいないのか判らずに。
解体した自分の心が、カレンとその息子との触れ合いで再生していく・・・
簡単に言えば、そんな物語なのだけれど、ひとえに演出に起因するのであろうが、気づいていく様がわかりづらい。
この映画でキーとなる台詞はいくつかあるが、いちばんのキーポイントは、自分の心と妻の心に気づいたデイヴィスが、終盤、フィルに言う台詞。
「愛はありました。しかし、疎かにしていました」
夫婦生活が危うくなっている中で、どうにかにして、幸せだった日々を思い出してほしいと、妻が発信していたメッセージを気づかなかったデイヴィス。
それに対して後悔を表した台詞である。
そして、妻が発信していたメッセージは・・・
ひとつは「水漏れを止めてちょうだい」、
もうひとつは「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」、
そして「椅子以外は、あなたは座るところに興味がないのね」。
ひとつめの「水漏れを・・・」は、妻がデイヴィスに頼む事柄であるが、冷蔵庫の内側に付箋紙で貼り付けられている。
これは、冷蔵庫自身が発している言葉でもある。
ふたつめの「雨の日は会えない・・・」は、自動車のサンバイザーに貼り付けられている付箋紙の言葉。
これも、サンバイザーが発している言葉であるが、同時に、妻がデイヴィスに発している言葉でもある。
最後の「椅子以外は・・・」は、デイヴィスと妻が、まだ幸せだった日に、海岸の古い回転木馬にふたりで乗った日、木馬に乗った妻が傍らに寄り添うデイヴィスに言った言葉(ただし、映画では台詞の音声は消されている)。
そして、これは、事故直前に妻がデイヴィスに投げかけた言葉。
いずれも、危機的状況の中で、わずかながらの希望と愛を信じて、デイヴィスに投げかけていた言葉。
デイヴィスは、それに気づかなかった。
そして、もうひとつ、この映画で重要な点は、妻が妊娠していて、中絶をしたということ。
映画の中で、妻の母親から、子どもは妻の情人の子どもだったとデイヴィスに告げられるが、そこのところは、あからさまには描かれない。
というか、妻に情人がいたことは、少しも描かれていない。
さらに、デイヴィスを付け回す自動車の主が、妻の情人ではなく事故の加害者だったということから考えると「情人はいなかった」と推察できる。
つまり、子どもはデイヴィスの子どもであったが、なんらかの理由で中絶したということ。
その理由は、エンディングからこれも推察すると、妊娠時検査により胎児がダウン症だったからではなかろうか。
推察する根拠は、
胎児のエコー映像に何らかの文書(診断結果と思われる)が一緒に出ていること、
エンディングで、妻と一緒に乗った回転木馬(解体ではなく修理している)に、ダウン症の子どもたちをたくさん乗せて楽しんでもらうイベントを行っていること、
そして、そのイベントで子どもたちと一緒になって義父も微笑んでいること、
などを挙げることができる。
そういう意味では、この映画の後半、物語はすこぶる厚く、ドラマチック。
なのだが、監督のジャン=マルク・ヴァレは、そんなドラマチックなストーリーテリングを拒絶するかのように、説明を省略し続ける。
「愛はありました。しかし、疎かにしていました」、それさえ判ればいいだろうといわんばかりに。
これだけ長々とレビューを書いたのは、観終わって、この映画にどこかしらの蟠り(わだかまり)を感じたから。
ストーリーテリングを拒絶するようなぶっきらぼうな演出と、その奥に隠されていると思われるドラマ性。
それを、自分なりに読み解いてみたかったから。
まぁ、かなり、一緒に観た妻に助けられたところはあるんだけれど。
評価は結構迷ったのだが、演出のわかりづらさはやはり減点せざるを得ないだろうから、この点数としておきます。